詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

劉暁波『独り大海原に向かって』

2018-04-08 21:00:57 | 詩集
劉暁波『独り大海原に向かって』(劉燕子・田島安江訳・編)(書肆侃侃房、2018年03月20日発行)

 劉暁波『独り大海原に向かって』のなかに「天安門事件犠牲者への鎮魂歌(レクイエム)」という作品が十九篇ある。「一周年追悼」から「十九周年追悼」まで。ただし「十二周年追悼」が二篇あり、「十四周年追悼」はない。「十四周年」(2003年)に何があったのか。わからない。
 「一周年」の詩には「死の体験」というタイトルがついている。

記念碑が声を殺して哭いている
流血が染み込んだ大理石のマーブル模様
心が、思いが、願いが、青春が
戦車の錆びたキャタピラーに轢き倒され
東方の太古の物語が
突如、鮮血となって滴り落ちてきた

 この書き出しよりも、私は二連目の方が好きである。

ぼくはもう旗が見分けられなくなった
旗はいたいけな子どもみたいだ
母親の死体にすがりついて、泣き叫ぶ
「ねえ、おうちに帰ろう よー!」

 これは天安門の「実景」かどうかわからない。死んだ母親のとなりに子どもが泣いていたかどうかわからない。たぶん「子ども」は「旗」の比喩なのだと思う。「旗」は支える人(持つ人)がいないと倒れてしまう。死体のそばで、旗は力なく倒れていただろう。倒れているから、どこにあるかわからない。「旗が見分けられなくなった」とは「翻る旗を見ることができない」という意味だろう。
 そう読んだ上で、「比喩」の力というものを、ここに見る。
 旗は母親が死んだことを知らずに泣き叫んでいる。ここはいやだ。お家へ帰りたい。「家」とはどこなのか。旗にとって、「家」とは何なのか。
 逆に、「家」にとって「旗」とは何なのかも考える。「旗」は「家」の象徴である。「旗」を目印に、ひとは「家」へ帰ってくる。
 瞬間的に、子どもは「旗」に向かって、「もう一度、翻って、目印になってくれ」と叫んでいるようにも見える。
 「比喩」というのは、論理的には別の存在であることによって「比喩」として成り立つのだが、いったん「比喩」になってしまったら、それは区別がつかない。瞬時に入れ代わりながら動く存在である。(「きみは薔薇のように美しい」と言ったとき「きみ」と「薔薇」は別個の存在だが、それは固定化されたものではなく、入れ代わることで「意味」が明確になる。)
 ここには天安門を直接見た人間の、強い視力が生きている。動いている。「見分けられない」には「否定」の意味があるが、この否定を肯定に変えていく強い力が、ことばとなって動いている。
 こういうことばを読むと、「天安門」にいるような錯覚にとらわれる。
 5連目の次の部分も強い。

夜更けてとあるたばこ屋の前で
ぼくは数人の屈強の男に襲われた
手錠をかけられ、目隠しされ、口もふさがれ
どこに向かうかわからない護送車に投げ込まれた
ただハッと気がついた ぼくはまだ生きていると

 「ぼくはまだ生きている」。それまでは「生きている」という実感がなかった。それまでの実感は「死になくない」だったか、「逃げなければ」だったか。
 この「気づき」が、そして、周囲の「死」の絶対性をさらに強調する。「生きている」と気づくことで、死んだ人がいる、その死が意識に入ってくる。死を放置して、ことばを動かせない、と自覚させる。
 「気づく」はまた「わかる」でもある。どこに向かうか「わからない」が、いきていることは「わかる」。「わかる」ことをことばにし、「わかる」を広げていく。
 「ぼくはまだ生きている」というところから、劉はすべてのことばを動かし始めるのである。

 「記憶(六周年)」では、次の部分。

旅に出るときの彼らはまだ若かった
地面に倒れる瞬間
一縷の生きる望みのために懸命にもがいていて
火葬場に投げ込まれたときも
そのからだはまだ柔らかかった

 「生きる望み」という「名詞」が「もがく」という「動詞」で言い換えられる。「肉体」がもがいているのだが、それは「希望」がもがいているのだ。火葬場に投げ込まれたときも、柔らかいのは「からだ」だけではない。「希望」そのものも柔らかいのだ。
 「生きる希望」(生きたいという欲望)だけではなく、「彼ら」にはもっともっとことばにならないままの「希望」があった。その「希望」は語られることなく(ことばになることもなく)、焼かれてしまった。
 ここでも、ことばは入れ代わる。入れ代わることで、単独では見えないものを明確にする。

 「ぼくはぼくの魂を解き放つ(七周年)」の最後。

ぼくには障がいがあるで
決して脱出できない
この都市から、この時代から
ただ一つ幸いなのは
ぼくには追放された霊魂がついている
足もなければ眼もないが
松葉杖だと前に進める
方向はどこでもよく
雨風を避ける必要もなく
あちこちをたださまようばかり

 「松葉杖」の「比喩」はわからない。わからないから、考える。「追放された霊魂」とは天安門で死んだ人の霊魂である。足をなくして死んだ人がいるだろう。眼を撃ち抜かれて死んだ人がいるだろう。そのひとたちが「ぼく」の「松葉杖」になるということだろう。そのひとたちに導かれて、どこへでも行く。方向は決まっていない。その人たちが生きたいと思うところがどこであれ、そこへ行かなければならない、と劉は感じ、それをことばにしている。

 「一枚の板の記憶(十二周年)」を読む。

夕暮れ、すぐ近くに
血まみれの死体がひとかたまりになって
横たわっていた 撃ち抜かれて
大きな穴の開いた頭は
黒々として血なまぐさい
板の木目に染み込んだ
つぶれた豆腐のような白いもの
あれは何だ

あれは何だ ぼくにはわからない けれど
彼はぼくよりずっと勇敢
ぼくのふる里の硬い石ころのようで
ぼくよりずっと脆くて痛々しい

 「あれ何か」は「わからない」。しかし、「わかる」ことがある。「彼はぼくよりずっと勇敢」であること、が「わかる」。そして「勇敢」とは特別なことではない。それは「ふる里の硬い石ころ」のように、ただ、そこに「ある」ということなのだ。
 そこに「ある」ものすべてが勇敢である。
 これは、逆説的に、「彼を殺した者」は「勇敢ではない」と告発しているのだ。天安門事件で暴力をふるった者たち、武装し、彼らを殺したものたちこそが「勇敢」からほど遠い存在なのだ。戦車が石ころを破壊したのだ。戦車が石ころを恐れたのだ。

 「あの春の霊魂(十八周年)」にも「わからない」ということばがつかわれている。

 ぼくにはよくわからない。霊魂があの残忍な春を昇華させたのか、
それとも残忍さそのものが春をもって霊魂を昇華させたのか。

 「霊魂」と「残忍」と「春」。それは互いに互いの「比喩」になりながら動く。切り離せない。別個のものを強烈な力で結びつけ、それを瞬間的に入れ替えてしまう。そのとき、詩が動く。
 詩は美しくロマンチックなものばかりではない。
 詩は、ただ「強い」ものである。


*


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目次

森口みや「コタローへ」2  池井昌樹『未知』4
石毛拓郎「藁のひかり」15  近藤久也「暮れに、はみ出る」、和田まさ子「主語をなくす」19
劉燕子「チベットの秘密」、松尾真由美「音と音との楔の機微」23
細田傳造『アジュモニの家』26  坂口簾『鈴と桔梗』30
今井義行『Meeting of The Soul (たましい、し、あわせ)』33 松岡政則「ありがとう」36
岩佐なを「のぞみ」、たかとう匡子「部屋の内外」39
今井義行への質問47  ことばを読む53
水木ユヤ「わたし」、山本純子「いいことがあったとき」56 菊池祐子『おんなうた』61
谷合吉重「火花」、原口哲也「鏡」63

谷川俊太郎『聴くと聞こえる』(下)68


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詩集 独り大海原に向かって
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書肆侃侃房
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今度は「稲田切り」、あるいは「あいまい」の定義

2018-04-08 14:23:45 | 自民党憲法改正草案を読む

今度は「稲田切り」、あるいは「あいまい」の定義
             自民党憲法改正草案を読む/番外203(情報の読み方)

 2018年04月08日の読売新聞朝刊(西部版・14版)の2面見出し。

イラク日報/稲田氏指示あいまい/防衛省、本格調査せず

 記事は見出しの通り。
 安倍は、今度は「稲田切り」で状況を突破しようとしているらしい。
 ことあるどこに「自衛隊の最高指揮官」と言っているのに、こういうときは姿をあらわさない。自分が「最高責任者」であるとは言わない。
 好都合なことに、稲田はもう「防衛大臣」ではない。どれだけ批判されようが、「防衛大臣辞任」という形で追及されることはない。そう認識した上で、「稲田の指示があいまいだったから、日報のみつからなかった」ということにしてしまう。日報がみつかってからも稲田に報告されなかったのは、やはり「稲田の指示があいまい」だったからということにしてしまおうとする。
 ここから私が考える「問題点」はふたつ。

(1)安倍の「最高責任者(最高指揮官)」であるけれど、実際に「責任」をとるのは、部下であるという姿勢。「森友学園文書」の問題は「財務省」の責任。財務省でまず責任が問われなければならないのは財務大臣だが、麻生は、最高責任者の安倍が責任をとらないという姿勢をそのまま踏襲し、責任は財務局長の佐川にあるという具合に責任を転嫁する。
 今回の問題では、稲田が辰巳総括官に口頭で「日報は本当にないのか」と質問し、辰巳がこれを「指示」と受け取り、部下の担当者にメールで問い合わせをさせている。担当者は、日報がほんとうにないのか、「探索いただき無いことを確認いただいた組織・部署名を本メールに返信する形でご教示いただけますでしょうか」と各部署にメールしている。ここまで書いている(情報公開されている)ということは、ゆくゆくは稲田の責任ではない→辰巳の責任ではない→メールで問い合わせた担当者の責任である、というところまで「転嫁」先を広げるということなのかもしれない。
 稲田の指示は「あいまい」だったかもしれないが、責任は稲田にはない。稲田はすでに大臣を辞め、責任をとっているから、これ以上追及できないというつもりなのかもしれない。
 しかし、こういうことが「戦争」でおこなわれると、どうなるか。作戦が不適切で戦死者が出る。そのとき安倍は、実際に指揮をしたのは私ではない、幕僚長に責任を転嫁し、幕僚長も責任を部下に転嫁する。結局は、死んだ隊員の「自己責任」と言うかもしれない。あるいは、殺したのは「敵」の方。敵に責任がある。私には責任はない、と言い張るだろう。「日報」問題に引き戻して言えば、「日報」が必要な状況を引き起こしたイラクにこそ責任がある、というようなもの。まるで、笑い話である。

(2)稲田の指示は「あいまい」というが、「あいまい」の定義は何か。どういう指示なら「あいまい」ではないのか。「日報は本当にないのか」という「質問」は、確かに「指示」にはなっていない。「日報の存在を調べろ」とは言っていないのだから。
 だが、これを読売新聞が書いているように、辰巳が口頭の質問を「指示」と受け取り、「ないことを確認しろ」と部下に伝達しているなら「指示」として成立している。実際に「無いことを確認いただき」という具合に、部下はメールに書いている。
 読売新聞は、部下のメールには「具体的に再調査を指示する表現はなく」と書いているが、「いただき」「いたただき」「いただけますでしょうか」という文言を書く立場の人間が、「具体的に、どこそこを再調査しろ」と「指示」できるわけがないではないか。
 組織の「人間関係」を無視して、下っぱいじめをしてどうするんだ、と私はかなり頭に来るのだが……。
 ここからが、大問題。きょう私がほんとうに書きたいこと。
 では、たとえば安倍が森友学園問題で、「私や昭恵が森友学園の土地売買に関与しているということが明確になれば、総理大臣も議員も辞める」という「発言」を、財務省(佐川)はどう受け止めたか、が問題になる。安倍の国会での答弁は、そこまでだが、言外に「関与が疑われる文書があるなら、それを始末しろ」という「指示」と佐川は受け止めなかったか。さらに佐川がどういう指示をしたかわからない(あいまい)だが、部下が「書き換え」だけではすまない、「削除しろ」という指示として受け止めたかもしれない。
 上司(権力者)の発言と、部下の「受け止め方」は、「ことばどおり」ではない。「指示」という形をとらなくても「指示」と受け止めることがある。受け止めなければならないことがある。受け止めることができなければ「理解力がない」と切り捨てられる。役人なら、上司に「理解力がない(能力がない)」と判断されたら、出世の見込みはない。だから部下は必死になって「理解」することに努める。「指示」を上回ることをやり、それを報告することで自己アピールをする。
 森友学園問題は、逆に考えてみるといい。
 安倍は「私や昭恵が森友学園の土地売買に関与しているということが明確になれば、総理大臣も議員も辞める」と言った。担当者は、「関与している」と思ったから必死になって交渉を手助けし、その「記録」も残した。でも「あれは関与ではなかった」というのなら、何も気にすることはない。「文書」はそのまま放置しておけばいい。こういう「理解」も成り立つ。
 けれど、放置しなかった。
 誰一人として「安倍や昭恵が森友学園の土地売買に関与していない」とは思っていない。だからこそ「関与している」ということを隠そうと必死になった。
 さらに言えば、安倍は、
 「私や昭恵が森友学園の土地売買に関与していなことは明白である。土地売買に関する交渉文書を調べればわかることである。文書を国会で公表しろ」
 そう指示すればよかったのである。
 安倍は「文書を公表しろ」とは言わずに、「私や昭恵が森友学園の土地売買に関与しているということが明確になれば、総理大臣も議員も辞める」と言った。これは、「文書を始末しろ」という「指示」以外のなにものでもない。

これから三つ目。
(3)最近問題になっているのは、ひとことでいえば「情報公開」の問題である。安倍は「情報」を公開しない。「情報」を捜査している。労働時間の調査の問題では、情報を捏造していた。
 どんな議論も「情報(事実)」が大切である。「事実」を踏まえて議論がはじまる。情報を与えないというのは、議論をさせないということである。
 これは、つい最近はじまったことではない。
 私が異様さに気づいたのは、2016年の参院選である。籾井NHK会長の時代である。参院選の報道をしない。投票の目安となる情報を提供しない。報道が少なくなると、既成の巨大政党が有利になる。少数意見は国民の目に触れることは少ない。
 直後の「天皇生前退位」や「憲法改正」では、安倍は「静かな環境」を何度も口にしている。「日露会談」でも「静かな環境」が口にされている。「静かな環境で議論する」とは、「反対意見を言わせない」ということである。
 天皇に「天皇は国政に関する権能を有しない」と実際にいわせることで、完全に沈黙させた。即位するとき「憲法を守る」と宣言した天皇がいては、改憲が進まない。総理大臣、国会議員には「憲法を守る」義務がある。義務がある人間が、「憲法を変える」と率先して発言することは憲法違反である。だが、天皇を沈黙させることに成功した安倍は、天皇も沈黙しているだから、国民は沈黙しろ、安倍の言うことを聞け、と独裁を進めるのである。
 議論させないために、不都合な情報は公開しない。必要ならば情報を捏造する。これが安倍のやっていることである。それに最初に協力したのが籾井NHKである。

 安倍の「沈黙作戦」とマスコミの関係は、「天皇の悲鳴」に詳しく書いたので、ぜひ、それを読んでください。



#安倍を許さない #憲法改正 #天皇退位 
 


*

「天皇の悲鳴」(1500円、送料込み)はオンデマンド出版です。
アマゾンや一般書店では購入できません。
https://www.seichoku.com/user_data/booksale.php?id=168072977

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松井久子監督「不思議なクニの憲法」上映会。
2018年5月20日(日曜日)13時。
福岡市立中央市民センター
「不思議なクニの憲法2018」を見る会
入場料1000円(当日券なし)
問い合わせは
yachisyuso@gmail.com
憲法9条改正、これでいいのか 詩人が解明ー言葉の奥の危ない思想ー (これでいいのかシリーズ)
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