「詩客」短歌時評

隔週で「詩客」短歌時評を掲載します。

短歌評 何度でも愛せ、マグダラのマリア 千種創一『砂丘律』の不穏と罪と 平居 謙

2019-12-18 15:50:42 | 短歌時評


1 異国の香のする歌集
   
 千種創一『砂丘律』を読んだ時、梶山千鶴子句集『國境』(72年)のことを思い出した。その中には「潮遠し乳房めきてマンゴ熟れ」「水牛と歩合はせ炎天雲もなし」のような、日本の風景を見ている限りでは出てこないだろうと思われる色彩感覚豊かな俳句が所狭しと並んでいる。いわゆる「異国情緒に満ちた」作品集というわけである。海外詠としては加藤楸邨『死の塔』(1973年)や1996年アメリカ旅行で書かれた句群を収めた鷹羽狩行句集『翼灯集』(2001年 角川書店刊)などが有名だが、梶山の句はそれらに先駆けて出された海外詠の先駆的な作品集であった。
 『砂丘律』の場合、『國境』のような派手な色彩という意味での異国情緒はない。その代わりに砂と埃に満ちた不穏な空気感が渦巻いている。これも現代の日本に見られない強い異国性である。しかし決定的な違いは、単なる「旅行者」というスタンスを超えて現地で生活する人間の持つ目線というものを感じさせるという点である。千種本人が、2019年7月14日ジュンク堂池袋本店内カフェにおけるトークイベントの中で、次のように語っている。

 いわゆる「アラブの春」が起こる前に、シリアとトルコを旅行しました。でもそれくらいです。大学卒業後にヨルダンに住み始めました。…(中略)…千種:砂丘律は時系列に編まれていないので、中東に住み始める前の歌もかなり入っています。そのあたりの歌はかなり想像、というか妄想です。…(中略)…妄想と現実が一致しないのはよくある話なので、実際に住み始めてから修正したり、歌集には収録しなかった歌などもあります。中東に住み始めてからは、非日常が日常になっていく感覚はありました。

 旅行者としても移住者としても中東という「現地」に触れた体験を持たない僕にとって、どの部分が妄想でどれが修正された後の現実かは判断がつかないのだが、そもそも自身がそのように意識するということ自体旅行者の立場ではなかなかないことなのだろう。たとえば、

  駅前の、舞う号外の向こうからいきなり来るんだろう戦火は p141

 という歌が歌集中ほどにあるが、これは現地に住んでいなくても「戦火の唐突さ」を想像する力があれば書けないわけではない。しかし、次の歌となるとそういうわけにはゆかない。

  雨上がり歩く僕らへ放たれた新緑からの雫の弾丸 p168

 旅行中だって、雨が降り雨が上がり、雫が樹々から落ちてくるということもあるだろう。しかしそれを「雫の弾丸」と≪実際に感じる≫ためには相当な現地への馴染みが必要だという印象を持つ。また、ちょうど現地の環境に慣れてゆくプロセスの思考を現わすのではないだろうかと想像させるものに次のような作品がある。

  開花でも語るみたいに戦線は小さな動画に北上をする P191

 日本の春の風物詩としておなじみの、桜前線北上情報で戦線の動きをとらえるのは、まだ日本に住んでいた時の発想が強く残っているのではないだろうかと僕は読んだ。桜前線と戦線の北上を同時に想起させるのはかなりのブラックユーモアだが、花びらの舞う様子が軽く散る兵士たちの命と重なって、異様な迫力を感じてしまう。そのほかにも、「砂漠」「実弾」「戦況」等の言葉が現れて、これだけでも日本では読めない短歌だという実感が歌集を開いた瞬間に強く思われるのである。また、後ろから二番目の「山羊や羊の群れ」の歌は、日本でも北海道くらいであればあり得るかもしれないが、素直に読めばまず中東の羊飼いたちの生活を想起させるものだろう。最後の「暗がりに水牛」の歌も「水牛」の語一つで読者は異国に連行されてしまう。

  (口内炎を誰かが花に喩えてた)花を含んで砂漠を歩く P133

  実弾はできれば使ふなといふ指示は砂上の小川のやうに途絶へる p151
  
  戦況も敵もルールも知らされずゲームは進む 水が飲みたい P165
   
  雑踏の気配に窓の下みれば山羊や羊の群れの蠢き P129
  
  偶然と故意のあいだの暗がりに水牛がいる、白く息吐き  p231

 また、短歌作品以外でもところどころで力強い引用や、作者自身のつぶやきが随所に挿入されていて、この歌集を読む行為自体が異国体験そのものであるという思いが募ってくる。

  偉そうに歩くな  大地の土は死者から出来ているのだから

                           アブルアラー・アル=マアッリー(973年~1057年)P66

  砂漠を歩くと、関係がこじれてもう話せなくなってしまった人と、
                 死んだ人と、何が違うんだろって思う。 P242

2 本質としての不穏さ  

 しかし「異国情緒」というのは、この歌集のいわばハード面に過ぎない。中東に関する歌、中東で詠まれた歌という枠を外しても、千種の短歌は強い輝きを発している。特に、その不穏な空気感を伝える力というのは群を抜いている。これほどにまで、不安な感覚を読者にうまく届けることのできる書き手は少ないのではないか。

  遠からず君はおどろく飲みさしの壜のビー玉からんとさせて  P48

  朝までにボートが戻らなかった白い喇叭はこなごなにして  P55

  僕の汚いものを詰め込みゴミ袋さげて濃霧の畑を抜ける    P62
  
  防犯カメラは知らないだろう、僕が往きも帰りも虹を見たこと P75

  気がつけば水のまったくない部屋にぬるいMacintoshの眠り  p119

  幾何学模様みたいな心で路線図をにらむ(逸らせば泣いていただろう)P237

 「遠からず」の歌は、「」が何か不吉な事態を君に告げるのかもしれないと読んだ。君は、「壜のビー玉からんとさせ」るような感じで立ち尽くしてしまうだろう。それを思うと忍びない、けれど僕は君に伝えなければならないのだ。ありふれた現実に内在する不安を垣間見せる歌だ。
 「朝までに」の語り手はどこへゆくのだろう。「白いラッパ」は敗北の印である白旗をイメージして読んだ。「こなごなにして」しまうと、もう敗北の信号を伝える事さえできない。かつて存在したことさえもがかき消されてしまうという徹底したどん詰まりの感覚を受け取った。
 「僕の汚いものを」の歌では、「ゴミ袋さげて濃霧の畑を抜ける」のだが、その「ゴミ袋」は自分自身の汚れの象徴である。歩きながら僕は何を思うのだろう。皮膚に突き刺さるような虚無をそこに感じる。
 「防犯カメラは」の歌は、「往きも帰りも虹を見た」という、とてつもなく豊かな体験を伝えて来る。だから読者としては少し嬉しい気持ちにもなる。しかしよく考えてみれば、そういう豊かさは、防犯カメラでは決して把握されないということを同時に指示している。それだけに却って「評価の対象となる現実」のみすぼらしさが鳥ガラのように浮かび上がってくる。
 「気がつけば」の歌は部屋の中に引きこもってしまったような印象がある。静かであるがそこには安逸の感覚が一切ない。不気味な「Macintoshの眠り」の低音が響いている。
 「幾何学模様みたいな心で」は、いずれ必ず「泣いて」しまう運命ぎりぎりのところを描いている。ずっと「路線図をにら」み続けることなどできないからだ。子どもの頃、親に叱られて「泣くな」と言われて、けれども涙が目の前に溜まって落ちてゆくのをどうしても我慢できなかったような、居たたまれなさをこの歌からは感じる。
 『砂丘律』は、異国情緒に満ちた歌集だ。しかし、そのハード面を取り外して「中東でない世界」のものに限っても、そこにはやはり不穏な気持ちが底の部分に流れている。砂丘を取り去っても、律は残っているということだ。

3 読者は中東へ中東へと自然向かってゆく

 この歌集は、目が覚めるほどに面白い、斬新でもある、文学が本質的に所有しているべき暗さも持ち合わせている。ただ僕がひとつ困ったことには、「中東」のイメージをかぶせる必要がないだろう歌にまで、強迫観念のようにそのイメージを読者が自ら重ねて読んでしまう、ということであった。前節3に上げた歌は、「中東」とかぶせずに素直にそれだけで味わえるのだが、次の歌群はどこか中東の雰囲気の中で読もうとしてしまう僕自身がいる。

  鯉がみな口をこちらに向けていて僕も一種の筒なんだろう   P48

  どら焼きに指を沈めた、その窪み、世界の新たな空間として   P78

  種のあるはずのあたりは溜池のように透けてる種無しの柿  P170

  幾重にも重なる闇を内包しキャベツ、僕らはつねに前夜だ   p194
   
 「鯉がみな」は、鯉とくればこれは日本の風景だろ!と考えようとしても、「」の言葉がどこか銃身を思わせて、紛争の中に身を置く存在を頭のなかから払拭することができなくなってしまう。まあ、勝手にそうのようにイメージして読んでも、それは全然かまわないと思うが、鯉がばかのようにこっちをむいて口を突き出し麩をねだっているような飄々とした面白さが、この読み方をするとちょっと翳ってしまうきらいがある。
 「どら焼きに」も、日本の歌でしょ!と思いたいが、砂漠の中に、地雷によって窪地が生まれるような印象を一旦持ってしまうと、不穏なエネルギーが中東という雰囲気によって倍増し、単純にどら焼きに指がめり込む面白みというのを素直に受け取れなくなってしまう。
 「種のある」の歌は「本当はここに存在したはずの喪われたものを悼む」という印象の強い歌である。前者「どら焼きに」の歌に似て、日本に極めて関わりの深い「種無しの柿」の歌であるにも関わらず、どこかぽっかりと一地区が空爆によってすっぽりと地図から抜け落ちてしまったそんな事態について詠んでいるのではないかと深読み(なのかどうか)してしまうのは「中東」というハード面の持つ力だろう。
 「幾重にも」の歌も同じだ。キャベツが中東でどのくらい食されているのか僕は知らない。しかし、日本にだってキャベツはあるし、別に中東に特有な言葉が出てくるわけではない。にもかかわらず難民キャンプ地に重なるように建てられたテントとその中で不安な日々を過ごす人々のイメージがせりあがってくるのを防ぎようがない。つまり、日本で暮らす僕らには言葉通りの意味で「前夜」といえるほどに切羽詰まったものが存在しないということなのだろう。
 ことさらにそう読む必要のないものまで、この歌集の中の作品が「中東」の意識を強く読者に印象付ける。僕は2節の最初で≪しかし「異国情緒」というのは、この歌集のいわばハード面に過ぎない。≫と書いたが、実のところハード面に過ぎないと見えるその舞台は、意識の底までいつの間にか染み入って、日本での歌と読んでもいいだろう作品でさえ、そこに本質としての不穏さをなみなみとたたえており、それが読者をどうしてもこの歌の舞台を「中東」へと引きずってゆく。

5 僕の選ぶベスト3

 それでは最後に僕の選んだベスト3を挙げておこう。

  梨は芯から凍りゆく 夜になればラジオで誰かの訃報をきいた P30

  みることは魅せられること 君の脚は汗をまとったしずかな光 P55

  声が凍えているな、秋、何度でもマグダラのマリアを愛してしまう P62

 ベスト3「梨は芯からの歌。前節までで僕はこの歌集の本質を「不穏」と見たが、文字通り不穏な歌。しかし「訃報」とあるから不穏な感じが伝わるのではなく、前半に「芯から凍りゆく」梨というアイテムを登場させておくからこそ「訃報をき」いて心凍る感じがより一層うまく伝わってくる。
 ベスト2「みることは」の歌。不穏、で満ちているこの歌集だが、そんな世界の中にも美しく素直な作品が散りばめられているのは救いだ。「みることは魅せられること」と作者は大きな嘘を言う。それは「」を見るからこそ魅せられるのであり、この非理論的な一般化の仕方の中にこそ逆説的な意味で詩が息づいている証だ。光が汗をまとうという表現の美しさよ。そしてそれが君の脚の表象であるという驚き。「汗をまとったしずかな光」という表現を注視して改めて思う。
 ベスト1「声が凍えているな」の歌。「マグダラのマリア」は罪深き女性。声さえも凍えるような秋。もしかしたら魔性の女性の前に語り手は立っているのかもしれないし、ある種の決断に迫られているのかもしれない。「マグダラのマリアを愛してしまう」とは何の謂いだろうか。それは罪の思いを共有するということかもしれないし、また、肉体的に何度も求めてしまうという文字通りの肉欲を意味することがらかもしれない。いずれにしても、慄きながらも罪深い女の前に額づく単独者の心細くも屹立した決意のようなものが心に直截刺さってくるようで痛くまた切ない。


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