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詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

谷川俊太郎『こころ』(26)

2013-08-21 23:59:59 | 谷川俊太郎「こころ」再読
谷川俊太郎『こころ』(26)(朝日新聞出版、2013年06月30日発行)

 「ペットボトル」の1連目。

中身を飲み干され
空になってラベルを剥がされ
素裸で透き通るペットボトル
お前は美しい と心は思う

 最後の「心は思う」は、なぜ書いてあるのだろう。ないと意味は通じない? 言い換えると、ペットボトルは美しくなくなる? そんなことはないね。
 では、なぜわざわざ書いたのだろう。
 「心」を強調したかった。ペットボトルを書いているふりをして、こころはこころの「理想」を描きたかった。中身がなくて、ラベルもなくて、丸裸で・・・「無心」ということかな?
 「無心」って、どういうこと?

何ひとつ隠さない肌の向こうで
コスモスがそよ風に揺れて
空っぽのペットボトルは
つつましくこの世の一隅にいる

 無心は「つつましくこの世の一隅にいる」ことではなくて、そんな自覚もなくて、「コスモスがそよ風に揺れて」いること。自分だはなくなって、別の存在をあるがままに世界の中心に引き出してくることだ。
 ペットボトルをテーブルの上において、その向こう側に、「コスモスがそよ風に揺れて」いるのを見つめたくなる。そのとき私はペットボトルだろうか。谷川俊太郎だろうか。コスモスだろうか。

ぼくはこうやって詩を書いてきた 谷川俊太郎、詩と人生を語る
谷川 俊太郎,山田 馨
ナナロク社
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イルマル・ラーグ監督「クロワッサンで朝食を」(★★)

2013-08-21 18:31:46 | 映画
監督 イルマル・ラーグ 出演 ジャンヌ・モロー、ライネ・マギー、パトリック・ピノー
 これは、なかなかわかりにくい映画である。フランスのファッション、調度の詳しい人が見ればすぐに気が付くことなのかもしれないが、私は途中までこの映画が何を描いているのかがわからなかった。
 はっと気が付いたのは、85歳のジャンヌ・モローに50代(60代?)のパトリック・ピノーが添い寝しているとき。ジャンヌ・モローがパトリック・ピノーのシャツのボタンを外す。手を男の胸に這わす。それからジャンヌ・モローの手が男の股間に伸びてゆく。
 男「何をしてるんだ」
 ジャンヌ・モロー「思い出をたどっているの」
 ジャンヌ・モローが演じている女は、過去の輝かしい思い出を生きている。今を生きようとはしていない。その生き方が、たったひとりの暮らし、だれにも会わないのに、きちんとドレスアップし、豪華な真珠の首飾りを付けているところにあらわれている。ティーカップも、とても豪華(高価)にみえる。怒りにかまけて、投げつけて割った後、残ったソーサーを見つめるシーンがあるが、男の股間をまさぐる前だったので、ソーサーを眺めるシーンの意味が分からなかったが、あれは「思い出」を反芻しているのだ。ティーカップの1個1個のも思い出がある。――これは、調度に目利きの人なら即座にぴんと来るシーンなのだと思うが、私はそういうものの価値を全く知らないのでわからなかった。
 ファッションにしても、ジャンヌ・モローがライネ・マギーとカフェへ行く準備のシーン。ジャンヌ・モローはライネ・マギーノ、エストニアから着てきたコートではダメ、といって自分の昔のコートを貸す。ファッションに詳しい人なら、それがいつの時代のもので、いくらするかもわかるかもしれない。このコートをジャンヌ・モローはライネ・マギーに「あなたの方が似合うからあげる」というのだが、これは親切であるというよりも、彼女にコートを着せることで「若いジャンヌ・モロー」をジャンヌ・モロー自身がみているのだ。
 ジャンヌ・モロー、ライネ・マギーはともにエストニアからパリへやって来た女性という設定だが、先輩であるジャンヌ・モローは、彼女よりは若いラインネ・マギーがパリで人生の思い出となるようなことをしようともしないのに怒っているのかもしれない。「私が若ければ…」というわけである。
 ま、こんな「意味」はあまり重要ではない。この映画は、ジャンヌ・モローがどんなふうにパリに溶け込み、同時にパリをどんなふうに輝かせているか(輝かせてきたか)ということに目を向けた方が、きと、生き生きとしたパリが感じられるだろうと思う。先日見た「ニューヨーク、恋人たちの2日間」はパリではなくニューヨークが舞台だけれど、そこに描かれている若いフランス人とジャンヌ・モローの感覚の違いは、パリそのものの美しさの違いとなって表れている。
 どのパリの街角も、静かに、豊かに人を受け止めている。――こういうパリを、私は今までに見たことがなかった、と今になって気が付いている。
(2013年08月21日、KBCシネマ1)
    
エヴァの匂い [DVD]
クリエーター情報なし
紀伊國屋書店
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井野口慧子『火の文字』

2013-08-21 11:54:13 | 詩集
井野口慧子『火の文字』(コールサック社、2013年08月06日発行)

 「光の束」という詩がある。その詩を読んだとき、それまで読んできた詩がさーっと消えて行った。巻頭の「オルガン」の中ほどの、

いつのまにか そのオルガンを
見捨てたのも わたし

 の2行、とくに「見捨てたのも わたし」ということばが美しくて、なんとかその美しさの肉体に近づいてみたいと思っていたのだが、その感じも消えてしまった。――と書くのは、一種の矛盾だが、その行に私は傍線を引いている。その傍線を見ながら、最初に感じたことを思い出したふりをしているのである。こんなことが、「光の束」と関係があるのかどうかわからないが・・・

 「光の束」を読む。

ありふれた街の路上で
あの時 たしかにぼくはきみに出会った
途方もない長い暗闇の底から
ぼくは きみの名前を呼んだ

懐かしい風に包まれて
きみが ぼくの前に立ち
ぼくの名前を呼んだ時
ふるえる大気に 小さな虹がかかった
流れる雲 葉音を立てる樹々
草叢にこぼれる露草さえ
一瞬 息をとめた
二人の足下から 一つの歌が生まれ
地上から海へ 空へ 宇宙へと
響きあう命のリズムが あふれ出した

 抽象的な「抒情詩」なのだが、抽象が気にならない。「音」が懐かしいくらいに美しい。「あの時 たしかにぼくはきみに出会った」という行にみられる「1時あき」の、その空白にさえ透明な声を感じる。
 この詩では「ぼく」と「きみ」が出会うのだが、ふたりは人間であって、人間ではないのかもしれない。
 「ぼく」が会ったのは「ありふれた街」であり、出会った瞬間に、すべてのものが「名前」となって「ぼくの口」からこぼれる。「風」と呼べば風が生まれる。雲も、木も、草叢、露草も、「ぼく」が呼ぶ「名前」と共にあらわれ、返礼のようにして「ぼく」の名を呼ぶ。呼ばれて「ぼく」は風景の光の中に消えてゆく。
 存在するのに、消えてゆく。――消えてどうなるのか。「光の束」になるのか。そうかもしれない。そうではないかもしれない。
 呼んで、呼ばれたということさえ、他人にはわからないかもしれない。
 もしかすると「オルガン」と井野口も遠い昔に呼び合ってであったのかもしれない。呼び合って出会い、音楽をかなでたのだろう。

詩集 火の文字
井野口 慧子
コールサック社
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