詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

金井雄二「足音」、八木幹夫「翻車魚」

2013-08-25 10:19:56 | 詩(雑誌・同人誌)
金井雄二「足音」、八木幹夫「翻車魚」(「交野が原」75、2013年09月01日発行)

 金井雄二「足音」の前半。

レイ・ブラッドベリの短編小説を読んでいて
ふと気がついた
この小説は
以前読んだことがあると
犬が死者を連れて
やってくるという話
ぼくの頭の中に
かすかに
残っているのだよ
でも
ちょっと待ってくれ
この古い文庫本は
棚にずっと置き去りにされたまま
一度も開かれてなかったはずだ
いつか読もうと思って
そのままだったはずだ
だからこそ
今、ここで読んだのに
こんなに短い小説だけれど
多くの人たちの
冷たい
足音を聞いたようで
苦しい

 デジャヴ(でよかったかな?)感覚。さらりと書いているのだが、さらりの奥に「工夫」がある。ここには文体がふたつある。
 ひとつは書き出しの1行のように、長くて散文的なもの。もうひとつは、引用の最後の部分の「冷たい」「苦しい」という短いもの。それが呼応(?)する。長い部分は「いま(現実)」であり短い部分は感覚のなかの記憶(デジャヴ)。存在しないものが、「いま」を突き破って、過去から未来(まだ存在しない時間)へ噴出してゆく。この対比はおもしろい。
 さらに言うと。「レイ・ブラッドベリの短編小説を読んでいて」という固有名詞を含んだ長い1行のあと、

ふと気がついた
この小説は
以前読んだことがあると

という倒置法。これが、くせもの、というか、うーん、うまい。「以前読んだことがある」ではなく、「以前読んだことがあると」と「と」がある。「と」はあってもなくても「意味」としてはかわらない。「と」がない方がことばにスピードが出る。これは「以前」も同じ。あってもなくても「意味」はかわらず、ある分だけことばのスピードが鈍る。倒置法自体も、ことばのスピードを鈍らせる。読んだ後、一瞬引き返さないといけないからね。
で、こういう遅延(遅滞かな?)というのは、私はあまり好きではないのだが、この詩では、そういう遅滞があるために、短い行が鮮烈に輝く。
「ちょっと待ってくれ」からの6行も、散文的なのだが、その行があるから短い行の短さ、スピードが生きる。スピードがあるのに、ずん、と重く落ちてくる。長い「過去」を突き破ってきた感じがする。
金井は、こんなに技巧的な詩人だったんだ。



八木幹夫「翻車魚」は変身する詩。「真夜中に目を覚ました」とじつに散文的に、そっけなく始まるのだが、

たくさんの別れの
涙を流しすぎたので
目が水の中にある
身体も浮力がついて
軽い

あれっ、何かが逆転したね。どんなに涙がたくさん流れても、目が水(涙)の中にある、というのはちょっと違う。涙が角膜を覆うので、目が水の下(水の中)という感覚は分かるけれど、それはあくまで感覚的な事実。客観とは違う。
でも、詩だから、客観なんてどうでもいい。感覚を主体にして、現実(事実?)を突き破ってゆく。目が水の浮力の影響を受けるなら、身体全体も浮力の影響を受ける、
だけでなく、
も身体は人間の身体ではなく、水中を生きる魚になってしまう。

真夜中に目をさました
涙を流しすぎたので
わたしは
マンボウという
魚に
なってしまたようだ
トイレに行くのに
しきりに
背びれを立て
胸びれを翻している

この素早い変化、スピードが「感覚」特有のもの。頭で「論理」を積み重ねると、魚になり切れない。躓いて、とんでもないものになる。
で、そうしてみると(?)、頭なんていうものは、私が「あれっ、何かが逆転したね。」と書いたように、いちゃもんをつけて間違いの中に溺れてゆくことしかできないものであることがわかる。感覚(肉体)の方が、早く、真実をつかみとる。その把握が早すぎて、頭が戸惑う――というおかしみに、詩がある、ということになるのかな。

 最近、八木幹夫の歌集を読み、面白くなかった――と感想を書いたが、実際詩と比較すると、八木は短歌の人ではなく、詩向きなのだ。


青き返信―歌集
八木幹夫
砂子屋書房
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谷川俊太郎『こころ』(29)

2013-08-24 23:59:59 | 谷川俊太郎「こころ」再読
谷川俊太郎『こころ』(29)(朝日新聞出版、2013年06月30日発行)


 「ココロノコト」という作品に私は驚いてしまった。

たどたどしい日本語でその大男は
「ココロノコト」と言ったのだ
「ココロノコトイツモカンガエル」

 ほんとうのことなのだろうか。何語かわからないが、「ココロノコト」の「コト」を、たとえば英語ではどういうのだろう。外国語に、この文脈でいう「コト」はあるのだろうか。
 私の印象(直観)では、「こころのこと」の「こと」は日本語特有のものに思える。「こころのこと」は単なる「こと」ではなく、こころななかで「起きている」こと、つまり、「こと」は名詞だけれど、問題の焦点は「起きている」という動詞なのではないか。
 翻訳は、時々、その国語によって、動詞派生の名詞を動詞に活用させて訳したり、動詞を名詞化して訳したりすると文脈が落ち着くことがある。
 ちなみに、「私は心の中で起きていることをいつも考える」をgoogleに翻訳させると「I think all the time what is happening in the mind.」、「私はこころのことをいつも考える」は「I think always that of the heart.」である。

心事という言葉は多分知らない男の
心事より切実に響く<心のこと>
柔和な目をした大男は言う
「カミサマタスケテクレナイ」
世界中の聖地を巡る旅を終えて
妻子のもとへ帰るという
故郷の町で不動産業を営むとか

 「心事」ということばは、私は知らなかった。漢字なので読めば「意味」の見当はつくが、聞いたことがない。初めて知った私が言うと変かもしれないが、

心事より切実に響く<心のこと>

 これって、「大男」にとって「切実」じゃないよね。知らない人間は、比較のしようがない。谷川にとって「切実に」響いた。
 その「切実さ」は、大男の切実さと「ひとつ」かなあ。よくわからないのである。

すき―谷川俊太郎詩集 (詩の風景)
谷川 俊太郎
理論社
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岡島弘子「いちまい」、松岡政則「あとはよくわからない」

2013-08-24 08:45:38 | 詩(雑誌・同人誌)
岡島弘子「いちまい」、松岡政則「あとはよくわからない」(「交野が原」75、2013年09月01日発行)

 私は裁縫というものを知らないのだが、岡島弘子「いちまい」は楽しい。

青空いちまいを立体裁断する
ひかりのはさみがうごいて
リボン 肩ひも
前スカート 後ろスカートを裁つ

ツバメの針が舞って ちくちく縫う
脇線を縫う 切り替え線を縫う
あのひとのこころも縫い合わせる

 夏の明るい光が見える。「ツバメの針が舞って ちくちく縫う」は童話みたいだが、岡島はこのときツバメになっている。ツバメが縫うのを見ているのではなく、ツバメになって空を自在に待っている。でも、ファンタジーだけではない。「脇線を縫う 切り替え線を縫う」と、ちゃんと「手順」をふまえて仕事をしている。「脇線」「切り替え線」というのは私にはわからないのだけれど、そういう私の知らないことを、きちんと動かしている、というところに岡島の肉体を見るようで、とても安心する。
 「あのひとのこころも縫い合わせる」は、あのひとに見てもらいたい、きれいだねといってもらいたい、ということだね。「あのひとの、あんなところは嫌い。縫い閉じてしまおう。そうすれば大好きなあの人だけになる」ということかな。どっちにしても、「あの人が好き」という気持ちが、裁縫をする中で強くなっていく感じが、2連目にくっきりあらわれている。そういう思いを「縫い合わせる」というのは、実際に手仕事をするときの推進力なんだろうなあ。

入道雲のレースを飾り
小花模様を刺繍する
から草 つる草をあしらい
おもいのままに かがりつけ

スコールのあとの
水玉が消えないうちに
ジュッとアイロンがけ
クールビズの
サマードレスいちまいできあがり

 この喜びを、私は知らない。けれど、この喜びを詩を読むことで自分のものにすることができる。私にもこの喜びが「わかる」と「誤読」することができる。



松岡政則「あとはよくわからない」の1連目。

かすかに、鉄(クロ)のにおいがする
艸絮がいっぱいとんでくる
ことばになろうとするもののかすかな怯え、のようなもの
(あとはよくわからない

岡島は裁縫という仕事(肉体)をとおして、夏の風景をすべて「わかる」。裁縫をしているとき、岡島には「わからないこと」はなかった。
ところが、この詩の松岡にはわかることは少ない。そして、これはひとつの矛盾(詩)なのだが、「あとはよくわからない」ということだけは、はっきりと「わかる」。いま、ここには「ことばになろうとするもののかすかな怯え、のようなもの」が、ある。
でも、その「いま、ここ」って、何?
松岡は「いま、ここ」と書いていないのだけれど、私は「いま、ここ」と仮定して、ことばを読み直し、

かすかに、鉄(クロ)のにおいがする

「鉄」を「クロ」と呼ぶ(読む)ところに、松岡の「いま、ここ」があると思う。「鉄」を「クロ」ということばで呼び出す松岡の「過去(体験)」がいま、ここに噴出してきている。その「過去(肉体)」が、ほかの「もの」が「ことば」になるのをせき止めている。とりあえず「艸絮」はことばになった。しかし、そのほかのものは? 艸の一本一本は? 風は? 光は? ことばになろうとするが、なりきれない。「クロ」ということばと「肉体」でつながらない。
「クロのにおい(嗅覚)」と「艸絮がいっぱい(視覚)」は「わかる」が「あとは(残りの世界は)」わからない。肉体の中に、感覚はまだ眠っていて、肉体になりきれず、したがってことばにもなりきれず、松岡をつつんでいる。
そういう状態で、松岡は夢を見る。夢想する。

わたしがひろがっていく、が野っぱらだ
ことばの素顔にさわりたい、が詩だ
(いいや逆でもかまわない
ながいこと都市の身ぶりでいるともう自分の手とも思えない

「都市の身ぶり」を「頭(たとえば鉄という漢字)」とするなら、「クロのにおい」は「肉体」である。


口福台灣食堂紀行
松岡 政則
思潮社
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谷川俊太郎『こころ』(28)

2013-08-23 23:59:59 | 谷川俊太郎「こころ」再読
谷川俊太郎『こころ』(28)(朝日新聞出版、2013年06月30日発行)

 「裸身」という作品。

限りなく沈黙に近いことばで
愛するものに近づきたいと
多くのあえかな詩が書かれ
決して声を荒らげない文字で
それらは後世に伝えられた

 「限りなく沈黙に近いことば」は、きのう書いた「直接」と置き換えられるかもしれない。「直接」近づけることばで近づきたい。「直接」近づきたい。そして、この「直接」が「裸身(裸)」。だから、1、2行目は「裸で愛する人に近づきたい」ということになるかもしれない。いや、まちがい。「裸のことばで愛する人に近づきたい」。
 でも、裸に近いことばって、どんなことば?

口に出すと雪のように溶けてしまい
心の中でしか声に出せないことば

 なるほど、そうかもしれない。でも、それにつづくことばが、私にはよくわからない。

意味を後ろ手に隠していることばが
都市の喧騒にまぎれて いまも
ひそかに白い裸身をさらしている

 「限りなく沈黙に近いことば」と「意味を後ろ手に隠していることば」は、私の中では「ひとつ」にならない。「直接」と通い合わない。「ひそかに(白い裸身を)さらしている」も、「直接」とはうまく結びつかない。なぜ、「ひそかに」なのだろう。「さびしく」なら「直接」を否定されて「さびしく」とつながるし、「沈黙(する孤独)」とも通い合うように思うが・・・
 私はこの詩を完全に読み間違えているにかな?

ミライノコドモ
谷川 俊太郎
岩波書店
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池田順子「初夏」

2013-08-23 08:26:22 | 詩(雑誌・同人誌)
池田順子「初夏」(「交野が原」75、2013年09月01日発行)

 詩は1行に感動すれば詩である。1語のこともある。池田順子「初夏」は、そうした作品の好例。

好きなひと いる?

聲が
初夏の光のなかで
ふるふる ゆれ
うごく

覗き込んだ
少女の瞳の奥
はじめての夏が
胸の高さで
萌える
緑の
聲の色を
しならせる

いないの?

 3連目の最後「しならせる」。いいなあ。
 「しならせる」ということば、「しなる」ということばは知っている。でも「緑の/聲の色を/しならせる」という具合につづくと、うーん、私の知っている「しなる」と違う。竹がしなる、体がしなる。やわらかにたわむ、曲がる――というイメージ。「色」は、しなる、しなう、たわむ、まがる、という動詞を述語にはしない。そういうことばづかいに私は出会ったことがない。だから、「学校作文の添削?」ふうにいうと、池田のことばは間違っていることになるのかもしれないが・・・
 「肉体」が、これでいい、これがいい、と言っている。
 頭で考えると、どうしてもつじつまが合わないのだけれど、そのつじつまの合わないところを、からだ(肉体)が覚えている何かがつきやぶって「しなる」としっかり結びつき、そこで起きている「こと」を納得する。納得させられてしまう。
 単なる「色」がしなるのではなく、「聲の色」がしなる、だからかもしれない。「聲/声」に色があるかどうかは難しいが、「黄色い声」「つやっぽい声」というような表現が慣用句としてあるところを見ると、声は色彩と(視力と)相性のいい存在かもしれない。その声が「しなる」。これならなんとなくわかる。剛直な声が丸くやわらかくなったり、温かい声が冷たくなったり。声は耳で聞くだけでなく体のさまざまな感覚を刺戟してくる。声が「しなる」というのは、なんとなくわかる。強引にことばにしてしまうと、ちょっと、ためらいを含んで、まっすぐだったものがたわみ、ゆれる、ゆらぐ感じかな。その、ためらいだとか、ゆらぎだとか、そういう感情と一緒にあるはじらいのようなものが「色」にも影響する。それが、見える。
 動詞、あるいは感覚は、基本的には肉体の特別なものと結びついて動く。目なら見る、耳なら聞く。でも、そういう「区別」をまたいで感覚が動詞になることがある。目で聞く、耳で見る。それに似たことが、「聲の色が/しなる」でも起きていて、その起きていることを、頭は整理し言語化できないのだけれど、肉体は納得してしまう。その納得は、きちんと池田の意図をくみ取っているかどうかわからないが、つまり「誤読」かもしれないが、いいなあ、とうなってしまう。
 こういうときです、私がセックスしていると感じるのは。ことばを読んでいるだけなのに、池田の肉体と交わっている気持ちになるのは。そうか、「しなる」ということばは、体の中をこんなふうにうごくこともできるのか。こんな感覚があるということを教えてくれるのか。こんなふうに感覚を(肉体を)目覚めさせてくれるのか。出会えてよかった、セックスできてよかった、と思うのです。
 で、そういう感覚のなかで、私は池田の書いている「少女」にも出会うのだけれど…不思議。私は池田に質問されている少女を見るだけ? そうじゃなくて、もしかしたらその瞬間、私は少女になって、池田から「好きなひと いる?」と聞かれているのかもしれない。その少女は、もしかすると少女時代の池田かもしれないけれど。――区別のないところで、区別のないまま、すべてが溶け合うようにして出会うのかなあ。
 こういうわからない感じ、「錯乱」のなかにある「真実」が好きだなあ。



瀬崎祐「遮眼」の1連目。

見つめられた風景は滲んでくる
古くなった紙片が我が身をちぢめるように
風景の周囲がめくれてくる
立ち去ろうとしているうしろ姿の女は
もうじき風景からはみでていく

 「滲む」「めくれる」「はみでる」の動詞が「我が身をちぢめる」の「我が身」に反響する。「我が身」か・・・瀬崎以外には、ここでこんなふうにつかう詩人はいないだろう。「我が身」が瀬崎のキーワードなのかも。

水たまりのなかの空―詩集
池田順子
空とぶキリン社
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谷川俊太郎『こころ』(27)

2013-08-22 23:59:59 | 谷川俊太郎「こころ」再読
谷川俊太郎『こころ』(27)(朝日新聞出版、2013年06月30日発行)

 「目だけで」には不思議な矛盾がある。

手も指も動かさずふんわりと
目であなたを抱きしめたい
目だけで愛したい
ことばより正確に深く

 「目だけで愛したい/ことばより正確に深く」とことばでしか言えない矛盾。これは矛盾ではなく、ジレンマみたいなものかな。
 不思議なことに、ここに書いてあることが、わかる。
 そのとき、私は「何で」わかっているのだろう。ことばで? あるいは目で? たぶん、誰かをみつめた記憶によって。それは、ことばにならずに、肉体の奥に残っている。その覚えていることが、谷川のことばによって引き出されてくる。この感じが「わかる」だ。

 しかしことばは「正確」ではないのだろうか。ことばは「深く」ないのだろうか。――と、考えると、わけのわからないところにはまり込む。
 目は、ことばを通らずに、直接、あなたに触れる。その「直接性」を谷川は引き出そうとしているのかもしれない。何かを仲介としないということは、仲介による「誤謬」を排除することであり、それが「正確」と呼ばれているのだ。仲介をはじょすると、距離が縮まる。その縮まった感じを「深く」と感じるのは、縮まった分だけ相手の中に入ってゆく感じがするからかな?
 考え方はいろいろできるだろうけれど(意味、論理なんて、適当につなぎ合わせられるだろうけれど・・・)、

目だけで「直接」愛したい

 と、そこに「直接」があるのだと考えてみる。そして、その「直接」が省略されているのは、その「直接」が、谷川にとってわかりきったことだから、と考えるなら――私がいつも主張しているキーワードが、「直接」ということになる。「キーワードはいつも省略される。筆者にはわかり切っているので、書く必然性がない。そして、そのキーワードはあらゆるところに補うことができる。」
 やってみよう。

手も指も動かさず「直接」ふんわりと
目であなたを「直接」抱きしめたい

 2連目は、もっと「直接」が省略されながら、見えないところでことばを(思想を/肉体を)統合していることがわかるかもしれない。「直接」を補った形で引用してみる。

そう思っていることが
見つめるだけで「直接」伝わるだろうか
いまハミングしながら
洗濯物を干しているあなたに「直接」

 「直接」のなかで、ふたりは融合する。区切るもの(区別するもの)がないのが「直接」なのだから。


みみをすます
谷川 俊太郎
福音館書店
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榎本櫻湖「オカルト海星のえげつないあらまし」

2013-08-22 08:46:02 | 詩(雑誌・同人誌)
榎本櫻湖「オカルト海星のえげつないあらまし」(「文芸春秋」2013年09月号)

 私は目が悪いので、ことばの多い作品はどうにも読み進むことができない。榎本櫻湖「オカルト海星のえげつないあらまし」は短いので、読み通すことができた。不思議なことに、読み通してしまうと、短い作品では物足りない。私はわがままな読者だ。

閃光を目撃する、雑多な網膜にひっかかっている星座がどう
も厄介だ、心拍数の上昇により霞がかってみえる極彩色の瀟
洒な捕鯨基地に現れた、縦横にすばやく明滅するいくつもの
地図、コバルト鉱石が優しく爆発し、粉砕された貴金属の物
体が深海をうつろう、豊かな痕跡を暗部に宿し、劣化した石
灰質の閨房では、黒く輝く新興都市が脱皮をくりかえしてい
る、

 作品はまだつづくのだが、目が痛いので省略。
 なぜ目が痛いかというと、榎本の詩では、ことばが頻繁に「ずれ」をかかえこみながらくりかえされるからである。榎本は、「時間的(音楽的)」な詩人というより、「空間的(絵画的)」な詩人ということになるのかもしれない。
 私の読み方では、榎本は、ここでは「閃光」を空間的に「複雑」に構成しなおしている。「時間」は閃光が目撃できる「瞬間」である。
 閃光は、網膜に「星座」の残像を残す。「雑多な網膜に」ひっかかっている星座は、網膜にひっかかっている「雑多な星座」である。「雑多な星座」であるから「霞がかってみえる」、あるいは「網膜にひっかかっている」から「霞がかってみえる」。
「意味」は特定しても意味がない。「ずれ」お輻輳により、空間を平面から立体に作り上げてゆくのが榎本という詩人なのである。
 この「ずれ」をどこまで把握、維持できるか、詩人と読者は競争しないといけない。
閃光は、星座、地図、深海、閨房へと、あるいは極彩色、明滅(する)、爆発(する)、粉砕(する/される)、輝くへと「ずれ」を滑走する。そのかたわらでは、ひっかかる、厄介は心拍数の上昇、霞がかって、明滅(する)、いくつも、うつろう、劣化(する/した)。あるいは、極彩色は、雑多、破砕された貴金属、豊かに。
 ややこしいことに、それらのことばは完全なゲシュタルト運動をするのではなく、閃光がときとして暗闇に炸裂するように、反対の概念によって補強される。極彩色と、霞がかって、瀟洒(瀟洒は必ずしも極彩色と矛盾しないかもしれないが)、優しくと爆発、豊かなと痕跡、黒くと輝く。劣化したと閨房も、「流通概念」では自然な(つまり肯定的な)ことばの結びつきとは言えないだろう。
ただし「黒く輝く」「劣化した閨房」」というようなものは、実は「現代詩の流通言語」でもある。「網膜」「明滅」の遠い呼応も、並列すると「現代詩の流通言語」であるし、「瀟洒」など過去の産物だ。新しそうに装われているが、新しいことばは動いていない。短い作品だと、あたらしいことばが動いていないということに目が行ってしまうのである。
 引用しなかったが、後半の「神秘的な求愛」だとか「妖艶なしぐさで信号を送りあう」だとかは、いまでもだれかつかうことばなのだろうか。

 榎本の書いている詩は、極端にいうと、多くの詩人、作家が1行に凝縮する事柄を、凝縮ではなく増殖させ、同時にその密度を上げることで、そこに在ることを凝縮と偽装することである。
 たぶん、好みの問題になるのかもしれないが、私は、複雑(雑多)が空間を立体的に豊かにするとは感じていない。榎本の詩は詩として理解できるが、その方向性には与しない。与しようにも私の視力では困難である。思いつく限りを突破して、思いつかないことばまでひっぱりだして動かす、空間そのものを突き破り、空間そのものを言語の内部にしてしまおうとすることは、おもしろいことだとは思うが、それだけでは空間は単調である。ことばがどれだけ増えても、一種類にしか見えないし、(今回の詩についていえば、「閃光」ということばしか残らないし)、空間の内部に音が響き合わないと息がつけない。音が動くと、そこに時間も必然的に生まれ、世界が豊かになると思う。

増殖する眼球にまたがって
榎本 櫻湖
思潮社
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谷川俊太郎『こころ』(26)

2013-08-21 23:59:59 | 谷川俊太郎「こころ」再読
谷川俊太郎『こころ』(26)(朝日新聞出版、2013年06月30日発行)

 「ペットボトル」の1連目。

中身を飲み干され
空になってラベルを剥がされ
素裸で透き通るペットボトル
お前は美しい と心は思う

 最後の「心は思う」は、なぜ書いてあるのだろう。ないと意味は通じない? 言い換えると、ペットボトルは美しくなくなる? そんなことはないね。
 では、なぜわざわざ書いたのだろう。
 「心」を強調したかった。ペットボトルを書いているふりをして、こころはこころの「理想」を描きたかった。中身がなくて、ラベルもなくて、丸裸で・・・「無心」ということかな?
 「無心」って、どういうこと?

何ひとつ隠さない肌の向こうで
コスモスがそよ風に揺れて
空っぽのペットボトルは
つつましくこの世の一隅にいる

 無心は「つつましくこの世の一隅にいる」ことではなくて、そんな自覚もなくて、「コスモスがそよ風に揺れて」いること。自分だはなくなって、別の存在をあるがままに世界の中心に引き出してくることだ。
 ペットボトルをテーブルの上において、その向こう側に、「コスモスがそよ風に揺れて」いるのを見つめたくなる。そのとき私はペットボトルだろうか。谷川俊太郎だろうか。コスモスだろうか。

ぼくはこうやって詩を書いてきた 谷川俊太郎、詩と人生を語る
谷川 俊太郎,山田 馨
ナナロク社
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イルマル・ラーグ監督「クロワッサンで朝食を」(★★)

2013-08-21 18:31:46 | 映画
監督 イルマル・ラーグ 出演 ジャンヌ・モロー、ライネ・マギー、パトリック・ピノー
 これは、なかなかわかりにくい映画である。フランスのファッション、調度の詳しい人が見ればすぐに気が付くことなのかもしれないが、私は途中までこの映画が何を描いているのかがわからなかった。
 はっと気が付いたのは、85歳のジャンヌ・モローに50代(60代?)のパトリック・ピノーが添い寝しているとき。ジャンヌ・モローがパトリック・ピノーのシャツのボタンを外す。手を男の胸に這わす。それからジャンヌ・モローの手が男の股間に伸びてゆく。
 男「何をしてるんだ」
 ジャンヌ・モロー「思い出をたどっているの」
 ジャンヌ・モローが演じている女は、過去の輝かしい思い出を生きている。今を生きようとはしていない。その生き方が、たったひとりの暮らし、だれにも会わないのに、きちんとドレスアップし、豪華な真珠の首飾りを付けているところにあらわれている。ティーカップも、とても豪華(高価)にみえる。怒りにかまけて、投げつけて割った後、残ったソーサーを見つめるシーンがあるが、男の股間をまさぐる前だったので、ソーサーを眺めるシーンの意味が分からなかったが、あれは「思い出」を反芻しているのだ。ティーカップの1個1個のも思い出がある。――これは、調度に目利きの人なら即座にぴんと来るシーンなのだと思うが、私はそういうものの価値を全く知らないのでわからなかった。
 ファッションにしても、ジャンヌ・モローがライネ・マギーとカフェへ行く準備のシーン。ジャンヌ・モローはライネ・マギーノ、エストニアから着てきたコートではダメ、といって自分の昔のコートを貸す。ファッションに詳しい人なら、それがいつの時代のもので、いくらするかもわかるかもしれない。このコートをジャンヌ・モローはライネ・マギーに「あなたの方が似合うからあげる」というのだが、これは親切であるというよりも、彼女にコートを着せることで「若いジャンヌ・モロー」をジャンヌ・モロー自身がみているのだ。
 ジャンヌ・モロー、ライネ・マギーはともにエストニアからパリへやって来た女性という設定だが、先輩であるジャンヌ・モローは、彼女よりは若いラインネ・マギーがパリで人生の思い出となるようなことをしようともしないのに怒っているのかもしれない。「私が若ければ…」というわけである。
 ま、こんな「意味」はあまり重要ではない。この映画は、ジャンヌ・モローがどんなふうにパリに溶け込み、同時にパリをどんなふうに輝かせているか(輝かせてきたか)ということに目を向けた方が、きと、生き生きとしたパリが感じられるだろうと思う。先日見た「ニューヨーク、恋人たちの2日間」はパリではなくニューヨークが舞台だけれど、そこに描かれている若いフランス人とジャンヌ・モローの感覚の違いは、パリそのものの美しさの違いとなって表れている。
 どのパリの街角も、静かに、豊かに人を受け止めている。――こういうパリを、私は今までに見たことがなかった、と今になって気が付いている。
(2013年08月21日、KBCシネマ1)
    
エヴァの匂い [DVD]
クリエーター情報なし
紀伊國屋書店
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井野口慧子『火の文字』

2013-08-21 11:54:13 | 詩集
井野口慧子『火の文字』(コールサック社、2013年08月06日発行)

 「光の束」という詩がある。その詩を読んだとき、それまで読んできた詩がさーっと消えて行った。巻頭の「オルガン」の中ほどの、

いつのまにか そのオルガンを
見捨てたのも わたし

 の2行、とくに「見捨てたのも わたし」ということばが美しくて、なんとかその美しさの肉体に近づいてみたいと思っていたのだが、その感じも消えてしまった。――と書くのは、一種の矛盾だが、その行に私は傍線を引いている。その傍線を見ながら、最初に感じたことを思い出したふりをしているのである。こんなことが、「光の束」と関係があるのかどうかわからないが・・・

 「光の束」を読む。

ありふれた街の路上で
あの時 たしかにぼくはきみに出会った
途方もない長い暗闇の底から
ぼくは きみの名前を呼んだ

懐かしい風に包まれて
きみが ぼくの前に立ち
ぼくの名前を呼んだ時
ふるえる大気に 小さな虹がかかった
流れる雲 葉音を立てる樹々
草叢にこぼれる露草さえ
一瞬 息をとめた
二人の足下から 一つの歌が生まれ
地上から海へ 空へ 宇宙へと
響きあう命のリズムが あふれ出した

 抽象的な「抒情詩」なのだが、抽象が気にならない。「音」が懐かしいくらいに美しい。「あの時 たしかにぼくはきみに出会った」という行にみられる「1時あき」の、その空白にさえ透明な声を感じる。
 この詩では「ぼく」と「きみ」が出会うのだが、ふたりは人間であって、人間ではないのかもしれない。
 「ぼく」が会ったのは「ありふれた街」であり、出会った瞬間に、すべてのものが「名前」となって「ぼくの口」からこぼれる。「風」と呼べば風が生まれる。雲も、木も、草叢、露草も、「ぼく」が呼ぶ「名前」と共にあらわれ、返礼のようにして「ぼく」の名を呼ぶ。呼ばれて「ぼく」は風景の光の中に消えてゆく。
 存在するのに、消えてゆく。――消えてどうなるのか。「光の束」になるのか。そうかもしれない。そうではないかもしれない。
 呼んで、呼ばれたということさえ、他人にはわからないかもしれない。
 もしかすると「オルガン」と井野口も遠い昔に呼び合ってであったのかもしれない。呼び合って出会い、音楽をかなでたのだろう。

詩集 火の文字
井野口 慧子
コールサック社
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谷川俊太郎『こころ』(25)

2013-08-20 23:59:59 | 谷川俊太郎「こころ」再読
谷川俊太郎『こころ』(25)(朝日新聞出版、2013年06月30日発行)

 「心の色」を読む。

食べたいしたい眠りたい
カラダは三原色なみに単純だ
でもそこにココロが加わると
色見本そこのけの多様な色合い

 あ、三大欲望は「カラダ」が主張(?)するんだ。
 谷川は簡単に体とこころの二元論から出発しているようにも見えるけれど、「色見本そこのけの多様な色合い」に変化するのはカラダだから、どこかでしっかり結びついていることになる。
 単純な二元論ではないね。
 だとしたら、たとえば逆は言えないのかな?

食べたいしたい眠りたい
ココロは三原色なみに単純だ
でもそこにカラダが加わると
色見本そこのけの多様な色合い

 ココロが食べたいと思ってもアレルギーがあり食べられない。したくても肉体的に不可能。眠りたいと思っても目は覚めたまま…うーん、こっちの方が「現代」とシンクロしそうだなあ・・・
 よくわからない。
 よくわからない、といえば、さっき私は1連目の最後の「色合い」がかわる「主体」をカラダと書いたのだが・・・

その色がだんだん褪せて
滲んで落ちてかすれて消えて
ココロはカラダと一緒に
もうモノクロの記念写真

 あれっ、主体はカラダからココロになっている。1連目の最後も、カラダにココロが付け加わるとき、反作用のようなものがあり、ココロの色が変わるということか。
 この主体の移行には、谷川はカラダとココロを比較したとき、ココロを優位に置いているという無意識が隠れているかもしれない。

いっそもう一度
まっさらにしてみたい
白いココロの墨痕淋漓
でっかい丸を描いてみたい

 3連目では肉体はみあたらない。「描く」というがあるから、そこのかろうじて肉体が残っているかな?
 カラダが消えると、急に、抽象的、観念的になった気がする。墨で丸を描くというのは禅宗かな? こんなことを考えるのは「意味」にとらわれているということだね。

 「意味」が強く残る詩だ。


あさ/朝
谷川 俊太郎,吉村 和敏
アリス館
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谷元益男『骨の気配』

2013-08-20 09:31:12 | 詩集
谷元益男『骨の気配』(本多企画、2013年08月01日発行)

谷元益男『骨の気配』は、自然と共にある暮らしを描いているように見えるが、うーん、私はこの世界を信じることができない。過疎化が進むということは田舎の自然がそのままのこるということとは違う。若者の消えた村に、「土着の思想/土着の哲学/土着の科学」が残っているとは私は感じたことがない。どんな「思想/科学」も、それを引き継ぐ若者がいないかぎり消えてゆく。若者に「誤読」されない限り、生き残れない。批判され、拒絶され、そのときの、一種の抵抗のようなものが働かない限り、「純粋」という不治の病のなかで死んでゆく。
いまさら、そういう「悲劇」を抒情と呼んでみてもしようがないと思う。
谷元がここで書いているのは「私(谷元)」を消して、つまり「無私」の状態で、自然と人間の営みをよみがえらせるという方法なのだが、嘘っぽすぎて、困ってしまう。たとえば「畝の中」。

病に倒れた男は
やせた足を引き摺り
湿ったワラを敷きこんだ畑の畝に
失ったことばを
植えつけていった

たとえば、男のつくる芋が男のことばである――という比喩は比喩としてわかるが、そのことばを拒絶する若者のいないところでは、それは比喩どころか芋ですらない。畑で育てた芋を若者は食べない。スーパーで、コンビニで買った芋を食べる。その芋は「栽培」という過程をもたない芋なのである。

ことばは
畝の中で白い根をはり
徐々に伸びていく
空の隙間をさがして
枝分かれした蔦のように
幾筋にも
くねっている

このことばは、この芋は、過去の「抒情」にむかって育ってゆく。もちろん過去の中で育ってもいいのだけれど、谷元に、過去の中で育てているという意識はあるのか。自覚し、時代に背を向けて、知らん顔をして生きるのなら、それはそれでかまわないが、そうなら詩集という形にしないでもいいだろう。

「自前」というものを、こんな形にしてはいけない。美しく整えてはいけない。美しく整わないから「自前」なのだ。


水をわたる
谷元 益男
思潮社
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谷川俊太郎『こころ』(24)

2013-08-19 23:59:59 | 谷川俊太郎「こころ」再読
谷川俊太郎『こころ』(24)(朝日新聞出版、2013年06月30日発行)

 「隙間風」は男女の間のちょっとした気まずさを書いている。

あのひとがふっと口をつぐんだ
昨夜のあの気まずい間
わたしが小さく笑ってしまって
よけい沈黙が長引いた

 「わたし」を私は男(谷川)ではなく女と読んだ。それはほとんど無意識に、である。どうしてかなあ。「あの人」といういい方が女っぽい? そうだとしても、何のためらもなく「わたし」を女と読んでしまうとしたら、私の日本語の肉体の中にはずいぶん「男女の区別(男女差別?)というものが組み込まれていることになるなあ。谷川はどうなのかな? 自然に男女によってことばをつかいわけているのかな?

最後の連でも、「わたし」に、私は女を感じた。

水気なくした大根のように
煮すぎた豆腐のように
心のスが入ってしまった
今朝のわたし

 料理に関することばが出てくるので私はしらずに「わたし」を女だと思うのだが、これは冷静に考えるとおかしい。男が料理をしてもいいし、料理から「比喩」を引っ張り出してもいいはずだ。暮らしの細部をていねいに生きていたら、そういうことは難しくはないはずである。
 でも、もしこの詩の「わたし」が男だとしたら、という問題を考えると難しくなる。ことばを読むとき、私はまず自分の無意識を点検しなくてはならない。これはできないなあ。無意識なので、どこに気をつけていいのかわからない。

 谷川は、詩を書くときどうしてるんだろう。「わたし」を女と決めて、女の視点で「比喩」の材料を集めたのかな? そのとき、その「比喩」を女のものと判断したのは谷川自身の感覚? それとも「流通概念」がその「比喩」を女のものと判断していると知っているから?
 こういう問題はフィクションを前提としている小説では起きないね。「女の感覚がきちんと描かれている、女をよく見ている」と好意的に受け止められるだろうと思う。
 詩も、同じ基準で読んでいいと思うけれど、そういう習慣はまだまだ確立されていない。これは逆にいうと、男の詩人が女になって、女の詩を書くということが確立されていない、一般的な方法と詩って認知されていないということになるが・・・
 谷川は、そういう一般的な認知の問題を軽々と越えてしまっているように思える。不思議だなあ。
 (もし岡井隆や鈴木志郎康が「隙間風」を書いたら、びっくりするでしょ? 谷川だとなぜびっくりしないのだろう。)

写真
谷川 俊太郎
晶文社
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山下修子「蝶の浴衣」

2013-08-19 10:52:53 | 詩(雑誌・同人誌)
山下修子「蝶の浴衣」(「飛脚」3、2013年08月01日発行)

 「自前の思想」というのは、とても面倒くさい。個人的なことがらがどこまで積み上げれば普遍になるのか誰にもわからない。普遍を蹴飛ばして個人的なことがらにへばりつく、そのしつこさのなかにしか「自前」はない。
 そして。
 現代は、軽さ、スピード、明確さが要求される時代。「自前」はとっても不利である。軽くない、のろのろしている、不明確である。
 そういうことを承知で、不明確さの中にこそ、本能の正直が生きていると考え、「自前」にへばりついている詩人のひとりが石毛拓郎。でも、きょうの感想は石毛の詩ではなく、石毛の出している個人誌に掲載されている山下修子「蝶の浴衣」。

 「きっと、部屋の内にいると思うよ」

 親切そうな人が、そう絵あたしに話しかけたのは、つい先程のことだった。理由は柴犬を木陰に繋いであるからだ、と言う。

 「私(山下)」は旧友「弘ちゃん」の消息を尋ねて震災被災者住宅へたどり着く。けれど、「弘ちゃん」は呼んでも答えない。そのときのことを書いている。引用は、書き出し。
近所のひとは、山下に、弘ちゃんは家の中にいる、居留守をつかっている、という。――その理由が、犬がいること。
あ、粘っこいね。近所の人は、弘ちゃんが外出するときは必ず犬を連れてゆくことを知っている。犬は震災ではぐれた犬だ。飼い主とはぐれる寂しさを、弘ちゃんは二度と犬に味わわせたくない。その「理由は」弘ちゃんが「はぐれる(はなればなれになる)」さびしさを知り尽くしているからだ。
ということを、山下は説明せずに、犬の移動した距離、弘ちゃんの移動した距離を書くことで、自分に引き寄せている。(長くなるので、引用は省略。)
で、このときの「理由」というものが、実は「自前の思想」である。ひとはだれでも「自前の思想」を持っている。それはフランス現代哲学のように「流通思想」とはならないが、生きるときに譲れない「こと/もの」である。「肉体」になってしまっている。それを「思想」というとおおげさだから「理由」というのである。そしてその「理由」も一般的には「理由」と明確に語られることはないだろう。
冒頭の「理由」も、近所の人が言ったことばそのままではないだろう。「柴犬が木陰に繋いであるから」と「・・・だから」と言っただけだろう。そのことばを、山下は無意識に「理由は」ということばで整えている。この、無意識のことばの整え方が思想(肉体)であり、そのとき動くことばがそのひとの「キーワード」である。

この、なにごとかを整える「理由」のようなものは、人によって違う。山下は「理由」ということばで何事かを整えるということをしたが、弘ちゃんはどうだろう。
わからない。わからないが、何かがそこにあるはずだ。
会うことをあきらめて引き返すとき。

不意に、振り返ると、坂の上の仮設住宅の屋根の一部が・・・・。
山間の地である。地形のせいか、うっすらと朝靄がかかっていた。
ちょうどそれは、キツネが出没する「相沢の崖」を駆け上って、生家の庭先までたちこめてくる、あの靄に似ていた。

この季節に太平洋で発生し、まるで生きもののような勢いで、潮の臭いと湿気を運んでくる。いま、弘ちゃんが暮らすこの地が、浜通り地方といささかの共通項を持つことに、私は、少しほっとした。彼女の胸に刺さった釘は、抜きようがないとしても、記憶に生きるあの町の佇いは、理屈なしに懐かしいからだ。

山下は弘ちゃんが仮設住宅にいる「理由」を、そんなふうに見出している。それが正しいかどうかはわからないが、「理由」を見つけ出すということが大切なのだ。「理由」が「誤読」だとしても、「理由」のなかで山下は弘ちゃんと再会するのだ

ところで。
いま引用した部分には「思想(肉体)」の問題を考えるときの「つまずきの石」がある。特に「理由」を「思想」の根本に据えるとき、はた、と困ることばがある。

理屈なしに懐かしいからだ。

「理屈なし」と「理由(・・・からだ)」は矛盾する。「理屈」は「理由」にとても似ている。一種の「論理」。それが「ない」のに、それが「理由」に「なる」。
「ない」のに「ある」は矛盾だが、「ない」のに「なる」は、矛盾を超える。矛盾を超えて「なってしまう」のかもしれない。
既成のことば、「流通言語(流通思想)」ではつかみきれないものがある。
だからこそ、山下は「自前」を生きる。

私が娘を出産し、五ケ月がたった頃、弘ちゃんは<蝶の模様のかわいい絵柄の浴衣>を持って、「戸田」の倉庫の二階に住んでいた私を訪ねてきたことがあった。
和裁を習っていて、<自分で縫った>と、言っていた。

以来、四十数年。
お互いの顔を、直に見たことはない。

「お互いの顔を、直に見たことはない。」にも「理由」がある。もちろんそれは、祭場暗夜何かでいうような「理由(動機)」ではない。「犬が木陰に繋いであるから」というような、暮らしそのものの理由(思想)である。
それが詩のあちこちに見えるので、私は山下にも弘ちゃんも会ったことはないのだが、なんだか「直に顔を見た」気持ちになった。新しい旧友に会ったような不思議な気持ちになった。
「自前」を生きる詩人は美しい。


おだいりさまとおひなさまからの手紙
クリエーター情報なし
文芸社
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J・J・エイブラムス監督「スター・トレック イントゥ・ダークネス」(★★)

2013-08-19 09:01:24 | 映画
監督 J・J・エイブラムス 出演 クリス・パイン、ベネディクト・カンバーバッチ、ザッカリー・クイント


 きのう感想を書いたジュリー・デルピー監督「ニューヨーク、恋人たちの2日間」(★★★)のつづきでいうと、この映画はアメリカ個人主義+アメリカ民主主義+アメリカ帝国主義の「教科書」みたいな映画。アメリカというのは一対一の関係を拡大したチームのようなもの。この映画でいうと、ジム(船長)とスポックは親友だけれど、スポックは必ずしも他のクルーと親友ではない。船長を中心にチームを作り、それぞれが自分の「持ち場」で力を発揮し、チームとして「総合的」に難局を乗り切る。あ、アメリカの理想主義も、ここに入っているね。
 ストーリーも、それぞれが活躍して、統合されて成り立つ。演技は個人の魅力をあふれさせてはだめだし、遊んだりすると、映画にならない。監督が特権で全体を統合してゆく。アメリカの軍隊の宣伝にはなるかもしれないが、おもしろいとは言えないなあ。
 宣伝で監督が「登場人物のキャラクターがすごい」といっていたが、おもしろいのは悪役のベネディクト・カンバーバッチくらい。彼がなぜおもしろいかといえば、彼だけがチームに属さず、「個人主義」を生きているからだ。フランス人風に「俺はこれがしたい」と自己流に逸脱してゆくからだ。映画のストーリーは、ベネディクト・カンバーバッチの逸脱、暴走を制御するという具合に展開するので、彼が完全に魅力を発揮できるわけではない。つまり、悪役なので、やっつけられておしまい、ということになるのだが。
 で、こういうストーリー至上主義、役者に遊ぶ余裕を与えない映画というのは、見せ所がどうしても「装置」になってしまう。そして、それはおおがかりになればなほど、とんでもない嘘になる。映画だから嘘でもかまわないといえば、ま、そうなんだけれど。巨大な宇宙船がニューヨークに落ちたら9.11どころじゃないだろう。原子炉の内部へ防護服もつけずに入って作業して、それでも生きている。いやあな嘘が大手を振るようになる。
 アメリカ(人)の思考形態の研究には最適の映画ではあるね。
       (2013年08月18日、天神東宝5)
    
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