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詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

後藤光治『松山ん窪』

2018-04-10 11:26:28 | 詩集
後藤光治『松山ん窪』(鉱脈社、2018年03月01日発行)

 後藤光治『松山ん窪』は、「宮崎抒情詩」の系列の作品である。一括りにしてはいけないのだが、古くは菱田修三、嵯峨信之、最近なら本多寿、杉本昭人、谷元益男。ただし、嵯峨と本多とのあいだには完全な断絶がある。いま書かれているのは「新・宮崎抒情詩」というものかもしれない。
 宮崎にはもうひとり、みえのふみあきという忘れられない詩人がいる。私は、みえのふみあきの作品がとても好きだ。みえのふみあきは、彼らのなかではかなり異色だ。「新・宮崎抒情詩」には、属さない。
 宮崎弁(すべてではないが)は、独特のイントネーションがある。でも、不思議なことに「新・宮崎抒情詩」に限らないが、「書きことば」では「方言」が気にならない。他県の人の詩は、どこかでつまずくが、彼らの詩ではつまずかない。「音」が読みやすい。それで、私はついついひとくくりにしてしまう。

 「新・宮崎抒情詩」は「現代詩」とは距離をおいている。「いま」、ここに書かれている生活があるとは、私には思えない。
 たとえば後藤の「枯れ枝」。

女たちは
雑木林へ分け入った
木立をかき分けて行くと
枯れ枝の折れる乾いた音がした
厳しい生活のなかで
女たちは
竈や風呂の焚き木には
鉈を揮って枯れ木を集め
山の斜面を下りた

 「記憶」の風景だろう。
 「枯れ枝の折れる乾いた音がした」という一行に「宮崎抒情詩」の特徴があらわれている。こういう行は好きだ。
 一方、「厳しい生活」という表現にも、一種の「くせ」のようなものがある。「厳しい」ということばがなくても「厳しい」はわかるはずなのだが、念押しのように書いてしまう。そこに、ざらっとした理性というが、突き放したような冷たさを私は感じ、私はどうしても好きになれない。
 ついつい「竈や風呂の焚き木」なんて、「いま」では「贅沢」に属する。高齢化が進む「限界集落」では、ガスや電気がないと生きていけない。雑木林へ入ったら、老人はもう出てこれない、というようなことを言いたくなってしまう。
 でも、この詩を取り上げてしまうのは。

先日 僕は
あの頃の山に分け入った
母と来た場所に来ると
どの木も
母が鉈を揮う恰好をしていた
そして風が
枯れた木立の中を
溜息のように吹いていた

 「母が鉈を揮う恰好をしていた」が、とてもおもしろい。木そのものが鉈を揮うときの母親の形をしていたのか。そうではなくて、母ならば、その枯れ木に鉈を揮うだろう、その木を伐って薪にするだろう、ということだと思う。鉈を揮うのにふさわしい(?)木の形だろうと、私は「誤読」し、おもしろいと感じた。
 母と枯れ木が瞬間的に入れ代わる。なぜ入れ代わるか、入れ代わることが可能かというと、母と枯れ木は、枯れ木をたたききって薪にするという「暮らし」のなかで「一体」になっているからだ。区別がないのである。
 だからこそ書くのだが。
 「溜息のように」という比喩は、私には納得がいかない。「厳しい生活」ということばの「厳しい」と同じように、「世界」を突き放している。自分とは関係がないもののようにみつめている。実際に、そういう「暮らし」をしていると、「厳しい」ということば思いつかない。
 山に入る。切れない鉈で必死になって枯れ木をたたききる。つかれる。息があがる。それこそ、終わったころには「溜息」が出ると「想像」してしまうが、私の実感では違うなあ。溜息というよりも「安堵」である。あ、これで竈の火が炊ける、きょうは風呂に入ることができる。それは「うれしさ」である。
 ひとは誰でも、つらく苦しい「暮らし」を生きている。けれど、それを「他人」には言われたくない。たとえ、それが「母子」の関係であっても。いや、「母子」の関係なら、なおさらそうである。母なら、溜息をつくかわりに、「おまえも良くがんばったね。きょうはこれで風呂が焚けるよ」と言うのではないか。
 本多からはじまった、この「架空の山村物語」は、「架空」独特の美しさをもっているが、貧乏な生活をくぐり抜けてきた私には、何か、むかっ腹がたつところがある。



*


「詩はどこにあるか」3月の詩の批評を一冊にまとめました。186ページ

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目次

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石毛拓郎「藁のひかり」15  近藤久也「暮れに、はみ出る」、和田まさ子「主語をなくす」19
劉燕子「チベットの秘密」、松尾真由美「音と音との楔の機微」23
細田傳造『アジュモニの家』26  坂口簾『鈴と桔梗』30
今井義行『Meeting of The Soul (たましい、し、あわせ)』33 松岡政則「ありがとう」36
岩佐なを「のぞみ」、たかとう匡子「部屋の内外」39
今井義行への質問47  ことばを読む53
水木ユヤ「わたし」、山本純子「いいことがあったとき」56 菊池祐子『おんなうた』61
谷合吉重「火花」、原口哲也「鏡」63

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「正しい王道」の選挙とは?

2018-04-10 09:59:03 | 自民党憲法改正草案を読む
「正しい王道」の選挙とは?
             自民党憲法改正草案を読む/番外204(情報の読み方)

 2018年04月10日の読売新聞(西部版・14版)の政治面に小さな記事がある。

 「安倍辞めろ」ヤジ/首相「選挙妨害だ」/昨年の都議選

 民進党・大島九州男の質問に対して、昨年の都議選で安倍が街頭演説中、市民が「安倍辞めろ」と野次を飛ばしたことに対して「選挙妨害だ」と答えた。さらに、

「候補者の話を聞いて判断するのが選挙だ。正しい王道の選挙を戦いましょうということを訴えた」と強調した。

 大島がこの答えに納得したのかどうか書いていない。
 即座に大島は反論しないといけない。

 「候補者の言っていることが事実に基づいているかどうか判断するには、その裏付けとなる資料が必要である。昨年春の森友学園、加計学園、自衛隊日報の問題以来、国民には正確な資料が(情報)が提供されていない。情報は隠されたままだ。都議選、秋の参院選は正しい王道の選挙だったと言えるのか」

 予算委で、大島がどういったのか政治面の記事には書いていないが、絶対に、そこから追及すべきだ。
 参院選は、加計学園問題を審議するのを避けるために、臨時国会が冒頭解散されて行われた。加計学園と安倍の関係を隠蔽するために行われた。
 昨年の国会をそのまま繰り返しているように、いまの国会では森友学園の文書改竄が取り上げられ、つづいて自衛隊日報が取り上げられている。加計学園でも「文書改竄」がおこなわれたことが一部で報道されている。今後、国会のテーマになるかもしれない。
 昨年、「正しい情報」が提供されていたなら、こんな二度手間みたいな審議は必要はない。安倍が「正しい情報」を提供しなかったことが、すべての原因である。

 「正しい情報」を提供せずに、「候補者の話を聞く」というのでは、候補者の嘘を信じろということである。安倍の話を黙って聞いて、黙って従えということである。
 安倍は常に、反対意見を封じ込める。私は、これを「沈黙作戦」と呼んでいる。安倍以外の人間に沈黙を強要し、従わせる。独裁である。その際に、「あんな人たち」と「安倍の友だち」を選別する。「あんな人たち」を排除する。しかし、「あんな人たち」と排除した人間からも税金をとるのが、安倍なのである。


#安倍を許さない #憲法改正 #天皇退位 
 


*

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2018年5月20日(日曜日)13時。
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憲法9条改正、これでいいのか 詩人が解明ー言葉の奥の危ない思想ー (これでいいのかシリーズ)
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自民党改憲案(3)

2018-04-09 12:03:22 | 自民党憲法改正草案を読む
自民党改憲案(3)
             自民党憲法改正草案を読む/番外203(情報の読み方)

 「参院選合区の解消」問題。
 現行憲法は、

第47条 選挙区、投票の方法その他両議院の議員の選挙に関する事項は、法律でこれを定める。

 と単純である。
 これを自民党は、こう変更する。(1)(2)は、私が便宜上つけた。

第47条 1項 両議院の議員の選挙について、(1)選挙区を設けるときは、人口を基本とし、行政区画、地域的な一体性、地勢等を総合的に勘案して、選挙区及び各選挙区において選挙すべき議員の数を定めるものとする。(2)参議院議員の全部又は一部の選挙について、広域の地方公共団体のそれぞれの区域を選挙区とする場合には、改選ごとに各選挙区において少なくとも一人を選挙すべきものとすることができる。
2項 前項に定めるもののほか、選挙区、投票の方法、その他両議院の議員に関する事項は、法律でこれを定める。

 「2項」は現行憲法を踏襲している。というか、現行憲法の条文は「2項」に押し下げられている。
 「1項」が重要なのだが、条文が長すぎて、意味がわかりにくい。
 (1)はは、どういうことか。
 現実の衆院選と参院選にあてはめてみると、わかりやすい。
 衆院選。「一票の格差」を是正するために、「市区町」という「行政区域」がそのまま「一つの選挙区」とはなっていないところがある。福岡市の場合、たとえば「福岡2区」はかつては中央区・南区・城南区の全域となっていたが、南区の一部が5区へ、城南区の一部が3区へ移動した。つまり、「行政区域」が一部で「分断」された。これを「やめる」ということ。
 参院選。鳥取県と島根県、徳島県と高知県では「県単位」の選挙区ではなく、ふたつの県が合わさって一つの選挙区になった。これを「やめる」。
 (2)で、さらに補足して、「都道府県単位」で最低一人以上の議員を選出できるようにしている。
 これは、どういう狙いがあるのだろうか。
 「一票の格差」が少しだけ改善されたのだが、それをもとに戻してしまうことになる。国民の「法の下の平等」がないがしろにされる。国民が訴訟を起こし、司法が現行の選挙制度は一票の格差を生み、「違憲」であるという判断を示した。その結果、やっと少し改善されたのに、それをもとに戻してしまう。
 なぜか。
 自民党の議席を確保するためである。参院選の「合区」が端的に示している。それまでは「鳥取県、島根県、徳島県、高知県」でひとりずつ、計四人議員が選ばれたのに、この制度では合計二人になってしまう。二人減になる。
 でも、議員数の確保だけではない。
 それは(1)の市区町の行政区域の「分割」を解消するという部分にあらわれている。なぜ行政区域の「分割」がまずいのか。「行政区域」ごとに国民を支配するという「制度」が揺らぐからだ。言い換えると、「行政区域」ごとに国民を支配する(独裁をおしつけるシステムを強化する)ためなのだ。
 「衆院選福岡2区」を例にとると。たとえば南区にある「法令」が適用されたとする。そのとき、「私は南区の住民だが、選挙区は2区だから南区に適用される法令は関係ない」と主張するということが起きるかもしれない。これでは「統制」がとれない。そういうことを避けるためである。
 
 だから、というか。その「証拠」に、というべきか。
 「合区の解消」を「名目」にしながら、憲法の改正は「47条」だけではなく、さらに別の狙いへ向けて動く。「47条」は「第4章 国会」のなかの条文だが、この改正が「第8章 地方自治」の「92条」にまで波及している。
 なぜなのか。

 現行憲法は、

第92条 地方公共団体の組織及び運営に関する事項は、地方自治の本旨に基いて、法律でこれを定める。

 と短い。これが、こう変わる。

第92条 地方公共団体は、基礎的な地方公共団体及びこれを包括する広域の地方公共団体とすることを基本とし、その種類並びに組織運営に関する事項は、地方自治の本旨に基いて、法律でこれを定める。

 「基礎的な地方公共団体」というのは「市区町」のこと、「広域の地方公共団体」というのは「都道府県」を指している。「行政区域」と「選挙区域」を合致させるために、「地方公共団体」を定義し直しているのである。
 そして、このとき、その「広域の地方公共団体(都道府県)」を定義するのに「包括する」ということばが挿入されていることを見落としてはならないと私は考える。
 「包括する」は、すぐに「統括する」にかわる。上下関係ができる。
 地方自治では、いま「分権」が進んでいるが、これに逆行することが、これから起きるのだ。「分権」ではなく「権力の統合」が再編成される。安倍の独裁を強めるためである。
 「合区が解消される」「分割がなくなる」というだけでみつめてはいけない。
 司法判断にもとづいて、国会で決めた「合区」「分割」を否定し、権力の都合でもとに戻してしまう。そこに、すでに「独裁」が動いている。憲法で決めたのだから、「一票の格差は違憲だ」と訴訟を起こすことは許さない、という「独裁」が動いている。

 「合区の解消」という「名目」にだまされてはいけない。「名目」の陰で陰謀が動いている。47条改正を前面に出して、92条の改正についてはなるべく触れないようにしている。それこそが「狙い」だからだ。


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*

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井崎外枝子『出会わなければならなかった、ただひとりの人』

2018-04-09 07:38:04 | 詩集
井崎外枝子『出会わなければならなかった、ただひとりの人』(草子舎、2017年12月01日発行)

 井崎外枝子『出会わなければならなかった、ただひとりの人』の「さみしい椅子」は静かな詩である。

その人を座らせた記憶に
椅子は向かい合っているようだ
テーブルには
その人の読みかけのページがめくられたまま
椅子だけが その人の身体の形をして待っている
たがいに長年 寄り添い 支え合った
その記憶が 椅子のいまのすべてで
椅子はただ その人を待っている

 「その人の身体の形をして待っている」は、椅子に「その人」の形が残っている。たとえば座面(クッション)がへこんでいるということだろう。具体的な描写である。しかし、同時にそれは椅子に託した井崎の「身体」の比喩でもある。このときの「身体」とは単に「肉体」ではなく「精神」をも含んでいる。
 椅子にその人が座っていた、と井崎は思い出している。その椅子に井崎は向かい合っている。そのとき椅子はその人である。
 椅子は井崎であり、その人であり、また椅子そのものでもある。以前は椅子は椅子であり、その人はその人であり、井崎は井崎だったが、いまはその区別がない。その人がいないために、三つの存在は三つではいられなくなり「ひとつ」になっている。
 「ひとつ」だからさみしいのか。
 「ひとつ」だけれど、瞬間瞬間に椅子になり、その人になり、井崎にもなる。三つになる。
 三つにわかれてしまうから、さみしいのか。
 両方である。
 三つは、さらにいくつもに分かれていく。

布地の汚れややぶれ
ささくれ立ちまで顕にし
椅子は 毛羽だった顔をして
じっとその人を待っている
ページを開くものは もういない
次のページすら めくることはできない
色とりどりの付箋もアンダーライン一本さえ引けない
椅子はただじっと見ている

 「その人」は本のページになり、付箋になり、アンダーラインになる。本のページから、付箋から、アンダーラインから「その人」があらわれてくる。それを「椅子」も井崎も知っている。
 この「さみしさ」は「カップ一杯の…」と言い換えられている。

ようなものだった
なのに 一杯は
何をもってきても
釣り合わないのだ
まるで底しれぬ谷か
山のような険しさで

 「釣り合わない」。「その人」と「椅子」は釣り合わない。けれども入れ代わる。釣り合うものがない、正確な比喩(?)にはならない。言い換えがきかない。けれども、「言い換え」を求めてしまう。探してしまう。「こころ」が「釣り合い」をとろうとして。


*


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(3)評論『天皇の悲鳴』72ページ。1000円(送料250円)
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劉暁波『独り大海原に向かって』

2018-04-08 21:00:57 | 詩集
劉暁波『独り大海原に向かって』(劉燕子・田島安江訳・編)(書肆侃侃房、2018年03月20日発行)

 劉暁波『独り大海原に向かって』のなかに「天安門事件犠牲者への鎮魂歌(レクイエム)」という作品が十九篇ある。「一周年追悼」から「十九周年追悼」まで。ただし「十二周年追悼」が二篇あり、「十四周年追悼」はない。「十四周年」(2003年)に何があったのか。わからない。
 「一周年」の詩には「死の体験」というタイトルがついている。

記念碑が声を殺して哭いている
流血が染み込んだ大理石のマーブル模様
心が、思いが、願いが、青春が
戦車の錆びたキャタピラーに轢き倒され
東方の太古の物語が
突如、鮮血となって滴り落ちてきた

 この書き出しよりも、私は二連目の方が好きである。

ぼくはもう旗が見分けられなくなった
旗はいたいけな子どもみたいだ
母親の死体にすがりついて、泣き叫ぶ
「ねえ、おうちに帰ろう よー!」

 これは天安門の「実景」かどうかわからない。死んだ母親のとなりに子どもが泣いていたかどうかわからない。たぶん「子ども」は「旗」の比喩なのだと思う。「旗」は支える人(持つ人)がいないと倒れてしまう。死体のそばで、旗は力なく倒れていただろう。倒れているから、どこにあるかわからない。「旗が見分けられなくなった」とは「翻る旗を見ることができない」という意味だろう。
 そう読んだ上で、「比喩」の力というものを、ここに見る。
 旗は母親が死んだことを知らずに泣き叫んでいる。ここはいやだ。お家へ帰りたい。「家」とはどこなのか。旗にとって、「家」とは何なのか。
 逆に、「家」にとって「旗」とは何なのかも考える。「旗」は「家」の象徴である。「旗」を目印に、ひとは「家」へ帰ってくる。
 瞬間的に、子どもは「旗」に向かって、「もう一度、翻って、目印になってくれ」と叫んでいるようにも見える。
 「比喩」というのは、論理的には別の存在であることによって「比喩」として成り立つのだが、いったん「比喩」になってしまったら、それは区別がつかない。瞬時に入れ代わりながら動く存在である。(「きみは薔薇のように美しい」と言ったとき「きみ」と「薔薇」は別個の存在だが、それは固定化されたものではなく、入れ代わることで「意味」が明確になる。)
 ここには天安門を直接見た人間の、強い視力が生きている。動いている。「見分けられない」には「否定」の意味があるが、この否定を肯定に変えていく強い力が、ことばとなって動いている。
 こういうことばを読むと、「天安門」にいるような錯覚にとらわれる。
 5連目の次の部分も強い。

夜更けてとあるたばこ屋の前で
ぼくは数人の屈強の男に襲われた
手錠をかけられ、目隠しされ、口もふさがれ
どこに向かうかわからない護送車に投げ込まれた
ただハッと気がついた ぼくはまだ生きていると

 「ぼくはまだ生きている」。それまでは「生きている」という実感がなかった。それまでの実感は「死になくない」だったか、「逃げなければ」だったか。
 この「気づき」が、そして、周囲の「死」の絶対性をさらに強調する。「生きている」と気づくことで、死んだ人がいる、その死が意識に入ってくる。死を放置して、ことばを動かせない、と自覚させる。
 「気づく」はまた「わかる」でもある。どこに向かうか「わからない」が、いきていることは「わかる」。「わかる」ことをことばにし、「わかる」を広げていく。
 「ぼくはまだ生きている」というところから、劉はすべてのことばを動かし始めるのである。

 「記憶(六周年)」では、次の部分。

旅に出るときの彼らはまだ若かった
地面に倒れる瞬間
一縷の生きる望みのために懸命にもがいていて
火葬場に投げ込まれたときも
そのからだはまだ柔らかかった

 「生きる望み」という「名詞」が「もがく」という「動詞」で言い換えられる。「肉体」がもがいているのだが、それは「希望」がもがいているのだ。火葬場に投げ込まれたときも、柔らかいのは「からだ」だけではない。「希望」そのものも柔らかいのだ。
 「生きる希望」(生きたいという欲望)だけではなく、「彼ら」にはもっともっとことばにならないままの「希望」があった。その「希望」は語られることなく(ことばになることもなく)、焼かれてしまった。
 ここでも、ことばは入れ代わる。入れ代わることで、単独では見えないものを明確にする。

 「ぼくはぼくの魂を解き放つ(七周年)」の最後。

ぼくには障がいがあるで
決して脱出できない
この都市から、この時代から
ただ一つ幸いなのは
ぼくには追放された霊魂がついている
足もなければ眼もないが
松葉杖だと前に進める
方向はどこでもよく
雨風を避ける必要もなく
あちこちをたださまようばかり

 「松葉杖」の「比喩」はわからない。わからないから、考える。「追放された霊魂」とは天安門で死んだ人の霊魂である。足をなくして死んだ人がいるだろう。眼を撃ち抜かれて死んだ人がいるだろう。そのひとたちが「ぼく」の「松葉杖」になるということだろう。そのひとたちに導かれて、どこへでも行く。方向は決まっていない。その人たちが生きたいと思うところがどこであれ、そこへ行かなければならない、と劉は感じ、それをことばにしている。

 「一枚の板の記憶(十二周年)」を読む。

夕暮れ、すぐ近くに
血まみれの死体がひとかたまりになって
横たわっていた 撃ち抜かれて
大きな穴の開いた頭は
黒々として血なまぐさい
板の木目に染み込んだ
つぶれた豆腐のような白いもの
あれは何だ

あれは何だ ぼくにはわからない けれど
彼はぼくよりずっと勇敢
ぼくのふる里の硬い石ころのようで
ぼくよりずっと脆くて痛々しい

 「あれ何か」は「わからない」。しかし、「わかる」ことがある。「彼はぼくよりずっと勇敢」であること、が「わかる」。そして「勇敢」とは特別なことではない。それは「ふる里の硬い石ころ」のように、ただ、そこに「ある」ということなのだ。
 そこに「ある」ものすべてが勇敢である。
 これは、逆説的に、「彼を殺した者」は「勇敢ではない」と告発しているのだ。天安門事件で暴力をふるった者たち、武装し、彼らを殺したものたちこそが「勇敢」からほど遠い存在なのだ。戦車が石ころを破壊したのだ。戦車が石ころを恐れたのだ。

 「あの春の霊魂(十八周年)」にも「わからない」ということばがつかわれている。

 ぼくにはよくわからない。霊魂があの残忍な春を昇華させたのか、
それとも残忍さそのものが春をもって霊魂を昇華させたのか。

 「霊魂」と「残忍」と「春」。それは互いに互いの「比喩」になりながら動く。切り離せない。別個のものを強烈な力で結びつけ、それを瞬間的に入れ替えてしまう。そのとき、詩が動く。
 詩は美しくロマンチックなものばかりではない。
 詩は、ただ「強い」ものである。


*


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今度は「稲田切り」、あるいは「あいまい」の定義

2018-04-08 14:23:45 | 自民党憲法改正草案を読む

今度は「稲田切り」、あるいは「あいまい」の定義
             自民党憲法改正草案を読む/番外203(情報の読み方)

 2018年04月08日の読売新聞朝刊(西部版・14版)の2面見出し。

イラク日報/稲田氏指示あいまい/防衛省、本格調査せず

 記事は見出しの通り。
 安倍は、今度は「稲田切り」で状況を突破しようとしているらしい。
 ことあるどこに「自衛隊の最高指揮官」と言っているのに、こういうときは姿をあらわさない。自分が「最高責任者」であるとは言わない。
 好都合なことに、稲田はもう「防衛大臣」ではない。どれだけ批判されようが、「防衛大臣辞任」という形で追及されることはない。そう認識した上で、「稲田の指示があいまいだったから、日報のみつからなかった」ということにしてしまう。日報がみつかってからも稲田に報告されなかったのは、やはり「稲田の指示があいまい」だったからということにしてしまおうとする。
 ここから私が考える「問題点」はふたつ。

(1)安倍の「最高責任者(最高指揮官)」であるけれど、実際に「責任」をとるのは、部下であるという姿勢。「森友学園文書」の問題は「財務省」の責任。財務省でまず責任が問われなければならないのは財務大臣だが、麻生は、最高責任者の安倍が責任をとらないという姿勢をそのまま踏襲し、責任は財務局長の佐川にあるという具合に責任を転嫁する。
 今回の問題では、稲田が辰巳総括官に口頭で「日報は本当にないのか」と質問し、辰巳がこれを「指示」と受け取り、部下の担当者にメールで問い合わせをさせている。担当者は、日報がほんとうにないのか、「探索いただき無いことを確認いただいた組織・部署名を本メールに返信する形でご教示いただけますでしょうか」と各部署にメールしている。ここまで書いている(情報公開されている)ということは、ゆくゆくは稲田の責任ではない→辰巳の責任ではない→メールで問い合わせた担当者の責任である、というところまで「転嫁」先を広げるということなのかもしれない。
 稲田の指示は「あいまい」だったかもしれないが、責任は稲田にはない。稲田はすでに大臣を辞め、責任をとっているから、これ以上追及できないというつもりなのかもしれない。
 しかし、こういうことが「戦争」でおこなわれると、どうなるか。作戦が不適切で戦死者が出る。そのとき安倍は、実際に指揮をしたのは私ではない、幕僚長に責任を転嫁し、幕僚長も責任を部下に転嫁する。結局は、死んだ隊員の「自己責任」と言うかもしれない。あるいは、殺したのは「敵」の方。敵に責任がある。私には責任はない、と言い張るだろう。「日報」問題に引き戻して言えば、「日報」が必要な状況を引き起こしたイラクにこそ責任がある、というようなもの。まるで、笑い話である。

(2)稲田の指示は「あいまい」というが、「あいまい」の定義は何か。どういう指示なら「あいまい」ではないのか。「日報は本当にないのか」という「質問」は、確かに「指示」にはなっていない。「日報の存在を調べろ」とは言っていないのだから。
 だが、これを読売新聞が書いているように、辰巳が口頭の質問を「指示」と受け取り、「ないことを確認しろ」と部下に伝達しているなら「指示」として成立している。実際に「無いことを確認いただき」という具合に、部下はメールに書いている。
 読売新聞は、部下のメールには「具体的に再調査を指示する表現はなく」と書いているが、「いただき」「いたただき」「いただけますでしょうか」という文言を書く立場の人間が、「具体的に、どこそこを再調査しろ」と「指示」できるわけがないではないか。
 組織の「人間関係」を無視して、下っぱいじめをしてどうするんだ、と私はかなり頭に来るのだが……。
 ここからが、大問題。きょう私がほんとうに書きたいこと。
 では、たとえば安倍が森友学園問題で、「私や昭恵が森友学園の土地売買に関与しているということが明確になれば、総理大臣も議員も辞める」という「発言」を、財務省(佐川)はどう受け止めたか、が問題になる。安倍の国会での答弁は、そこまでだが、言外に「関与が疑われる文書があるなら、それを始末しろ」という「指示」と佐川は受け止めなかったか。さらに佐川がどういう指示をしたかわからない(あいまい)だが、部下が「書き換え」だけではすまない、「削除しろ」という指示として受け止めたかもしれない。
 上司(権力者)の発言と、部下の「受け止め方」は、「ことばどおり」ではない。「指示」という形をとらなくても「指示」と受け止めることがある。受け止めなければならないことがある。受け止めることができなければ「理解力がない」と切り捨てられる。役人なら、上司に「理解力がない(能力がない)」と判断されたら、出世の見込みはない。だから部下は必死になって「理解」することに努める。「指示」を上回ることをやり、それを報告することで自己アピールをする。
 森友学園問題は、逆に考えてみるといい。
 安倍は「私や昭恵が森友学園の土地売買に関与しているということが明確になれば、総理大臣も議員も辞める」と言った。担当者は、「関与している」と思ったから必死になって交渉を手助けし、その「記録」も残した。でも「あれは関与ではなかった」というのなら、何も気にすることはない。「文書」はそのまま放置しておけばいい。こういう「理解」も成り立つ。
 けれど、放置しなかった。
 誰一人として「安倍や昭恵が森友学園の土地売買に関与していない」とは思っていない。だからこそ「関与している」ということを隠そうと必死になった。
 さらに言えば、安倍は、
 「私や昭恵が森友学園の土地売買に関与していなことは明白である。土地売買に関する交渉文書を調べればわかることである。文書を国会で公表しろ」
 そう指示すればよかったのである。
 安倍は「文書を公表しろ」とは言わずに、「私や昭恵が森友学園の土地売買に関与しているということが明確になれば、総理大臣も議員も辞める」と言った。これは、「文書を始末しろ」という「指示」以外のなにものでもない。

これから三つ目。
(3)最近問題になっているのは、ひとことでいえば「情報公開」の問題である。安倍は「情報」を公開しない。「情報」を捜査している。労働時間の調査の問題では、情報を捏造していた。
 どんな議論も「情報(事実)」が大切である。「事実」を踏まえて議論がはじまる。情報を与えないというのは、議論をさせないということである。
 これは、つい最近はじまったことではない。
 私が異様さに気づいたのは、2016年の参院選である。籾井NHK会長の時代である。参院選の報道をしない。投票の目安となる情報を提供しない。報道が少なくなると、既成の巨大政党が有利になる。少数意見は国民の目に触れることは少ない。
 直後の「天皇生前退位」や「憲法改正」では、安倍は「静かな環境」を何度も口にしている。「日露会談」でも「静かな環境」が口にされている。「静かな環境で議論する」とは、「反対意見を言わせない」ということである。
 天皇に「天皇は国政に関する権能を有しない」と実際にいわせることで、完全に沈黙させた。即位するとき「憲法を守る」と宣言した天皇がいては、改憲が進まない。総理大臣、国会議員には「憲法を守る」義務がある。義務がある人間が、「憲法を変える」と率先して発言することは憲法違反である。だが、天皇を沈黙させることに成功した安倍は、天皇も沈黙しているだから、国民は沈黙しろ、安倍の言うことを聞け、と独裁を進めるのである。
 議論させないために、不都合な情報は公開しない。必要ならば情報を捏造する。これが安倍のやっていることである。それに最初に協力したのが籾井NHKである。

 安倍の「沈黙作戦」とマスコミの関係は、「天皇の悲鳴」に詳しく書いたので、ぜひ、それを読んでください。



#安倍を許さない #憲法改正 #天皇退位 
 


*

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憲法9条改正、これでいいのか 詩人が解明ー言葉の奥の危ない思想ー (これでいいのかシリーズ)
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國峰照子「帽子屋」

2018-04-07 08:36:31 | 詩(雑誌・同人誌)
國峰照子「帽子屋」(「かねこと」13、2018年03月31日発行)

 國峰照子「帽子屋」は「帽子屋は言った」という一行からはじまる。

一日に五分でも日に当ててください
本来自然のなかの生きものですから

 なるほど。でも、こういう強い思い入れは、「うさんくさい」。「本来自然のなかの生きものですから」の「……ですから」は「理由(根拠)」を指し示す。「うさんくささ」は「論理」で説明するからである。
 私は、こういう「論理」を口にする帽子屋からは帽子を買わないだろうなあ。
 そのあと、こうも言う。

帰宅後はかならずブラシをかけてやってください

 これは、いいなあ。「ブラシをかける」という行動が具体的なので、そこに生きている人間が見える。「かならず」には愛情がこもっている。こういうことを言われると、帽子を買う気になる。
 「商売」は「ことば」しだいだね。

行き先は帽子の気分しだい
坂を下りるときまって帽子屋の前を通る
ブラインドの隙間から伺うような眼
わたしの右手がHiと鐔をあげる
そうしたいからでなく
帽子がさせるのだ

 「帽子」と「わたし」が入れ代わる。
 ここがおもしろい。
 「帰宅後はかならずブラシをかけてやってください」を守った結果、そうなったのだろう。「かならず」は「坂を下りるときまって帽子屋の前を通る」の「きまって」ということばに引き継がれている。
 「かならず」は「決める」ことで「気分」になる。「気分」が生まれる。この「気分」は「帽子」と「わたし」のあいだで共有される。こういうことを「一体になる」ともいう。





*


「詩はどこにあるか」3月の詩の批評を一冊にまとめました。186ページ

詩はどこにあるか3月号注文
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目次

森口みや「コタローへ」2  池井昌樹『未知』4
石毛拓郎「藁のひかり」15  近藤久也「暮れに、はみ出る」、和田まさ子「主語をなくす」19
劉燕子「チベットの秘密」、松尾真由美「音と音との楔の機微」23
細田傳造『アジュモニの家』26  坂口簾『鈴と桔梗』30
今井義行『Meeting of The Soul (たましい、し、あわせ)』33 松岡政則「ありがとう」36
岩佐なを「のぞみ」、たかとう匡子「部屋の内外」39
今井義行への質問47  ことばを読む53
水木ユヤ「わたし」、山本純子「いいことがあったとき」56 菊池祐子『おんなうた』61
谷合吉重「火花」、原口哲也「鏡」63

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ミズトリ: 國峰照子詩集「CARDS」より (風狂舎)
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荒木時彦『NOTE 003』

2018-04-07 08:09:19 | 詩集
荒木時彦『NOTE 003』(2018年04月01日発行)

 荒木時彦『NOTE 003』は薄い詩集だ。

bは、仕事帰りにコンビニエンスストアのイート・インで晩御飯を食べることにしていた。ゴミもその場で捨てられる上、一度食べて足りなければ、また買い足して食べればよい。効率が良く、便利だ。

 この部分を何度も読み返してしまった。「コンビニエンスストア」という言い方に、妙に、力がある。「コンビニ」と省略しない。
 この「省略しない」ことばが、そのあとのことばを動かしている。
 「ゴミもその場で捨てられる上」というのは、食べることからみると「逸脱」である。なくてもいいことばだ。腹が減っているから食べる。食べても足りなかったら、また食べる、ということとは無関係である。
 だが、無関係のはずの「ゴミ」と「捨てる」が、「効率が良く、便利だ。」へとしっかりとつながっていく。
 たしかに家で食べれば、ゴミをどこに捨てるか(いつ捨てるか)という問題が起きてしまう。コンビニを利用すれば、そこには「ゴミ」を「捨てる」場所がある。即座にそれを利用できる。「効率が良く、便利だ。」

 うーむ。

 私は考え込んでしまう。
 この詩集は、実は、

何が大切だったのだろうか?

 という一行ではじまっている。
 実際、何が大切だったのだろうか。
 食べることか、ゴミをその場で捨てることか。
 主題(テーマ)は「食べる」ことにあるように見えるが、「生きる」ということはテーマだけ成り立っているのではない。何を食べるかよりも、食べるときに出る「ゴミ」をどうするか、いつ、どこへ捨てるかの方が、もしかすると荒木を悩ましているのかもしれない。
 「食べる」を選びながら、どこかで「ゴミを捨てる」ということも選んでいる。
 どんなことでも、ことばにしてしまうと、思いがけない動きをする。


*


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廿楽順治「亀戸落語」、高階杞一「サザエさんの日々」

2018-04-06 10:07:56 | 詩(雑誌・同人誌)
廿楽順治「亀戸落語」、高階杞一「サザエさんの日々」(「ガーネット」84、2018年03月01日発行)

 廿楽順治「亀戸落語」。行末がそろったスタイルの詩なのだが、ネットではうまく表示されないので頭そろえで引用する。(同人誌で原文を参照してください。)

そのふてくされかたはなんでしょうか
おれは
おまえの受験のことなんかじゃおがまないよ
だってあんなにいのったのにこの国は負けたんだもの
(まだいってる)
おとうさんは死んだんですよ
数十年たって
わたしは息子の太一と生きながらえたままやってきた
でもこんなに
低姿勢のまま生きていくひつようがあるのかな
おれは点線でかこわれている
おまえたちは亀だから
そういうしつもんにはこたえられまい
(いや、おとうさんは死んでずれちゃったと思うんですよ)

 「ふてくされかた/ふてくされる」が(まだいっている)と言いなおされる。正確には「言い直し」ではなく、「ふてくされている」と感じた、その「感じ方」の方の言い直し。「ふてくされる」が客観描写なら、「まだいっている」というのは「批評(主観)」である。
 批評は短い方がいい。
 読みながら、そう思う。私のことばはいつも長々しい。終わりがない。批評になっていない。でも、私は批評を目指していいなからね、と言い訳をしておく。
 廿楽の詩は、「客観」と「批評」が交錯するところがおもしろい。そして「批評」が「文語」(正式な?文章)ではなく、「口語」であるところが魅力的である。
 だから、というのは、ちょっと強引な書き方だが、
 (いや、おとうさんは死んでずれちゃったと思うんですよ)
 という具合に長くなると、「批評」ではなく「批判」になってしまう。そうするとつまらない。長くなった分だけ「呼吸」が生きてこない。「頭」が動いている。
 批評は呼吸なのである。
 そして呼吸とは「肉体」のことである。
 途中にぱっとあらわれる「呼吸」、その「息づかいとともにある肉体」が、批評である。

空襲で死体がみごとな山になっていてな
なにが天神さまか
おとうさんはまだじょうずにしゃべっていた
(もしもし)
亀よ突貫亀さんよ

 (もしもし)の「切り返し」(ツッコミ、というのだろうか)を(いや、おとうさんは死んでずれちゃったと思うんですよ)と比較すると、その違いがわかると思う。



 高階杞一「サザエさんの日々」の「批評」は、詩のなかで、どう動くか。

マスオさんは工場から帰ってきて
まずお風呂に入ります
それから夕食
ふたりで今日あったことをいろいろと話します
今度の休みはどうしよう
まだこどもはいないけど
できたら
もう少し広い部屋に引っ越したいね
そのときはカーテンも新しいのに替えたいな
そんなふうに
話し合っているだけで
わたしは幸せに思えてくるのですが
マスオさんはどうかしら

 「そのときはカーテンも新しいのに替えたいな」が批評である。批評とは隠れていた欲望のことである。言いたいけれど言えなかったことが、ふいに噴出してくる。その瞬間、そのことばを発した人の「肉体」があらわれる。
 廿楽の「まだいってる」と同じ。




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最高指揮官は?

2018-04-06 09:04:06 | 自民党憲法改正草案を読む
最高指揮官は?
             自民党憲法改正草案を読む/番外202(情報の読み方)

 2018年04月06日の読売新聞朝刊(西部版・14版)の一面見出し。

陸自日報/防衛相「解明急がせる」/野党反発 審議影響も

 陸上自衛隊のイラク派遣時の日報の存在が1年以上公表されなかった問題の続報である。目新しいことは何も書いていない。見出し以上のことは書いていない。
 だから、私は考える。

 自衛隊の最高責任者(最高指揮官)って、だれだっけ?
 小野寺防衛相? 統合幕僚長?
 よく耳にするのが、安倍が言っていることば。ことし3月18日の防衛大学校の卒業式では、こう言っていた。

本日、伝統ある防衛大学校の卒業式に当たり、これからの我が国の防衛の中枢を担う諸君に、心からのお祝いを申し上げます。卒業、おめでとう。諸君の誠に凛々(りり)しく、希望に満ちあふれた姿に接し、自衛隊の最高指揮官として、心強く、大変頼もしく思います。

 官邸ホームページの資料によれば、この訓示の最後は、こう署名されている。

平成30年3月18日 自衛隊最高指揮官 内閣総理大臣 安倍晋三

 「最高責任者」とは言っていない。書いていない。しかし、「最高指揮官」と言っている。書いている。だから、「指揮官であって、責任者ではない」という言い逃れはできるだろうけれど、こういうことは「屁理屈」。
 さて。
 その「最高指揮官」は、この問題に対して、どういうことをしているのか。私は目についた記事しか読んでいないのでわからないが、何もしていない。私には、何もしないでいる、としか見えない。
 これは、おかしい。

 で、さらに考える。
 誰が、どうして、何のために、「日報」を隠したか。「最高指揮官」が指示したからだろう。「最高指揮官」の指示なしには、そういうことはしないだろう。「戦争の記録(日報)」を残さなければ、次の戦争に体験を生かせない。
 これは「森友学園文書改竄」も同じ。内閣の(行政の)最高責任者が指示しないかぎり、官僚は動かない。もちろん、こういうとき安倍が直接「財務省の職員」に指示を出すわけではない。安倍の指示を受けたものが、さらに指示を出すという形になる。職員に直接指示を出すのは直属の上司であっても、それは安倍の指示。
 何のために? 安倍の利益を守るためである。安倍にとっての「利益」とは何か。総理大臣をつづけること、である。
 昨年は、稲田を切り捨てた。今年は小野寺を切り捨てるのだろう。何のためか。安倍の利益のため、安倍が総理大臣をつづけるためである。
 「森友学園」に安倍と昭恵が関与していたなら、総理大臣、国会議員を辞めると安倍は言った。いままた関与が疑われている。文書改竄問題は解明されていない。その追及を逃れるために、「イラク日報」を引っ張りだしたのではないのか。シビリアンコントロールが問題になる、ということまでは考えず、ただ「目くらまし」を思いついたのだろう。
 昨年の防衛大学校の訓示では、こう言っている。

最高指揮官たる内閣総理大臣の片腕となって、その重要な意思決定を支える人材が出てきてくれることを、切に願います。

 安倍は「片腕」を求めている。いつでも切り捨てることのできる「片腕」を求めている。「重要な意思決定を支える人材」とおだてておいて、不必要になったら切り捨てる。佐川を「適材適所」と言い続けたことを思い出せば、よくわかる。
 さらに、このいつでも「片腕」を切り捨てるという姿勢からは、こういうことも想像できる。
 安倍がしたいのは、「戦争」であり、「戦争を指揮する」ことなのだ。戦争になれば、兵隊は指揮官の命令に従うしかない。命令に従うしかない状況をつくりだして、次々に「片腕」を切り捨てる。戦争だから、それは死ぬことにつながるのだが、その「戦死」を「御霊」と呼んで讃えて、それで「責任」を果たしたと言うつもりなのだ。
 さらには、「おじいちゃん(岸)は戦争を勝ち抜くことができなかったが、自分ならアジア諸国に勝てる」と思い込んでいる。「戦争に勝って、おじいちゃんの敵を討つ」と妄想している。それで「歴史」に名前が残ると妄想している。

 それにしても。

 いったい日本の現実はどうなっているのか。都合のいい数字だけをならべて「好景気」と言っているが、ほんとうか。景気がいいななら銀行が人員削減をするはずがない。銀行の行員が増えないかぎり景気がよくなったとは言えない。不都合な「資料」は全部隠し、「事実」を捏造し、世論を誘導する。これでは、第二次大戦時の「大本営発表」と同じだろう。
 日本国憲法の起草にかかわった幣原喜重郎首相が電車のなかで市民の一人がこう叫ぶのを聞いている。
 「いったい、君はこうまで日本が追い詰められていたのを知っていたのか。なぜ戦争をしなければならなかったのか。おれは政府の発表したものを熱心に読んだが、なぜこんな大きな戦争をしなければならなかったのか、ちっともわからない。戦争は勝った勝ったで敵をひどくたたきつけたとばかり思っていると、何だ、無条件降伏じゃないか。足も腰も立たぬほど負けたんじゃないか。おれたちは知らぬ間に戦争に引き込まれて、知らぬ間に降参する。自分は目隠しをされて場に追い込まれる牛のような目にあわされたのである。けしからぬのは、われわれをだまし討ちにした当局の連中だ」
 この「戦争」を「景気(アベノミクス)」と読み直せば、いまの日本である。
 「おれは政府の発表したものを熱心に読んだが、なぜこんな大きな犠牲を払って働かなければならないのか、ちっともわからない。好景気だ、好景気だというので、暮らしが楽になるに違いないと思っていたが、税金は高くなる、社会福祉は切り捨てられる。何だ、庶民はどんどん貧乏になっていくだけじゃないか。病院にも通えず、介護もされず、見捨てられる。おれたちは知らぬ間に、金持ちの金稼ぎに巻き込まれて、知らぬ間に捨てられる。貧乏は自己責任と言われる。目隠しをされて場に追い込まれる牛のような目にあわされている。けしからぬのは、われわれをだまし討ちにした安倍一派だ」
 安倍の言っていることには、何一つとして「事実」はない。
 何一つ責任をとらない「最高指揮官(最高責任者)」など許してはならない。




#安倍を許さない #憲法改正 #天皇退位 
 


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詩人が読み解く自民党憲法案の大事なポイント 日本国憲法/自民党憲法改正案 全文掲載
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高木敏次「幹」

2018-04-05 09:44:11 | 詩(雑誌・同人誌)
高木敏次「幹」(「ガーネット」84、2018年03月01日発行)

 高木敏次「幹」は、書き出しがわかったようでわからない。

忘れてきた私は
出来事が足りない
一人よりも少ない

 私は、何を忘れてきたのか。「忘れ物」という言い方があるが、高木は「出来事」と「事」ということばをつかっている。「出来事」を「忘れてきた」と読むことができる。その結果、「一人よりも少ない」という状態になっている。「出来事を忘れてきた私は、一人の人間と呼ぶには、忘れてきた出来事の分だけ少ない(不完全である)」ということになるかもしれない。
 だが、「忘れてきた私」を「私は何かを忘れてきた」と読み直すことは正しいのか。読み直したあと、確かめないといけない。
 「(出来事を)忘れてきた私」は「私」なのか。「私」ではないからこそ「一人よりも少ない」と言っている。それは「私」ではない。では、「忘れてきた私」と認識しているのは誰か。「出来事が足りない「一人よりも少ない」と考えているのは誰か。「忘れてきた私」そのものになる。「忘れてきた私」としか呼べない存在。その「忘れてきた私」が「出来事が足りない」「一人よりも少ない」と考えている。
 つまり。
 これは、言い換え不能。そのまま受け入れるしかないことが書かれている。

 言い換え不能、とわかりながら、それでも私は「言い換え」を探してしまう。大事なことは、ひとは何度でも言いなおすものであるからだ。
 詩のつづき。

迎えるもののたとえば
森の羅列
立看板の矢印
飛び出そうと身をくねらせると
近い広場がある
焦げ臭い空がある

 「たとえば」ということばがつかわれている。「たとえば」というのは、言いたいことを補足するためである。だから、ここから「言い換え(言い直し)」がはじまっていると読むことができる。
 ここに書かれていることは、「忘れてきた私」を言いなおしたものだ。
 「迎えるもの」は「忘れてきた私」を迎えるのか、「忘れてきた私」がむかえるのか、主語を特定するのは、この一行ではわからない。先を読んでも、実はわからない。「両方」と思うしかない。最初の三行で「私」を特定しなかったように、「迎え、迎えられる」を入れ替えながら、同時に考える必要がある。
 「森の羅列」は「森」よりも「羅列」の方が刺戟的である。「森」は「羅列」などしない。「羅列する/羅列している」のは、あえて言えば「木」だろう。ふつうにはつかわれないことばがつかわれている。だから刺戟される。「羅列」には「羅列する」という動詞が含まれている。「羅列する」は「立看板」も「羅列している」ということばを誘い出す。その「立看板」には「矢印」がある。「矢印」を動詞にすると、どうなるだろうか。「矢印する」とは言わないが、「矢の形(印)で指し示す」と言いなおすことがある。
 「忘れてきた私」に対して、何かを「指し示そうとするものがある」と感じる。それは「忘れてきた私」だからこそ感じることができるものであって、「忘れてきていない私」には見えない「印」である。
 その「忘れてきた私」にしか見えない(矢)印を見たとき、「忘れてきた私」に何が起きるか。
 「飛び出す」という動詞と、身を「くねらせる」という動詞。二つの動詞が動く。「矢印」が「飛び出す」、「身をくねらせる」と読むことができるが、「矢印」を認識した人間が矢印の方向に「飛び出す」「身をくねらせる」と読むことができる。いずれにしろ、ふかつの動詞は他動詞」ではなく「自動詞」だ。
 私は、「忘れてきた私」が動くと読む。つまり、ここで「出来事」が起きる。「足りない出来事(出来事が足りない)」を補うことになるのか、あるいは逆に「足りない」をさらに意識させることになるのか。「忘れてきた私」に何が起きる。何が「出来事」になるか。

近い広場がある
焦げ臭い空がある

 「ある」という「動詞」を発見する。「広場」「空」。あるいは「名詞」というのは、「ある」という動詞を必要とはしていない。「あるもの」の呼び方が「名詞」だから、それは「ある」を前提としている。
 言い換え不能は、言い換え不要でもある。言い換え不能、言い換え不要が「ある」ということだ。「ある」から、それでいいのだ。
 「森の羅列/立看板の矢印」には「ある」は書かれていなかった。ほんとうは「森の羅列がある/立看板の矢印がある」なのだが、その「ある」は省略されていた。それなのに、ここでは「ある」が補われ、「ある」と書かれている。言い換えると、ここでは「ある」が「認識」となっている。
 この発見された「ある」こそが、

忘れてきた私は
出来事が足りない
一人よりも少ない

 を言いなおしたものなのだ。「忘れてきた私」という存在が「ある」。「私」が「あり」、その「私」がなにかを(出来事を)忘れてきたのではない。「忘れてきた私」(名詞)そのものが「ある」。高木は「忘れてきた私」という「存在」を発見し、それに名前をつけたのだ。
 この「ある」の発見を促した「飛び出す」「身をくねる」に通じる動詞は、詩の後半にも出てくる。

木が鳴り出したらなら
そっと出てもよい
それでもやさしく
その幹をなでていると
汗が流れた

 途中を省略しているので、ここだけ読んでも何のことかわからないかもしれない。けれど途中を引用したとしても、やはり、わからないだろう。
 「木が鳴り出す」ということ自体に日常のことばではつかみきれないものがある。謎がある。わかるのは「鳴り出す」とは、やはり自動詞であるということだ。だかち、ここを「飛び出そうと身をくねらせると」の部分の言い直しとして読み直す。
 「自分」で動いている。「鳴らす」ではなく「鳴る」。そして、それが「出る」につながっている。「矢印」の方向に「飛び出した」ように、「木が鳴る」ように、「出てもよい」のである。
 何から?
 「私」からである。「忘れてきた私」から、「そっと出る」。「汗が流れる」ように、「身」から「出る」。
 そういうことが、書かれている。
 そういうこととは何か。これをさらに言いなおすのはむずかしい。「そういうこと」とだけ書いておく。

私を忘れた男は
どこかに住んでいて
立ち上がり
熱い果物のようなものが込み上げた
私が駆けてくるのではないか
振りかえる

 「汗が流れた」と動詞が「過去形」になって、「出来事」が客観化されたのにあわせて、「種明かし」がされている。最初の方に見た「身をくねらせる」は「振りかえる」という動詞で言いなおされている。
 「一人よりも少ない」、つまり「欠けている私」を「ある」存在として、瞬間的に認識したのだ。
 どういう「私」も「ある」。そういうものとして「ある」。


*


「詩はどこにあるか」3月の詩の批評を一冊にまとめました。186ページ

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目次

森口みや「コタローへ」2  池井昌樹『未知』4
石毛拓郎「藁のひかり」15  近藤久也「暮れに、はみ出る」、和田まさ子「主語をなくす」19
劉燕子「チベットの秘密」、松尾真由美「音と音との楔の機微」23
細田傳造『アジュモニの家』26  坂口簾『鈴と桔梗』30
今井義行『Meeting of The Soul (たましい、し、あわせ)』33 松岡政則「ありがとう」36
岩佐なを「のぞみ」、たかとう匡子「部屋の内外」39
今井義行への質問47  ことばを読む53
水木ユヤ「わたし」、山本純子「いいことがあったとき」56 菊池祐子『おんなうた』61
谷合吉重「火花」、原口哲也「鏡」63

谷川俊太郎『聴くと聞こえる』(下)68


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嵯峨信之の詩集『時刻表』を批評するという形式で詩を書いています。
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2016年の「象徴としての務め」メッセージにこめられた天皇の真意と、安倍政権の攻防を描く。
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隠蔽工作の目的は?

2018-04-05 08:45:48 | 自民党憲法改正草案を読む
隠蔽工作の目的は?
             自民党憲法改正草案を読む/番外201(情報の読み方)

 2018年04月05日の読売新聞朝刊(西部版・14版)の一面見出し。

イラク日報 昨年3月確認/陸自 防衛相に報告なし

 私は疑り深い人間なので、いろいろ考えてしまう。なぜ「日報」を隠し続けたのか。それをいまごろ公表するのはなぜなのか。
 単純に考えると、
(1)自衛隊が「日報」を公開すると問題が大きい。「存在しない」(見つからなかった)ということにしてしまう。自衛隊が自主的に「隠蔽した」ということになる。シビリアンコントロールを逸脱している。
 ここからわかる問題点。
①防衛省は自衛隊を把握していない。防衛省に自衛+隊を管理する能力がない。防衛相は失格だし、任命した安倍にも責任がある。 
②自衛隊がそういう組織(自分にとって不都合な資料は隠す体質)ならば、その自衛隊を憲法に書き加え、自衛隊に対する批判を封じるという安倍の改憲案はとても危険だ。「合憲化」ささた自衛隊の暴走を誰もチェックできない。
③だから、自衛隊を内閣総理大臣の直接監督下に置くという改憲案を追加する。(これは安倍による軍事独裁を憲法で保障するということになる。つまり、今回の事件は自衛隊の「暴走」にみせかけて、安倍が仕組んだものとも考えることができる。)

だが、こうも考えることができる。
(2)自衛隊は防衛省に報告していたが(つまり内閣もその事実を知っていたが)、それを公表しなかった。国会で「日報は存在しない」と答弁したので、その答弁にあわせて「事実」を隠した。
 ここからわかる問題点。
①安倍は、「事実」から議論を始めるのではなく、「答弁」が先にあり、それにあわせて「事実」を捏造する。「事実」を隠蔽する。森友学園文書の改竄につうじる。
②森友学園問題で、安倍昭恵が証人喚問されることになってしまうと、収拾がつかなくなる。なんとしても昭恵の証人喚問を避けたい。視点をずらす(別の方向に誘導する)ために、あえていまの段階で公表する。
③国民に事実を知らせないことを基本とする(嘘の資料しか提供しない)安倍が、自衛隊を憲法に書き加えるとき、その「条文」には嘘が含まれていることになる。どんな嘘か、どんな問題点があるかは、改憲案について触れたときに書いたので簡略化するが、安倍の案は軍事独裁を推進するための案である。
(すでにふれたが、ここから考えなおすと、「(1)の③」を狙って、安倍が仕組んだものと考えることもできる。)

(3)「日報」の存在は、自衛隊、内閣だけが知っていたのではなく、複数の自民党議員によって共有された認識だった。安倍を倒し、次の総理大臣を狙っている組織が「クーデター」を起こした。
 ここからわかる問題点。
①自民党(公明党)議員は、国民のことを考えていない。ただ自分が「権力」をもつことだけを考えている。いかに「権力」のトップにつくか、しか考えていない。
②そういう自民党(議員)が、自衛隊を憲法に書き加えることで狙っているのは、やはり軍事独裁である。

 自民党の改憲案と時期をあわせるようにして起きた事件なので、改憲案と結びつけながら事件を見ていく必要がある。この事件を、改憲案に自民党はどう反映させようとしているのか。どう利用しようとしているか、ということを視野に入れて見守らないと、重大なことを見逃すことになる。

 それにしても。
 一連の「事件」からわかることは、あらゆる「資料(情報)」が複数の機関(部署)で共有されていないということだ。
 財務省の資料、防衛省(自衛隊)の資料が複数の部署で共有されていたなら、「存在しない」という状況は起こり得ない。
 権力の「秘密主義」が引き起こした事件である。



#安倍を許さない #憲法改正 #天皇退位 
 


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憲法9条改正、これでいいのか 詩人が解明ー言葉の奥の危ない思想ー (これでいいのかシリーズ)
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ジョー・ライト監督「ウィンストン・チャーチル」(★★★★-★)

2018-04-04 21:14:35 | 詩集
ジョー・ライト監督「ウィンストン・チャーチル」(★★★★-★)

監督 ジョー・ライト 出演 ゲイリー・オールドマン、クリスティン・スコット・トーマス

 イギリスはやっぱり「ことばの国」。映画の最後に、「チャーチルはことばを武器にかえて戦場にのり出す」というような台詞があるが、まさにことばで戦う。
 人間はことばがないと考えられない。
 で、この一点からこの映画を見ていくとき、では「ことば」で何を考えるかという問題をこの映画は描いていることに気がつく。
 「第二次世界大戦」を、どうことばにする。
 ヒトラーの軍事力に立ち向かうのはむずかしい。フランスは侵攻され、ベルギー、オランダは降伏する。イギリスに脅威が迫っている。ダンケルクでは30万人のイギリス陸軍が孤立している。
 一方に「和平交渉」を考えている人間がいる。ヒトラーと交渉し、イギリスの「安全(平和)」を願う人間である。彼らは、戦争と平和、戦争と安全ということばを中心にして考える。イギリス(自分の生活)を考えの「出発点」としている。
 他方、チャーチルは違う。自由か服従か、ということばを中心に考える。イギリスを出発点とするのではなく、ヒトラーを出発点として考える。ヒトラーは独裁者である。独裁者を許していいのか、ということからことばを動かしている。
 この違いはなかなか「見えにくい」が、見逃してはならない。
 子爵(?)議員は、「自己の安全(平和、ここにはたぶん自己の財産も含まれ)」守りたい。イギリスを守るというよりも、自分を守る。そのために「交渉」したい。ヒトラーに対しては「恐怖」を感じるが、たぶん「憎しみ」は感じていない。「いま」を守りたいと考えているといえばいいかもしれない。イギリスが戦場にならなければいいと考えている。そして、このときの「ことば」が向き合っているのは、実は、第二次大戦でもヒトラーでもなく、チャーチルである。ヒトラーと交渉する前に、チャーチルを説得しなければならない。
 チャーチルは違う。イギリスを守らなければならないのはもちろんだが、それ以上にヒトラーの独裁を阻止したい。ヒトラーの存在を許しがたいと感じている。自己の平和、安全、財産ではなく、自由を守りたいという考えの方が強い。ヒトラーはどういう人間か、それを「出発点」にして、ことばで世界を描き出す。
 このチャーチルが、どう見ても「完全敗北」という状況のなかで、どうことばの力を取り戻すのか。「和平交渉派」の議員を説得することばを見つけ出すか。
 ここが映画のいちばんのポイント。
 チャーチルは、市民のなかに飛び込み、そこで「ことば」を探す。市民はどういうことばをつかって考えているか。それを確かめる。市民と話す。そして市民のことばを結集する。自分のことばで語るのではなく、市民の声を自分の声のなかに引き込み、「合唱」させる。複数の声である。その複数の声のなかのどれかは、ひとりひとり市民の声とどこかで重なる。だから聞いたひとは、「そうだ、それを言いたかった」と納得する。
 シェークスピアが複数の人間の声を聞き取り、それを芝居にしたように、チャーチルは市民の複数の声を聞き取り、増幅させ、ことばにしている。(市民の力の活用という点では、民間の船を大量動員してダンケルクからイギリス軍を救出したのと同じである。)
 このことばの力を、チャーチルは、いったん「閣外大臣」を相手にたしかめ、効果を確認した上で、さらにことばを整え国会で演説する。これは、すごい。
 ことばと声のドラマ(映画)として、とてもおもしろい。
 いまの日本の政治家、特に安倍と比べると、その違いがわかる。官僚の書いた文章を、ルビまでふってもらって、やっと読んでいる。ルビがないと、「云々」すらも読めずに「でんでん」と言ってしまう。安倍には、安倍自身の「ことば」がないし、また市民から声を聞き取り、それをことばにする能力もない。
 日本国憲法の起草にかかわった幣原喜重郎首相が電車のなかで聞いた男の声「いったい、君はこうまで日本が追い詰められていたのを知っていたのか。なぜ戦争をしなければならなかったのか。おれは政府の発表したものを熱心に読んだが、なぜこんな大きな戦争をしなければならなかったのか、ちっともわからない。戦争は勝った勝ったで敵をひどくたたきつけたとばかり思っていると、何だ、無条件降伏じゃないか。足も腰も立たぬほど負けたんじゃないか。おれたちは知らぬ間に戦争に引き込まれて、知らぬ間に降参する。自分は目隠しをされて場に追い込まれる牛のような目にあわされたのである。けしからぬのは、われわれをだまし討ちにした当局の連中だ」を大切にしたのと同じである。この市民の声が「戦争放棄」という「ことば」に結実して言った。
 市民の声をことばにしていくのが政治家の仕事なのだ。

 で。
 こういうことばの力を描いた映画なのに。
 あのチャーチルの特殊メイクは何なのだろうなあ。がっくりしてしまう。顔が似ているかどうかなど関係がない。体型も関係がない。
 もっと、ことばのドラマが引き立つような「演出」をしてほしかった。少なくとも、「チャーチルそっくりさん」ではない人間が、チャーチルの考えをことばにする過程を描いた方が、ことばの力が伝わったと思う。
 この特殊メイクにがっかりして、★を1個減らした。
(2018年04月04日、KBCシネマ1)

 *

「映画館に行こう」にご参加下さい。
映画館で見た映画(いま映画館で見ることのできる映画)に限定したレビューのサイトです。
https://www.facebook.com/groups/1512173462358822/

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白井知子「タブリーズの古い古いバザール」、吉本洋子「重力談義」

2018-04-03 11:18:22 | 詩(雑誌・同人誌)
白井知子「タブリーズの古い古いバザール」、吉本洋子「重力談義」

 白井知子「タブリーズの古い古いバザール」(「幻竜」27、2018年03月20日発行)には、夢と現実が交錯する。

この辺りだ
扉のノブをまわす

チャルドの女性に迎えられた
この香りはどこからかしら 妖しくも惹きつけられる
--マントの男性が来ませんでしたか
--誰もいないわ わたしだけよ

 白井はマルコ・ポーロの後を追っている。「マントの男」とはマルコ・ポーロである。マルコ・ポーロは過去の人間だから、その人間が来たことを実際におぼえているひとはいない。だから「質問」そのものが「夢」なのだが、こういう「夢」を「いま」という「現実」のなかでも、私たちはふと「こぼして」しまう。「思い描く」というのはいつでも「いま」のことだから、「思い描く」とは「過去」を「いま」に呼び出すことだから、うまく受け止めないとこぼれてしまうのだ。
 チャドルの女性は、もちろんマルコ・ポーロのことをたずねられたとは気がつかない。でも、せっかくの来たのだからと、白井に薔薇の花を編み込んだドレスをつくる。

欲しいのなら 代金は客人のあなたが決めて
そのままコートを着れば大丈夫よ
手持ちのドルを渡す
それで結構
わたしたちが出会えた証し こんな祝祭もいいものじゃなくて

 そうか、「出会い」は「祝祭」なのか。「祝祭」なら「時間」がなくなる。「いま」を突き破って、マルコ・ポーロがここにあらわれてきてもいい。実際、白井はここではマルコ・ポーロになって、タブリーズのバザールをさまようのだ。
 薔薇を縫い込んだドレスを着ることは、マルコ・ポーロになることだ。
 そして、そのあと、こんなことばを聞く。

花びらの方を素肌につけて眠れば 当分
枯れることはありません
体温と水分でうるおうものよ
時には水になじませて

 幻想的というか、ロマンチックというか。
 しかし、それだけではない。
 むしろ「現実的」なのだ。
 マルコ・ポーロは、きっと同じことばを聞いたはずだ。そして、薔薇の花びらのドレスを着て、白井になったはずだ。白井になって、薔薇のドレスを着ているマルコ・ポーロに、いま、白井はなっている。白井とマルコ・ポーロは入れ代わるのだ。
 白井はマルコ・ポーロを探すという「夢」のなかに「肉体」そのもので入っていった。その「肉体」は、そこで不思議なことばを聞いた。「夢」のようなことばだ。だが、「夢」のなかでは「夢のようなことば」こそが「現実」なのだ。
 そして、この「現実」と、

この仕事は 一族の女たちだけが守ってきたもの

 が重なる。
 「薔薇の花(あるいはたの花々)」をドレスに縫い込む。その「夢」のような仕事は、夢ではなく、現実に女たちによって守られてきた。「現実」にされてきた。
 「夢」を「現実」にする女の歴史。
 その歴史のなかで、白井はマルコ・ポーロの「夢」を知る。
 マルコ・ポーロは、「夢」ではなく「女の歴史」を見たのだとわかる。
 この「わかる」こそが「祝祭」かもしれない。出会った瞬間、出会うまではわからなかったことが、「わかる」。「わかる」ことで自分が消え、「他人」になる。「他人」の歴史になる。
 自分が自分でなくなってしまう。



 吉本洋子「重力談義」(「孔雀船」91、2018年01月15日発行)を、ふと思い出した。足の爪を切っている。

親指はしっかりと地面に着けて歩行しろ
重さが外れると爪は自由に動き出し
そのうちに肉にだって喰らいつく
喰らいつかれた肉は
誰かれかまわずに口汚く罵り
 
 「爪」は「夢」と同じように、自分の思うままには動かせない。それを「夢」を比喩として読むと、ここには白井が書いたのとはまったく別の「夢」がある。「夢」の反逆がある。「夢」が肉体に反逆し、「夢」ではなく「肉体」が「覚める」。
 「一族の女」の「歴史」ではなく、吉本個人の「歴史」が噴出する。他人と出会い、そこで何かが生まれる(わかる)のではなく、自分と出会い、自分が「わかる」。自分の「肉体」のなかに隠れていた「罵り」が「わかる」。
 この「罵り」を全部ことばにしてしまえば、それは別な意味での「祝祭」になるだろうなあと思うが、ことばは解放されず、「肉体」を描写する方向にもどってしまう。

両手にくい込む買物袋は
取敢えず3日分の食糧と
予定表と

 どうせなら、爪が「自由に動き出す」ように、ことばも「自由に動き出す」ままにしてほしかったなあ。詩なのだから。書くなら「買物袋」に「くい込まれた(喰らいつかれた)」「両手」の「罵り」を書かないことには、詩は不完全燃焼になる。





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目次

森口みや「コタローへ」2  池井昌樹『未知』4
石毛拓郎「藁のひかり」15  近藤久也「暮れに、はみ出る」、和田まさ子「主語をなくす」19
劉燕子「チベットの秘密」、松尾真由美「音と音との楔の機微」23
細田傳造『アジュモニの家』26  坂口簾『鈴と桔梗』30
今井義行『Meeting of The Soul (たましい、し、あわせ)』33 松岡政則「ありがとう」36
岩佐なを「のぞみ」、たかとう匡子「部屋の内外」39
今井義行への質問47  ことばを読む53
水木ユヤ「わたし」、山本純子「いいことがあったとき」56 菊池祐子『おんなうた』61
谷合吉重「火花」、原口哲也「鏡」63

谷川俊太郎『聴くと聞こえる』(下)68


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スティーブン・スピルバーグ監督「ペンタゴン・ペーパーズ 最高機密文書」(★★★★)

2018-04-02 09:46:52 | 映画
スティーブン・スピルバーグ監督「ペンタゴン・ペーパーズ 最高機密文書」(★★★★)

監督 スティーブン・スピルバーグ 出演 メリル・ストリープ、トム・ハンクス

 「平常心」では見ることのできない映画である。どうしても「森友学園」の文書改竄が重なる。マスコミの報道(報道の仕方)が気になる。
 「ペンタゴン・ペーパー」に比較すると「森友学園文書」そのものは「政府の犯罪(無益な戦争をした/戦争から撤退する判断が遅れた)」を証明するものではない。籠池に便宜を図ったというものである。ベトナム戦争では若者が無残に死んでいったが、森友学園では死者はいない。
 しかし、問題はそれだけではない。「文書」をどう扱うか、という重要な問題が残っている。「文書(事実)」と、政府の態度の問題がある。アメリカは「不都合な文章」もそのまま保管している。歴史を検証するときに必要だからである。日本では、これが改竄され、破棄されている。政府が「事実」を隠すだけではなく、「事実」を変更している。
 どういうときにも「秘密」にしなければならないことがあるだろう。しかし、「秘密」にするのと、それを「なかった」ことにするのは違う。
 「森友学園文書」は、なぜ改竄、破棄されなければならなかったのか、という問題は「だれにとって」不都合な文書であるかを考えればすぐにわかる。
 安倍は、佐川の国会答弁と文書の存在が齟齬をきたすから、それを解消するために改竄、破棄したという。しかし、その安倍が「昭恵が名誉校長を引き受けている数はあまたある」とか平然と言い、森友学園、加計学園関係の二校だけだと指摘されると「言い間違えた」と平気で言いなおすのだから、「国会答弁」など「言い間違えました」と言えばすむ。安倍に許されていることが財務省の職員が許されないわけがないだろう。

 最初から脱線してしまったが。

 映画は、非常にてきぱきと進む。あまりにてきぱきしすぎている感じがしないでもないが、これをときどきメリル・ストリープがぐいとおさえる。弱気から強気にかわるときの表情がとてもいい。トム・ハンクスは、どちらかというとストーリー展開を推し進める役をしっかりと担っている。自己主張しない。
 メリル・ストリープが弱気と強気のあいだで揺れるのは、経営者であるからだ。会社(投資家の利益を守ることと、従業員の生活を守ること)に責任がある。一方でジャーナリズムに対して責任もある。会社を守ろうとすれば、ジャーナリズム(言論の自由)を守れない。さらには、これに友人関係までからんでくる。
 そういうストーリー(テーマ)とは別に、この映画には、とてもおもしろいシーンがある。小道具がとても生きている。電話である。ペンタゴン・ペーパーを手に入れるために、「情報源」を探り出すのに、記者は「電話」を活用している。「盗聴(あるいは発信先を特定されること)」を避けて公衆電話をつかっている。時代をそのまま描いているといえばそれままでなのだが、番号(連絡先)をひとつずつしらみ潰しにしていくところが地道でとてもいい。公衆電話で電話するとき、小銭を道路に落としてしまい、あわてるところもいい。「落ち着け、落ち着け」と言いたくなるでしょ? 映画なのに。自分のことでもないのに。これが最初の「電話」のとてもいいシーン。
 それから最終決断のシーン。家のなかにある「内線電話」の受話器を何人もがつかむ。「盗聴」というのではなく、「内線」機能をつかって「討論」が始まる。これもいいなあ。「映画」では演じている役者の顔が見えるが、実際に電話をしているひとは、それぞれが離れているので顔が見えない。表情が見えない。「気持ち(感情/意思)」は「声」としてしか伝わらない。「ことばの論理」はこの場合、あまり重要ではない。「経営か言論の自由化」は、すでに語り尽くされている。だから、ここではスピルバーグは役者に「声の演技(声のアクション)」をさせている。(「リンカーン」を撮ったときと同じである。)この「声の演技」を、舞台ではなく、映画でやってしまうところがなんともすごい。スピルバーグもすごいが、それに答える役者陣もすばらしい。
 「声」というのは不思議なもので、「表情」以上に、「肉体」の内部まで入ってくる。(英語が聞きとれるわけではないが、感情はなんとなく伝わる。)「印刷するぞ」とトム・ハンクスが印刷工場に電話する。それを電話で受けて、工場で働いている人に叫ぶ。この瞬間「声」が「電話回線」を飛び出して、「世界」に広がっていく。
 いやあ、思わず涙が出ます。
 私の「職業」も関係しているのかもしれないけれど、このシーンは感動の涙なしには見られない。

 最後の最後で、また「電話」が出てくるのも象徴的だなあ。
 「ウォーター・ゲート事件」が始まるところで終わる。「電話」が主役の映画なのだ。

 で、また最後は映画から脱線するのだけれど。「よし、安倍が退陣するまで、安倍の改憲案を成立させないために、自分にできることはしよう」と思うのだった。できることは少ないけれど、そのできることをしないではいられない。
 とりあえずは松井久子監督「不思議なクニの憲法2018」の上映会をやりとげないことには。福岡の上映会は5月20日(日曜日)一日かぎり。午後1時から、福岡市立中央市民センター(中央区赤坂、裁判所の裏手)、入場料1000円です。定員70人。当日券はありません。事前に谷内(yachisyuso@gmail.com)までお申し込みください。
(ユナイテッドシネマキャナルシティ、スクリーン9、2018年03月25日)

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