金井雄二「足音」、八木幹夫「翻車魚」(「交野が原」75、2013年09月01日発行)
金井雄二「足音」の前半。
レイ・ブラッドベリの短編小説を読んでいて
ふと気がついた
この小説は
以前読んだことがあると
犬が死者を連れて
やってくるという話
ぼくの頭の中に
かすかに
残っているのだよ
でも
ちょっと待ってくれ
この古い文庫本は
棚にずっと置き去りにされたまま
一度も開かれてなかったはずだ
いつか読もうと思って
そのままだったはずだ
だからこそ
今、ここで読んだのに
こんなに短い小説だけれど
多くの人たちの
冷たい
足音を聞いたようで
苦しい
デジャヴ(でよかったかな?)感覚。さらりと書いているのだが、さらりの奥に「工夫」がある。ここには文体がふたつある。
ひとつは書き出しの1行のように、長くて散文的なもの。もうひとつは、引用の最後の部分の「冷たい」「苦しい」という短いもの。それが呼応(?)する。長い部分は「いま(現実)」であり短い部分は感覚のなかの記憶(デジャヴ)。存在しないものが、「いま」を突き破って、過去から未来(まだ存在しない時間)へ噴出してゆく。この対比はおもしろい。
さらに言うと。「レイ・ブラッドベリの短編小説を読んでいて」という固有名詞を含んだ長い1行のあと、
ふと気がついた
この小説は
以前読んだことがあると
という倒置法。これが、くせもの、というか、うーん、うまい。「以前読んだことがある」ではなく、「以前読んだことがあると」と「と」がある。「と」はあってもなくても「意味」としてはかわらない。「と」がない方がことばにスピードが出る。これは「以前」も同じ。あってもなくても「意味」はかわらず、ある分だけことばのスピードが鈍る。倒置法自体も、ことばのスピードを鈍らせる。読んだ後、一瞬引き返さないといけないからね。
で、こういう遅延(遅滞かな?)というのは、私はあまり好きではないのだが、この詩では、そういう遅滞があるために、短い行が鮮烈に輝く。
「ちょっと待ってくれ」からの6行も、散文的なのだが、その行があるから短い行の短さ、スピードが生きる。スピードがあるのに、ずん、と重く落ちてくる。長い「過去」を突き破ってきた感じがする。
金井は、こんなに技巧的な詩人だったんだ。
*
八木幹夫「翻車魚」は変身する詩。「真夜中に目を覚ました」とじつに散文的に、そっけなく始まるのだが、
たくさんの別れの
涙を流しすぎたので
目が水の中にある
身体も浮力がついて
軽い
あれっ、何かが逆転したね。どんなに涙がたくさん流れても、目が水(涙)の中にある、というのはちょっと違う。涙が角膜を覆うので、目が水の下(水の中)という感覚は分かるけれど、それはあくまで感覚的な事実。客観とは違う。
でも、詩だから、客観なんてどうでもいい。感覚を主体にして、現実(事実?)を突き破ってゆく。目が水の浮力の影響を受けるなら、身体全体も浮力の影響を受ける、
だけでなく、
も身体は人間の身体ではなく、水中を生きる魚になってしまう。
真夜中に目をさました
涙を流しすぎたので
わたしは
マンボウという
魚に
なってしまたようだ
トイレに行くのに
しきりに
背びれを立て
胸びれを翻している
この素早い変化、スピードが「感覚」特有のもの。頭で「論理」を積み重ねると、魚になり切れない。躓いて、とんでもないものになる。
で、そうしてみると(?)、頭なんていうものは、私が「あれっ、何かが逆転したね。」と書いたように、いちゃもんをつけて間違いの中に溺れてゆくことしかできないものであることがわかる。感覚(肉体)の方が、早く、真実をつかみとる。その把握が早すぎて、頭が戸惑う――というおかしみに、詩がある、ということになるのかな。
最近、八木幹夫の歌集を読み、面白くなかった――と感想を書いたが、実際詩と比較すると、八木は短歌の人ではなく、詩向きなのだ。
金井雄二「足音」の前半。
レイ・ブラッドベリの短編小説を読んでいて
ふと気がついた
この小説は
以前読んだことがあると
犬が死者を連れて
やってくるという話
ぼくの頭の中に
かすかに
残っているのだよ
でも
ちょっと待ってくれ
この古い文庫本は
棚にずっと置き去りにされたまま
一度も開かれてなかったはずだ
いつか読もうと思って
そのままだったはずだ
だからこそ
今、ここで読んだのに
こんなに短い小説だけれど
多くの人たちの
冷たい
足音を聞いたようで
苦しい
デジャヴ(でよかったかな?)感覚。さらりと書いているのだが、さらりの奥に「工夫」がある。ここには文体がふたつある。
ひとつは書き出しの1行のように、長くて散文的なもの。もうひとつは、引用の最後の部分の「冷たい」「苦しい」という短いもの。それが呼応(?)する。長い部分は「いま(現実)」であり短い部分は感覚のなかの記憶(デジャヴ)。存在しないものが、「いま」を突き破って、過去から未来(まだ存在しない時間)へ噴出してゆく。この対比はおもしろい。
さらに言うと。「レイ・ブラッドベリの短編小説を読んでいて」という固有名詞を含んだ長い1行のあと、
ふと気がついた
この小説は
以前読んだことがあると
という倒置法。これが、くせもの、というか、うーん、うまい。「以前読んだことがある」ではなく、「以前読んだことがあると」と「と」がある。「と」はあってもなくても「意味」としてはかわらない。「と」がない方がことばにスピードが出る。これは「以前」も同じ。あってもなくても「意味」はかわらず、ある分だけことばのスピードが鈍る。倒置法自体も、ことばのスピードを鈍らせる。読んだ後、一瞬引き返さないといけないからね。
で、こういう遅延(遅滞かな?)というのは、私はあまり好きではないのだが、この詩では、そういう遅滞があるために、短い行が鮮烈に輝く。
「ちょっと待ってくれ」からの6行も、散文的なのだが、その行があるから短い行の短さ、スピードが生きる。スピードがあるのに、ずん、と重く落ちてくる。長い「過去」を突き破ってきた感じがする。
金井は、こんなに技巧的な詩人だったんだ。
*
八木幹夫「翻車魚」は変身する詩。「真夜中に目を覚ました」とじつに散文的に、そっけなく始まるのだが、
たくさんの別れの
涙を流しすぎたので
目が水の中にある
身体も浮力がついて
軽い
あれっ、何かが逆転したね。どんなに涙がたくさん流れても、目が水(涙)の中にある、というのはちょっと違う。涙が角膜を覆うので、目が水の下(水の中)という感覚は分かるけれど、それはあくまで感覚的な事実。客観とは違う。
でも、詩だから、客観なんてどうでもいい。感覚を主体にして、現実(事実?)を突き破ってゆく。目が水の浮力の影響を受けるなら、身体全体も浮力の影響を受ける、
だけでなく、
も身体は人間の身体ではなく、水中を生きる魚になってしまう。
真夜中に目をさました
涙を流しすぎたので
わたしは
マンボウという
魚に
なってしまたようだ
トイレに行くのに
しきりに
背びれを立て
胸びれを翻している
この素早い変化、スピードが「感覚」特有のもの。頭で「論理」を積み重ねると、魚になり切れない。躓いて、とんでもないものになる。
で、そうしてみると(?)、頭なんていうものは、私が「あれっ、何かが逆転したね。」と書いたように、いちゃもんをつけて間違いの中に溺れてゆくことしかできないものであることがわかる。感覚(肉体)の方が、早く、真実をつかみとる。その把握が早すぎて、頭が戸惑う――というおかしみに、詩がある、ということになるのかな。
最近、八木幹夫の歌集を読み、面白くなかった――と感想を書いたが、実際詩と比較すると、八木は短歌の人ではなく、詩向きなのだ。
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