詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

若松孝二監督「千年の愉楽」(★)

2013-03-20 21:27:19 | 映画


監督 若松孝二 出演 寺島しのぶ、佐野史郎、高良健吾、高岡蒼佑、染谷将太

 タイトルの文字が出るまでがとてもいい。路地の階段を女が駆け上ってくる。カメラがその女を追いかけ、追い越し、フレームの枠は風景をとらえている。その端っこをさっきの女がかすめて駆け抜ける。頭の一部が映るだけで、全身は映らない。ただひしめき合う家(屋根)があり、その向こうには海がある。山がある。空気がある。土地こそが主役だと感じさせる。土地が人間を生かし、育てているという感じが伝わっててくる。あ、中上健次の世界だ……。
 その前の、山の、蒸気がむわーっと立ち上るシーンもいい。水分が群がって、また散っていく。山の緑は、そういうものを無視して(?)悠然とそこに存在している。随所に映される路地の風景、ひしめき合う家や階段、そして窓……。そういう風景も、とてもいい。土地の空気が生きている。
 でも。
 役者が芝居を始めると、とてもつまらなくなる。特に寝たきりの寺島しのぶと遺影の佐野史郎の「やりとり」がくだらない。ふたりの会話が映画の「枠組み」というか、ストーリーの「枠組み」を説明するのだが、おいおい、そういうことを「ことば(台詞)」で説明してしまったら映画にならないだろう。遺影の写真が動いて話すなんて、冗談にしたってばかげている。そういうふうに見えるのは寺島しのぶにだけ起きることがらであって、観客は関係ないだろ? ひどい。しらけてしまう。
 もし、物語の構造をことばで説明する必要があるならナレーションにしてしまえばいいのである。映画のなかで、三味線にあわせて歌が流れるが、あの歌をナレーションにしてしまえばいいのである。繰り返し繰り返し同じ旋律が揺れ動き、それにあわせてことばが少しずつかわる、というふうにすれば、どれだけ中上健次の世界に近づけただろうか、とそこは残念で仕方がない。ことばの奥を流れる声の旋律、自然に生まれてくる音楽--ことばを超えるもの、肉体の奥にある響きこそ純粋で美しいという中上の思想(哲学/肉体)が鮮明になる。その方がもっと早撮りできるだろうとも思う。(夜の海辺のシーンで、海鳥が飛んでいたが、あれは日中撮影して、色のトーンをかえた、いわゆる「アメリカの夜」という早撮りの手法であろう。)くだらない「枠組み」を撮影せずに、もっとほかの部分を丁寧に描くべきだったのだ。
 だいたい、寝たきりの寺島しのぶがときどき手を合わせて登場人物を紹介するのだが、それって「ことば」を聞いていない限り、高良健吾、高岡蒼佑、染谷将太の区別がない。これじゃあ、映画ではない。だれそれはこうだった、などと説明しなくても、そこに役者が出てくるだけで、お互いの関係がわかるのが映画(あるいは芝居)というものだろう。3人の血の繋がりをことばで説明されたって、どうしようもない。「頭」で3人の関係を理解するのではなく、肉体が発するもので3人の共通性と、それとは逆の個別性をつたえないことには映画にならない。
 この映画には、肉体がないのである。肉体の内部を貫く輝かしいもの、共通の響き(音楽)が役者の肉体によって共有されていない。役者が出てくるが、役者の肉体は動いていないのである。寝たきりの寺島しのぶが動いていないように、遺影の佐野史郎が動いていないように、「主人公」の3人も動いていない。
 原作の、中上健次の、「千年の愉楽」のうねるような文体、主語と述語がねじれるようにして世界を押し広げていく文体が、まったく感じられない。こんな、放蕩を繰り返した一族がいた、彼らは美貌ゆえに女にもて、それゆえに不幸にもなったというようなことを中上は書いているわけではない。
 その残酷な「改悪」に輪をかけてひどいのが、高良健吾の山での芝居。あるいは染谷将太の薪割りの芝居。山の中で下草を刈ったり、斧で薪を割っている感じがまったく伝わって来ない。そういう仕事をしたことをないのはわかるが、したことがないならないで、ちゃんと「練習」しないと。体が芯から動いていない。単に「行為」をなぞっている。芝居の芝居をしているだけ。学芸会よりひどい。こんなへたくそな芝居をスクリーンに映すな。寺島しのぶが新生児を沐浴させるシーンは、寺島が演じているかどうかわからないが、手だけしか映していないところを見ると寺島ではないのかもしれない。それと同じように、吹き替えにしてしまえばいいのである。山仕事をしたことがないばかりか、山にさえ入ったことのない若い役者を山につれていっても、山の空気を呼吸し、それと一体になることさえできない。そんな役者を山につれていけば、山が「書き割り」になってしまう。ロケの意味がない。
 自分の肉体の中にある、何か分けのわからないものに突き動かされて動いてしまう若者の悲劇が神話にまで高められている小説が、まるで紙芝居。生き物の、野蛮というか、エネルギーが欠如したまま、ストーリーが簡便に語られるだけの、ほんとうにひどい映画である。ここまでひどいと、あ、小説を読み返して、中上の世界に浸りなおそうという気持ちにさえなれない。
                        (2013年03月21日、中州大洋2)

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小長谷清実「ベッドから転げ落ち」

2013-03-19 23:59:59 | 詩(雑誌・同人誌)
小長谷清実「ベッドから転げ落ち」(「交野が原」74、2013年04月01日発行)

 小長谷清実「ベッドから転げ落ち」はタイトルどおり、ベッドから落ちるときのことを書いている。

ただいま落下中!
目覚めているとは言えないけれど
眠りの中にも夢の中にも
いるわけじゃない
シーツの端っこをつかんだままなのは
安全をおもんばかっての
とっさの機転か
はて パラシュート代わりの

 思い出すと、たしかにこんな感じだねえ。自分でことばにするのはむずかしいけれど、読むと、「うん、うん」と納得する。ことばは、そんなふうに自分の「肉体が覚えていること」、覚えているけれど自分では言えないことを言ってくれていると、とてもうれしくなる。
 で、そのいちばん「言えないこと」は何かというと……。

目覚めているとは言えないけれど
眠りの中にも夢の中にも
いるわけじゃない

 になるかも。言えそうで、言えないね。
 こう「意識」を分析したようなことばは、言いはじめると理屈っぽくなるのだけれど、小長谷は、さらりとことばにする。ことばが苦しんでいない。音楽のようにも聞こえる。それは、たぶん「言えないけれど」と「いるわけじゃない」のなかにある「い」と「ない」の呼応の関係があるからだと思う。「けれど」「じゃない」の「ど」と「じ」の濁音の響きなんかもね。音が生きている。「意識」が「意味」を追っているという感じではなく、音が自由に動いていってたまたま「意味」とも重なるという感じ。「意味」ではなく「音」がエネルギー。小長谷にとって「意識」とは「音」なのかもしれない。
 小長谷は、その「意識=音」をさらに動かしていく。ベッドから落ちるなんていうのは瞬間的なことなのに、その「瞬間」のなかを、意識は(音は、ことばは)どこまでも動いていける。これは、不思議で、おもしろい。

寝ぼけているのかぼけているのか
この曖昧な状態を
どう分類すべきか表現すべきか
熟慮に熟慮を無意味に重ね
どんな結論にたどりつこうか
うぬ 無益なシーツが
身体にからまる
まといつく むやみに

 ことば(音)の繰り返しがあって、その繰り返しが「意識」を分析しているような気持ちにさせない。何も言っていない。かわりに音楽を追い求める快楽がある。そうか、「分析」というのは、しょせんは、あることを別のことばで言いなおすふりをすることか、そのとき音で遊べば音楽が生まれるのか、という「哲学」まで思い浮かべるのだけれど、

熟慮に熟慮を無意味に重ね

 ああ、いいなあ。「無意味」。ほんとうに「無意味」だね。ベッドから落ちるなんてことを、その瞬間に思い浮かんだことを、「熟慮に熟慮を重ねて」ことばにしたって、それで次から落ちないというわけではないし。だったら、思いっきり遊ぼう。
 でも、「遊び=無意味」だとしたら、それは何になる?

 まあ、詩になる、と言っておこうね。

 「無意味」、あるいは「無益」と承知して、それでもことばを動かす。ことばを楽しむ。音が呼び掛け合って和音になるその楽しみ。--それは「無意味」。「無意味/無益」だから楽しい。
 このあとも、不思議に愉快だ。

ベッドから転げ落ち
ひとは何処に到達するか?
夢あるものは夢の底へか
少し捩れて無の底へか
智慧ある者は知の果てへか
少し捩じれて
痴の果てへか

どうやら 詩行に
捩じれがみえてきた

 小長谷は、小長谷のことばが、結局何処へもたどりつかない、「無意味」にしかたどりつかないことを知っている。知っていて--なおかつ、今回の運動が「捩じれて」、「知の果て」ではなく「痴の果て」なんていうだじゃれになったことも知っていて、これじゃあつまらない、「正しい運動じゃない」ということを結論(?)にしている。
 自己批判?
 そうなんだろうなあ。そうでもなくてもいいけれど。

 だからね。(というのは、いつもの私の「飛躍」。)

 だからね、詩に「結論」なんかはいらない。ただ、ことばが動いて、動く瞬間に、「意味」ではなく、「意味」を超えるものにふれればそれでいい。「意味」を超えるものが、「いま/ここ」のことばを縛っている「意味」を切り離し、自由にする。それでいい。それを楽しめばいい。
 で、「意味」から解放されたことばは--ちょっと脱線してしまったのでもとに戻ると--音楽になる。音になって、響きあう。
 この詩でおもしろいのはどこか、それは、「眠りの中にも夢の中にも」「寝ぼけているのかぼけているのか」「分類すべきか表現すべきか」「熟慮に熟慮を無意味に重ね」のというような繰り返しにある。しかもその繰り返しは「ぴったり重なる繰り返し」ではなく、何かずれを含んでいる。「熟慮に熟慮」のようなまったく同じことばの場合は「無意味」ということばによって、そこに強引な「ずれ」のようなものが、強引ではなく軽く滑り込む。
 「知の果て」「痴の果て」を私はさっき「だじゃれ」と呼んだけれど、つまり、それはとっても「軽い」。
 「軽くて」あるいは軽快で、スムーズに動いていく「音楽」がある。
 丁寧に分析すれば、その「音楽」の秘密は浮かび上がるかもしれないけれど、そんなことはしなくても、あ、小長谷のことばは読みやすい。軽くて、楽しくて--そのくせ、どこかで意地悪(?)なところがあって、意識を刺戟してくる。そう思えば、それでいいのかも。

 声に出して読んだとき、同じような音楽が感じられるかどうかわからないけれど、黙読している限り、私には小長谷の詩は、とても音楽的に響いてくる。その音楽にのせられて、酔ってしまうところがある。








脱けがら狩り―小長谷清美詩集
小長谷 清実
思潮社
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金井雄二「子どもが見た怖い夢」、廿楽順治「ギターの健」

2013-03-18 23:59:59 | 詩(雑誌・同人誌)
金井雄二「子どもが見た怖い夢」、廿楽順治「ギターの健」(「Down Beat 」2、2013年02月28日発行)

 金井雄二の詩をつづけて読んだ。「独合点」と「Down Beat 」に書かれている。「独合点」の「家が燃える」は外出した後ガスストーブを消したかどうか気になる。そしてもどって確かめる。ついていないので安心してもう一度外出する。すると今度は鍵をかけてきたかどうか気になる--というようなことを、そのまま書いたものである。こういう「そのまま」を書きたい、というところにいま金井はいるのかもしれない。「Down Beat 」の「子どもが見た怖い夢」もまた「そのまま」を書こうとしているが、こっちの方が私にはおもしろかった。「わからない」部分があったので。

怖い夢をみたという
どんな夢だったのとたずねると
お父さんが口をあけて寝ている夢だという
そんな夢
何も怖くはないと思うのだが
心の奥底にある
見たくないものを
不意に見てしまうと
どんなものでもすべて怖いかもしれない

 「わからない」のは6、7行目。「心の奥底にある/見たくないものを」というのは、誰の心の奥底にあり、誰が見たくないのか。これは、ことばの流れからいうと、子どもの心の奥底にあるもので、子どもが見たくないもの、と考えるのがふつうの読み方なのだろうけれど。
 私はなぜか、そんなふうに読むことができないのである。
 たとえ、子どもが、子どもの心の奥底にある見たくないもの、というものを考えていたとしても、その子どもの心の奥底を想像した瞬間、それは「私の心の奥底」「私が見たくないもの」になってしまう。こどもと私を切り離せない。
 なぜかなあ。
 たぶん、「心の奥底にある/見たくないもの」という表現のせいだなあ。「見たくないもの」って、「心の奥底」にある? いやあ、違うなあ。見たくないものは、私の外にある。それは、いつでも「私の外」にあって、「私の中」、つまり「心の奥底」にはない。
 という言い方だと、違ってくるか。
 うーん。
 逆に考えてみようか。「心の奥底」って、自分の「肉体」とは別にあるもの? ちょっと考えられない。どうしても「自分の肉体」のなかにあるものを考えてしまう。「他人の心の奥底にある/見たくないもの」というものを、私は想像することができない。
 「心の奥底」といった瞬間(聞いた瞬間)、私は私の心の奥底を思う。
 つまり、その瞬間、「子ども」のことを忘れて、自分のことを思ってしまう。
 「心の奥底」という表現には、何か自他の区別を消してしまう働きがある。
 これはたぶん、金井にも、そのときに起きたことがらである。
 というのも、詩は次のようにつづいていく。

朝の陽の中
器の中のヨーグルト
スプーンですくって
口の中に入れることさえ
現実であるか夢であるのか
いや、これはたしかに現実なのだが
夢を見ているときは
いつも不穏な重みが頭の中を支配していて
それはすべて現実である
ぼくが口をあけて寝ている姿
怖い

 金井は「子どもの心」を離れてしまって、自分のことを語りはじめる。ヨーグルトを食べるという現実のことではなくて……。

夢を見ているときは
いつも不穏な重みが頭の中を支配していて
それはすべて現実である

 これは、金井の「思考」であって、「子どもの思考」じゃないね。子どもがそう語ったのではない。子どもは、子どもの頭の中を不穏な重みが支配しているとは言っていない。お父さんが口をあけて寝ているのが怖いといっただけである。そしてそれは「夢」だといったのであり、それが「現実」だと言ったのではない。
 それなのに。
 金井は、それを自分に引きつけて、夢のなかではすべて現実であると考えている。
 言い換えると--というより、「飛躍」すると。
 金井は、この詩のなかで、最初は子どもの心配をしている。「怖い夢を見たって、それはどんな夢」と子どもに問いかけている。それなのに、答えを聞いた瞬間から、子どものことをほうりだして、夢と現実、怖いというのはどういうことかを、自分の問題として考えている。
 変でしょ? 奇妙でしょ? 子どものことを最後まで心配したら? というのは、まあ、よけいなお節介だけれど。
 で。
 なぜ、こういうことが起きたのか。それは、どこで起きたのか--というと、「心の奥底にある/見たくないものを」ということばが動いた瞬間なのだと思う。そう思った瞬間、子どもと金井の区別がなくなった。
 どうして?
 それが、私には「わからない」。それなのに、「わからない」を飛び越えて、「わかる」。そんなふうに飛躍してしまうのが人間なのだということが「わかる」。で、こんなふうに書いてしまったのだけれど。

 ほんとうは「見たくない」ではなく、「見たい」のかもしれない。「見たい」という本能(欲望)があって、それが「見たくないもの」と言わせているのかもしれない。現実では「見えない」、だから夢で「見る」。夢で欲望を実現する。そしてそのとき実現しているのは「見たくないもの/見たいもの」という何か「区別」のあるものではなくて、もしかすると「怖い」ということをこそ望んでいるのかもしれない。
 --そんなことは、書いてない。
 書いてないから、私は「書いてある」と「誤読」する。



 廿楽順治「ギターの健」。この人の詩の形は詩の行の尻が底にそろっていて、頭は凹凸があるという形なのだが、うまく表記できないので頭揃えで引用する。

教えてやろう
つまびく
ということの神髄はこれさ
健さんのすさびかたにはみんなが泣く
(らしい)
ああいう連中は
くちがうまいからなあ
父親があとでこっそり言ったことがある
あの男の美しい隠語には
「まこと」がない

 廿楽のことばのなかには、何かしら金井が「心の奥底にある/見たくないもの」というようなものが、心の奥底と現実の境目を取り払って結託しているような部分がある。子どもの心か、自分の心か、その区別がなくなって自分に引きつけるように、廿楽は、他人の現実と自分の現実、他人の夢と自分の夢をメルトダウンさせて、ぐにゃりとした感じで現実に噴出させる。健さんのことばも、父親のことばも、そしてみんなが「泣く」ということさえも、「一体」になる。そういうことは、もちろん、あってはならないことなので、というか切り離してしまいたいことがらなので、(らしい)と、わざと「嘘だよ」と言ってみせたりする。でも、この(らしい)がまた奇妙に「冗談だよ(嘘だよ)」ともらす口調に似ていて、不思議な接着力となっている。
 いやあ、うまいもんだねえ。
 嘘とほんとうのみせ方--区別をつけながら、区別をつける、あ、逆かな。
 で。
 不満を言うと。
 「歌」になりすぎていない? 最近は、ことばがとってもなめらかになり、廿楽の書いていることが「現実」というより「物語」になって、物語のなかで、その登場人物たちが「歌っている」という感じ--古今集や新古今集の歌みたいな、技巧的な感じがしてしまう。「うまいだろう」と節を聞かせているような感じといえばいいのかなあ。
 これに比べると金井の詩は「歌」になっていない。へたくそだなあ(失礼)という感じがするのだが。
 うーん、私はほんとうは(?)廿楽の詩の方が大好きなのに、書くなら廿楽のような詩を書いてみたいのに、何か比較をすると、金井の詩の方が、もう一回聞いてみたい(読んでみたい、読み直してみたい)という気になる。
 不思議だ。

今、ぼくが死んだら
金井 雄二
思潮社




化車
廿楽 順治
思潮社
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豊原清明「夜の人工の木 MAN-MADE TREES」

2013-03-17 23:59:59 | 詩(雑誌・同人誌)
豊原清明「夜の人工の木 MAN-MADE TREES」(「白黒目」40、2013年03月発行)

 「夜の人工の木 MAN-MADE TREES」はKIEOAKI FILMの筆名で書かれた映画シナリオ。私は最近、豊原の作品は詩よりもシナリオの方が好きである。映画を見ているわけではないのだが、映画を見ている気持ちになる。

○ 闇

○ KIEOAKI FILM

○ 左手のひらにタイトル(ボールペンタトウー)
「夜の人工の木 MAN-MADE TREES」

○ スケッチブック
  軽い歌声を鳴らしながら、円い女の子を書く。
歌声「まあるい まあるい 女の子
 可愛い口に 可愛いオメメ
やさしいおはな まあるい ほっぺは朱」
  おできの粒粒を書く。
歌声「おでき 皆に からかわれ
 友達独りいなかった
 小雀山に餌あげて
 いつも公園、松が丘、
 公園。」

 映画の始まりだが、「歌」が途中で激変する。かわいい女の子の歌だと思っていたら、突然おできのある女の子、からかわれている女の子になる。その間に何の説明もない。「過去」が突然噴出してくる。この突然さが、豊原のことばの「正直」である。
 かわいい女の子とおできの女の子の「間」には、説明しようとすると「長い物語」があるはずなのだけれど、それを豊原は説明しない。「長い物語」は「おでき」「からかわれ」だけで十分に想像できるからである。だれもが「おでき」「からかわれる」「女の子」の物語を「肉体」のなかにもっている。「覚えている」。その「覚えている/こと」を豊原は、「肉体」にぴったりと引きつける。「いま/ここ」に接続してしまう。「長い物語」は「接続」の「接着剤」である。その接着剤はあまりに協力で、ふたつをつないだあと、その接着面には「間」というものがなくなる。(03月13日に感想を書いた 森山恵「Fall」のことばの動きとはまったく別種の動きである。)そしてそれは、「いま/ここ」の裏と表のように、くっつくことで「一つ」になって、存在している。
 「過去」と「いま」の一瞬の結合。その遠心・求心の姿--とでもいうべきものが、豊原のことば、映画の一こまに、存在する。フィルムに直に張り付いている感じがする。
 そしてそこには「肉体」がしっかりと存在している。不透明な確かさが存在している。左手にボールペンで書かれたタイトルも同じである。「肉体」が覚えていることが記憶なのである。そこに映し出されているのは手のひらと文字だけではない。「書いた」という「こと」が含まれている。それを「タトウー」と思ったという「こと」が含まれている。手のひらの側からの「覚えていること」が含まれている。「書く-書かれる」という相互の関係が「肉体」として「覚えていること」に含まれる。
 「おでき」も同じなのである。「おできができたほっぺ」「からかわれたほっぺ」「からかわれたときの肉体の記憶」「からかった肉体の記憶」が一瞬のうちに、くっついたまま噴出する。

 このあと、映画は熱帯魚(マユコ)の死骸を埋め、それから家へ帰っていくキヨアキを描くのだが、

○ 空

○ 落葉の階段を上がり切る、映像。

○ マユコが元気に動いている映像。

○ 文字「僕にはマユコ以外、友だちがいないので、
  昔の友達を想うけど、今はいないから。」

○ 寒卵を割る、乳の指先。卵の殻を天に上げる、手。
声「これはいったいどういうことだ。ぼくの指に卵の殻がくっついた…。
 これはいったい、なんでやの?」

 「間」が一瞬一瞬、世界そのものとして解放される。そして、その解放された瞬間に、「過去」がフラッシュバックとして甦ってくるのだが、どんな「過去」も甦った瞬間には「いま」である。「いま」と「甦った過去」のあいだに「時間」を差し挟むことはできない。その「あいだ(間)」を計測することはできない。ただ「落葉の階段」のような「世界」があり、そこに「階段を上がり切る」という動き--動きという「いま」があるだけである。「いま」でありながら「いま」ではなくなる何か。「いま」ではなくなり、では「過去」になるかというと、そうではなく、たぶん「未来(これから起きること)」になるのだが、それが起きそうになると、その「起きる」という「こと」のなかに「過去」が、「過去の/こと」が甦ってくる。
 死んだはずの熱帯魚は、思い出すたび「生きている」。そして、熱帯魚が生きている限り、熱帯魚を飼わずにいられなかったKIYOAKIの「過去(友だちがいない)」も「いま」として甦り、「いきる」。
 これは、まあ、説明しようとするとわけがわからなくなるようなことだが、こういう理不尽な「過去」と「いま」の密着感は、だれもが「肉体」で「覚えている」ことである。--と、私は思う。豊原は、その「肉体が覚えていること」を「肉体」の感覚そのままにことばにする。
 そして。
 そのことばが、いつでも「遠いところ」にあるものを、ぐいと引き寄せ、くっつける。何もかもが「くっついてしまう」。
 卵の殻が指にくっつくようなものである。
 なぜくっつくか。卵の白身の粘着力。卵の殻に白身がこびりついていて、それが指にくっつく--というような説明は邪魔である。説明すると、それは卵の殻に限定されてしまう。「意味」が狭くなる。ただ、くっくくのである。ひとが「いま/ここ」にいるとき、「いま/ここ」にあるものが無意味にくっつく。それを「意味」にするか、「意味」にしないまま、ナンセンス(無意味)のまま、自分を「解放する力」として受け入れるかの違いがあるだけだ。豊原は「無意味」のままに、「現実」を、いや「事実」をつかみとる。「事実」を「無意味」という裸の状態にして、「肉体」で直接、がっしりとつかみ取る。受け入れる。
 豊原はすべてを彼を「解放する力」として受け入れる。「いま/ここ」にあるもの、「起きている/こと」をことばにするとき、豊原は解放される。

○ 歩いている父を撮りながら、撮影している、僕。
  カメラを交互に持ちながら、荒れた映像を流す。
  ぱっと、空を映す。

 「ぱっと」解放される。そこには「空」がある。「そら」でもあるし「くう」でもある。「くう」を肉体のなかに取り入れ、過去といまの強烈な接着剤を爆発させるのである。その瞬間の自由--そういうものを、私は豊原のことばに感じる。






夜の人工の木
豊原 清明
青土社
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トマス・ビンターベア監督「偽りなき者」(★★★★)

2013-03-17 21:09:07 | 映画


監督 トマス・ビンターベア 出演 マッツ・ミケルセン、トマス・ボー・ラーセン、アニカ・ビタコプ

 幼稚園の園児がちょっとした思いつきで嘘をつく。聞きかじりのことばを、意味もわからずにしゃべってしまう。そこから始まる不条理と向き合う男……。
 そこに展開される「非寛容」のあり方が、うーん、怖いなあ。これはキリスト教と関係があるのだろうか。映画はクリスマスを意識する11月から始まり、クリスマスイブにクライマックスがあるので、ついついそんなことを思ってしまった。私はキリスト教徒ではないし、キリスト教のことも詳しくはないのだが、「ことば」を絶対的に信じる姿勢、「ことば」のなかに論理(正しさ)が存在するという意識が、何か「非寛容」とつながっているような気がしてならない。
 こんな言い方が正しいかどうかわからないが、「非寛容」というのは「意識=論理」の問題なのである。感情の問題ではなく「論理」なので、妥協を許さない。感情なら「違っていても、まあ、いいか、それもありうるな。どう感じるかは個人の勝手、個人の問題」といえるところを、「論理」はそういう具合にならない。いろいろな見方があっても、それを「ひとつ」にしてしまう。「正しい結論」は「ひとつ」。
 たとえば幼い子どもは嘘をつかない。あとで、それは嘘だと言ったとしても、それはそのときの体験を忘れたいという無意識が働いているのである、という具合。矛盾が矛盾にならないように、あらたな「論理」をつくりだしていく。つまり、「論理」というのは引き返さない運動である。
 「非寛容」は、他人に対する姿勢というより、自分自身(論理自身)に対する姿勢、最初の「論理」に固執するということかもしれない。その、自分の論理にこだわるという意識の強さとキリスト教がどこかでつながっているかもしれないなあ、と私は思う。誤解かもしれないけれど。
 まあ、そんなことは、いいとして。
 この映画は、その「引き返さない論理」(前言をひるがえさない姿勢)をヒステリックに描いているのだが。
 とてもおもしろいと思ったのが、男と女の描き方の違い。
 主人公の男は幼なじみのグループと、ずーっとグループでいる。そこでは男の離婚や、新しい恋人のことはちょっとした「からかい」(やきもち?)の対象になることはあっても、憎悪の対象とはなっていない。
 ところが、女の側からは、どうもそういうふうにはとらえられていない感じがする。主人公を最初に追い詰めるのは幼稚園の園長だが、彼女はどうも独身っぽい。たったひとりの男の存在が気になる。男が、アメリカかイギリスかわからないが、英語を話す若い女となんとなく親しいのも気になっている。俗なことばで言えば、主人公を「セックスの象徴」と見ている。そこへ、女の子が、ふと奇妙なことを言うと、「どうしてそんなことを言うの? そんなことばを言ったらだめよ」ではなく、自分の「願望」へと突き進んでしまう。幼い子どもの話は「こと」ではなく、単に「ことば」であることが多いから、「そんなことばを話してはだめ」で十分なことがあるのだけれど、「ことば」に対して余裕がないと、そのあたりを勘違いする。女の子のことを「想像力の豊かな子」と園長は呼んでいるが、そうではなく園長の方が「想像力」を一方の方向に固定し、「想像力」を「論理」にしてしまうのである。「こと」ではなく、「ことば」をそのまま、出発点にしてしまうのである。
 だいたい、男の性器が「ぴんぴんに立っていた、棒みたいだった」(デンマーク語でどういうか知らないけれど)というような「比喩」は、それを聞いたり話したりしている人間にしか言えないことばである。女の子は実際、兄たちがそう話しているのを聞いたので、そう言っているのであって、それを「見て」、そのことばを言っているのではない。「ことば」はいつでも「耳から」入ってくるものであって、「見る(触る)」だけでは「ことば」は生まれない。そういうことを知らないから、園長の「論理」は妄想へと暴走する。
 これは逆に言えば、「ことば」は「見なくても」、「聞く」ことだけを頼りに増幅するということをも意味する。
 で、実際、この一方的な「論理」は、幼稚園の教師たち(主人公以外は全員女性)によって、増幅される。「見ていない」からこそ、増幅する。「見ている」ことを頼りに増幅する。つまり、若い女性と主人公が親しい関係にあるということが、なんというのだろう、成熟した女性と性的交渉のある人間なら幼い子どもを性の対象にはしないという具合に論理が進むのではなく、離婚した男が(私以外の)若い女性と性関係を持つだけではなく、さらに幼い子どもにまで手をのばす--私を無視して、というような妬み(?)を栄養にしながら「いやらしい」「ヘンタイ」という具合に、奇妙に増幅される。
 その「論理」に男たちがひっぱりまわされる。自分の潔癖(妻だけを愛している、純粋なキリスト教徒である)を証明するために、男たちは女の「論理」に乗ることしかできない。そして、その「憎悪の論理」に乗ってしまうと、男の方が暴力的になるのだけれど。そこが、男のばかなところなのだけれど。つまり「論理」を正当化(補強?)する方法として暴力しか思いつかないというところが、男のばかなところなのだけれど。そしてそこにも、やはり主人公に対する一種の「嫉妬」があるかもしれない。男もまた「嫉妬」を生きる。「感情」を「論理」を借りて、吐き出している。隠れている「感情」を「論理」を借りて吐き出すという点で、女と男は共通し、--そういう要素がまたキリスト教にはあるということかなあ。
 あ、脱線して行ってしまうなあ。
 この奇妙な「論理」の厳しさが、映像の厳しさ(?)になって、映画のなかを動く。映像は、とっても清潔。純粋。男と幼稚園児のセックスというようなものとは無縁の清潔な、張りつめた感じて動く。まあ、そういうものはなかったのだから、不純に、濁るということはありえないのだけれど--それに拍車をかけたように、厳しい感じで映像が引き締まっている。デンマークの冷たい冬の空気そのままに、人間を厳しく切り刻む。(北欧の映画は、こういうことが好きだなあ。)
 冷たい空気に切り刻まれる人間のあり方、その象徴としての主人公を演じたマッツ・ミケルセンがすばらしい。わけのわからない状況においこまれても、「論理」を逸脱させない。逸脱のしようがなく、ただ緊張感のなかへ結晶していく。肉体が悲鳴を上げるまで。彼は「ことば」を生きていない。「肉体」を、言い換えると「肉体」を生きている。冒頭の、初冬の川で足がつった友人を助けにいくシーン、それから幼稚園で子どもたちと遊ぶシーン。そこには「ことば」に先立って、「肉体」の接触、行動がある。「ことば」ではなく、「肉体」で他者と接する姿勢がきちんと描かれている。「肉体」があって、そのあとで「ことば」が追いかけていくという生き方を、実に自然に演じている。主人公にとっては、「論理」は「ことば」ではなく「肉体」なのである。実に、説得力がある。この「肉体」が「ことば」である、ということを、なかなか「ことば」で「論理」を暴走させてしまった周囲のひとは見ないのである。
 映画は、主人公が「肉体」で「自己主張」することで、最後にきて、ぱっと動く。主人公は、主人公の友人であり、「被害」を訴えた少女の父親に、「おれの目を見ろ」という。「ことばを聞け」ではなく、「肉体」をしっかりと「見て」、触って(殴りあってでもいい)、そこから「肉体」そのもの、「ことば」を超えるもので判断しろと迫る。クリスマスのミサから、主人公と少女の父親が「和解」するまでが、とても美しい。この、そこには「男の肉体の論理(肉体の論理)」が動いていて、少女の父親がもってきた料理を主人公が食べるというシーンで終わるといいなあ、ここで終われよ、と思っていたのだが……。
 その1年後。うーん、不気味だなあ。あれはなんだろう。一度動いた「論理」は二度とはもとにもどらない。どこかで動きつづける。「ことば」(あるいはキリスト教)とはそういうものであるというメッセージだろうか。このラストに私は「意味」をつけくわえたくない。だから、ここで感想を突然、打ち切る。また何か感じたら、そのときまた書くために。
                      (2013年03月18日、KBCシネマ2)




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松岡政則「詩のつづきにいると」

2013-03-16 23:59:59 | 詩(雑誌・同人誌)
松岡政則「詩のつづきにいると」(「交野が原」74、2013年04月01日発行)

 ときどき、感想なんかいらない、ただ好きといってしまえばいいという詩に出会う。「好きな人」を見つけたときのようなものだ。なぜ好きかなんて、わからない。突然、あ、このひとが好き、好きでたまらないというのと似ている。松岡政則「詩のつづきにいると」はそういう作品である。くさのさなえの『キルギスの帽子』を読み、そのなかの一篇「村の一角」を読んだあとのことを書いている。松岡はくさのの詩が好きになり、私はくさのの詩が好きになった松岡の詩が好きになってこの文章を書いているのだが……。あ、ごっちゃになってしまいそう。--で、松岡にもどって、松岡がどんなふうにくさのが好きかというと。

「村の一角」のつづきを夢想する
みっつ先のバス停でのりこみ
くさのさなえのななめうしろに坐る
ビシュケク行きの小型バス
キルギス人もウズベク人も
かおを背けたまま押し黙っている
うしろでヒソヒソやっているのはウルグイ人の母娘
車窓に点在するユルタがながれ
ヒツジやヤクの群れがながれ
ユーラシア大陸のど真ん中
バスにゆれるに任せて訊いてみる
アクタン・アリム・クバト監督の『明りを灯す人』を観た?
くさのさなえは黙っている
ふり向きもしない
眉のあたりがなんだこいつ、という感じ
そうやって詩のつづきにいると
もうどんな自分でもかまわない、と思えてくる

 このとき、松岡は「いま/ここ」にいない。そして、くさのさなえのいる「あの時/その場所」にいるのでもない。どこにいるかというと、「つづき」にいる。くさのの書かなかった「つづき」を勝手につくって、そこにいる。「つづき」とは「つながること」であり、その「つながり」を延長することは、新しい「いま/ここ」をつくりだしていくことである。
 松岡は勝手に、新しい「いま/ここ=つづき(未来)」をつくりだしている。それは、好きな人に出会ったとき、その人がどういう過去を持っていて、これからどういう時間を生きていくつもりなのかなどということは無視して、勝手に未来を「妄想」するのに似ている。この人といっしょなら、あれをして、これをして、それから……。それは「独りよがり」かもしれないけれど、瞬間的に、そういうことを思うことがあるね。
 で、そういう「独りよがり」は、相手のことを無視しているのだけれど、それがさらに高じてくると、

もうどんな自分でもかまわない、

 というところまで行ってしまう。相手がどうなるかだけではなく、自分がどうなってもかまわない。松岡はくさのが好きなのだから、くさのといっしょにいるなら自分がどうなってもかまわない、ということろまで行ってしまう。ただ「つづくこと=つづき」、「つながっていること=つづき」が大事なのである。「つながり」のなかに「つづき」があるのだから、そしてその「つづき」だけが大事なのだから、つながっている端っこ(?)の存在なんて、どういう姿でもいい。
 だいたいくさのの乗っているバスに先回りして、みっつ先のバス停で乗り込むなんていう「超ストーカー」をやっているのである。もうすでに松岡は昔の松岡ではない。「どんな自分でもかまわない」どころか、もう「どんな自分かもわからない」。それでもいいのだ。どんな自分になったって「つづき=つながり」があるだけではなく、その「つづき=つながり」があれば、松岡は松岡として「つづき=つながり」のなかにいる。
 こういう「つづき=つながり」はどんどん増幅する。
 くさのといっしょにいると、そのバスに知らない人が次々に乗ってくる。それは知らない人だけれど、くさのといっしょにいるからくさのの知り合いであり、くさのの知り合いなら松岡の知り合いなのだ。つづいている。つながっている。バスの窓から見えるヒツジやヤクさえも、くさのの知り合い(よく知っている動物)であり、当然、松岡だって、ヒツジやヤクの一匹一匹と友達である。
 バスに乗り込んでからの、描写のスピード(登場人物や登場する動物の変化のスピード)が、そのことを語っている。ぱっとでてきて、何の説明もないまま、それで完全に「つづき=つながり」となってしまう。どんなにスピードを加速しても離ればなれにならず、逆に強く接触してくる感じ。強く強くつながる感じ。「顔を背けて押し黙っている」人にさえ、その人の感じていることは、松岡のこころに「つながる=つづく」。みんな、知っている人なのだから。一度も会ったことがなくても、その土地を知っていれば、つまり土地で「つながる」ならば、その人の感じていることはわかる。
 いいなあ、人が次々にかわりながらつづく、この超スピード。その土地の「いま/ここ」に直に触れている。くさのに、直に触れている。直にふれているので「なんだこいつ」という反応にさえよろこびを感じる。直にふれていないひとの思いはわからないものだからね。「つながる」と「つづく」が同義のものであることが、一体であることがよくわかる。
 などと思っていると。うーん、これでは、ますます「ストーカー」的な「独りよがり」の世界になってしまうか。
 でも、かまわない。
 と、思っていると、この詩には最後に注釈があって、

*「村の一角」はインドの村と思われるが、かまうことはないキルギスにした。

 あ、松岡さん、だめ(私はここで、大笑いをしてしまう。)「かまうことはない」はだめ。絶対に、だめ。かまってください。(笑いが止まらない。)
 「だめ」と言いながら、私は大笑いしながら共感してしまう。
 いいんです。かまうことはない。絶対に、かまうことはない。好きになったんだから、何をしたっていい。くさのが抗議をしてこようが、関係がない。「キルギス」と「誤読」することでしか到達できないものがある。その「誤読」は、くさのにとっては「誤読」かもしれないが、松岡自身にとっては絶対的に正しい本能の選択である。本能に間違いなんて、ない。
 で、本能に間違いがないからこそ、人間の暮らしってたいへんなんだけれどね。
 ほら、いくら松岡がくさのが大好きであっても、くさのは「なんだこいつ」と思うだけかもしれないからね。
 それでもいい。「誤読」すればいい。「誤読」のなかには直感の、頭を潜り抜けない肉体の「ほんとう」がある。「ほんとう」と「ほんのう」は一音違うが、こんなものはことばの「訛り」であって、「意味」は同じである。それが「ほんとう」であるかぎり、それは通じる。「なんだこいつ」という反応だって、松岡の「ほんとう」を本能的に感じるから「なんだこいつ」という反応になるのである。「ほんとう」がぜんぜん感じられなかったら、そういう反応はない。
 応援します。このまま、どんどん「つづけて」ください。ことばのセックスで何度でも何度でも絶頂までのぼりつめて、何度でも果ててください。絶倫を発揮してください。がんばってください。









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松岡 政則
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ロバート・ゼメキス監督「フライト」(★★★)

2013-03-16 11:16:17 | 映画


監督 ロバート・ゼメキス 出演 デンゼル・ワシントン、ドン・チードル、ケリー・ライリー

 映画がはじまってすぐデンゼル・ワシントンの朝の様子と、ケリー・ライリーの様子が交互に描かれる。ケリー・ライリーの方は薬物中毒で、ドラッグをもとめて知人を訪ねていくのだが……うーん、これって見え透いた「伏線」。きっとデンゼル・ワシントンと出会い、中毒(依存症)から社会復帰をめざすんだな、と思っていると、その通りになる。まあ、最初の出会いは緊急着陸で負傷したデンゼル・ワシントンと、中毒のため死にそうになり搬送されたケリー・ライリーが病院で出会うのだけれど。
 何か、見え透いたストーリー展開がいやだなあ、と思っていたんだけれど。何度も立ち直りそうになりながら、またアルコールに溺れるが繰り返される。最初はケリー・ライリーの方が深刻なのだけれど、彼女が先に立ち直り、デンゼル・ワシントンをささえる。それが目に見えている。そのいやな印象の原因(?)ような、ケリー・ライリーが消えてから、映画がほんとうに動きだす。デンゼル・ワシントンがほんとうに演技をしはじめる。二人が出ているあいだは、薬物中毒とアルコール依存症の、どうしようもない感じの映画なのだけれど。
 ひとりでアルコール依存症を隠し、また事故が起きたときの飲酒を隠そうと、あれこれ手をまわしという、だらしない男を延々と型通りに演じたあと、いったん断酒し、けれどもついついホテルのミニバーのアルコールに手を出して。審査会を乗り切るために、ドラッグで覚醒して。という、さらにとんでもない役どころを演じたあと。
 審査会で飛行機の機体の整備ミスがはっきりしたあと、飛行機のなかでアルコールを飲んだのか飲まないのか問われ。死んだ女性アテンダントがアルコール依存症で治療を受けたことがあるというような「事実」があきらかになって。飛行機内で見つかったアルコールの空瓶、それを飲んだのはデンゼル・ワシントンではなく彼女だと言い逃れることができるように「お膳立て」がととのったところで。
 彼女はシートベルトから外れた少年を助けるために活動し、その結果死んだのだということを思い出し、アルコールを飲んだのは彼女ではなく、自分だと「告白」する。このクライマックスがなかなかいい。自分のせいではない、とデンゼル・ワシントンはいいたいのだが、かといって、そういうためにだれかに「罪」をなすりつけることができない。女性アテンダントがアルコールをのんでいたとしても飛行機の事故とは関係がないから、それは「罪」のなすりつけにならないのだけれど、「罪」のなすりつけにならないからこそ、デンゼル・ワシントンには、それができない。のんでいないという「嘘」をつくだけではなく、彼女がのんだという嘘になってしまうからだ。
 自分が嘘をつくのはいいけれど、その嘘のためにだれかに嘘を背負わせることはできない--というのは、正直なのか。あるいは、それは人間として弱いのか。あるいは強いのか。考えると、ちょっと、ややこしい。どっちでも、いい。そのとき、デンゼル・ワシントンが、何かふっきれたように透明になる。その感じがなかなかよかった。
 で、この映画--さらにいいのは、このあとケリー・ライリーが出てこないこと。セスナで外国へ逃げようと持ちかけられた翌朝、デンゼル・ワシントンに愛想をつかして出ていく。その彼女が、最後にでてきてデンゼル・ワシントンと再会し、彼をささえるというようなことをしないこと。前半のエピソードでおしまい、ということ。
 で。
 これは矛盾した言い方になるかもしれないけれど、そういう展開ができるのなら、最初からケリー・ライリーは出すべきではなかった。彼女がいることによって、デンゼル・ワシントンの抱えているアルコール依存症の問題、その生活がどんなふうに他人に影響を与え、また彼自身を複雑したかが、明確にならない。間接的になってしまう。ケリー・ライリーをとおして、デンゼル・ワシントンの「過去」が明らかになるのであって、その「過去」のなかではデンゼル・ワシントンは苦悩しない。(ように見える、ストーリーとしてそう描かれているだけに見えてしまう。)
 これがクライマックスの演技すばらしさを、なんというのだろう、弱めるというのはいいすぎだけれど、十分ささえきれない。彼女の存在なしで、離婚した妻や息子、さらには父親、祖父、同僚、あるいは近所の人との関係として丁寧に描かれていれば、デンゼル・ワシントンの「救い」ももっと強烈になったのに、と思う。
 せっかく、ほんとうのラストのラストで「和解」した(父親を受け入れた)息子がたずねてきて「お父さんは何者?」という質問をし、ああ、知っているくせに、というような明るい希望が輝く瞬間を描いているのにねえ。

 あ、前半の飛行機が不時着するまでの、スピード感ある映像は、とてもよかった、とつけくわえておく。
                        (2013年03月13日、天神東宝4)


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あの日、

2013-03-16 10:06:41 | 
あの日、雨の降る日曜日へとことばは帰っていく。川向こうの家の空き地に、冬のあいだも緑だった木々を背に、やわらかな黄なりの花が開いていた。こまかい雨にぬれて溶けだした色が輪郭をなくし、藍色に見える木々の暗さのなかに滲んでゆく。風のかたちのように膨らんでは散らばっていく雨の濃淡の叢に、それはとても似合っていた。ふるさとを離れて幾年かがすぎたら、きっと見るに違いない絵を見るように感じた。それを詩に書こうと思った。あの日。しかし、ことばは冷え冷えとして、動いてはくれなかった。遠近法のない曲がりくねった道をバスがやってきて、ことばの空洞を通り抜けて、見えない方向へ去って行ったのだった。



「象形文字編集室」@フェイスブック
http://www.facebook.com/pages/%E8%B1%A1%E5%BD%A2%E6%96%87%E5%AD%97%E7%B7%A8%E9%9B%86%E5%AE%A4/118161841615735
で詩のリハビリをしています。

読んでみてください。
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くりはらすなを『月夜の晩』

2013-03-15 23:59:59 | 詩集
くりはらすなを『月夜の晩』(西田書店、2013年02月25日発行)

 くりはらすなを『月夜の晩』にはいくつかの種類の詩が混在している。「最期」という「童話」のような作品が私にはいちばんおもしろかった。

森では
捕らえれた
猪が
さっきから
足を
紐で括られ
悲鳴をあげている
森よ
その声は木々のあいだを抜けてゆき
影となって
危険を
伝えるだろう

腹では
桃のような乳が
ざらんざらんとゆれていて
子供の声をさがしている

 最後の4行が美しい。思わず、我を忘れてしまう。
 それまでは、くりはらが猪と森を描写していた。ところが、ここではくりはらは描写していない。--というと、まあ、奇妙な言い方になるが。
 くりはらは、ここでは猪になっている。さらに言えば、猪の腹、猪の乳(乳房、乳首)になっている。
 小さな猪、猪の子供が母親の乳房をさがしもとめるということはあっても、あるいは母親の猪が子供に乳をのませるために子供をさがしもとめるということはあっても、「腹」や「乳(乳房)」そのものが猪の子供をさがすということはありえない。「乳房」は何かを想像したりしない。「意思」をもって動くのは「頭」である。あるいは「こころ」である。
 というのは、「屁理屈」。
 このとき母親の「いのち」のすべては「乳」にある。子供に乳をのませたいと思っているのは、乳房であり、そのなかにある乳そのものでもある。
 そういうことを、私たちは(私は)直感的に知る。納得してしまう。

 「乳」が「子供の声をさがす」というのは、論理的に「奇妙」である。朝日新聞が紹介していた言語学者の角田太作(きのうの「日記」参照)は、こういう「奇妙」とどう向き合うだろうか。
 --しかし、こういうことを「奇妙」と読んでしまうことの方が「奇妙」である。
 くりはらが書いていることを読んで、それが「奇妙」だと感じるとしたら、その方が「奇妙」だと思う。
 猪ではないけれど、こういう「母性」を私たちは日常的に知っている。私は「母」の肉体になったことはないが、それを自分の肉体のように覚えている。たぶん、乳房に吸いついたとき、そこからほとばしる乳を肉体が覚えていて、それが私に私の小さいときだけではなく、そのときの「母」を思い出させるのだ。乳房に吸いついていたとき、そして夢中で乳を飲んでいたとき、私は「母」と「一体」だった。乳を飲んでいるのだけれど、乳を飲ませている母がそのとき「肉体」として、私の「肉体」とつながり「ひとつ」になった。ふたつは切り離せない。子どもが母親の乳をさがすように、母親の乳は子どもをさがすのだ。ふたりは出会って「ひとつ」になる。「ひとつ」になろうとして、乳が赤ん坊をさがしている、赤ん坊に吸いつかれることをもとめている。
 こんなことは、いちいちことばにするとうるさい。だんだん、嘘っぽくなる。というか、理屈っぽくて、聞くのがめんどうになる。肉体(思想)は、そういう「理屈」を必要としていない。
 つまり。(というのは、私の「飛躍」であるのだが。)
 この「乳が」「子供の声をさがしている」というのは、肉体の思想が、直に、ことばになっているのである。直に発せられた思想は、そのまま肉体にぶつかってくる。こんなことばに対して、いちいち「理屈」をこねまわしても、それは詩のことば(絶対的な思想/本能)から遠ざかるだけである。

 余分なことばかり書いたが。
 ここには、ともかく、くりはらの肉体(絶対的思想/本能)が直に出ている。それが剥き出しであるから、強い。それが、すばらしい。

 「翅」という作品は、「最期」とはまったく逆のものかもしれない。

気が付くと玄関の引き戸のやっと手が届くような所に、奇妙な色をした一枚の枯葉が張り付いていた。まだ木枯らしが辺りで吹き荒れていて、じっとしていると手が冷たくなってくる頃だ。それは何時から張り付いていたものなのか、風の中びくともせずに形を保っている。

少女は奇妙な気分でその場に立ち止まる。つま先立ちのまま、指は枯葉に触るつもりである。触れた瞬間、枯葉はいきなり一対の翅となる。その呆気なさ。

飛び立った翅が再び現れるのは年老いた時。記憶の底がぱっくりと開いて時間が永遠に広がる。

 起きたことをすべて「頭」で整理しなおして、ことばにしている。そうして、ことばで描いたものは「永遠」のいう形で存在する。
 この「永遠」は猪の乳房が子供をさがしているという「いま/ここ」とはまったく逆である。猪には「いま/ここ」しかない。「肉体」しかない。猪は、年老いて、罠にかかってとらえられたことを思い出したりはしない。思い出の中に「永遠」があるとも思わない。
 「翅」に書かれていることは、直には、私の肉体に迫って来ない。「頭」のなかで、蛾を枯葉と勘違いし、それに触れようとしたことがあった。その、何かを別のもの(夢のようなもの)と勘違いし、触れようとしたらそれは「現実」になって消えてしまった--という夢と現実の関係の中に「永遠」がかいま見える。ということは「頭」のなかでは「永遠」かもしれない。
 でも、こういう「永遠」はあまりおもしろくない。どきどきしない。「最期」の猪の乳の方がどきどきする。死んでしまうのに「永遠」を感じる。

 「寄り道」は、「最期」と「翅」が不思議なバランスでまじりあった作品かもしれない。

その年のクラス替えの後、彼女は私に声を掛けてきたのだった。彼女は自分の家に来ないかと誘い、学校帰りに私たちはくねくねと曲がった住宅街を歩いていった。確かに途中までは知っていた道だったが、少しずつ知らない景色の中に入り込んでいく。私は次第に不安になり、家に帰る道はどれだったろうかと時折振り返る。二人して足早に路地を通り抜けていくと住宅街からはしだいに遠ざかり、広々とした運動場のような処に着く。門を抜けると、古びれたプレハブ小屋があり、その中に案内される。薄暗がりの中で彼女の母親らしき人が話しかけてくる。何を話したのかは覚えていない。月並みな挨拶のようなものだったかもしれない。外に出ると、地面は暑さのせいですっかり干からびてしまっている。それから二人して、パズルのようにひび割れたひとつひとつを剥がしていく。爪の中に泥が入り込んできて取ることができない。

 最後の「爪の中に泥が入り込んできて取ることができない。」がいい。「肉体」が覚えていることが、そのまま「肉体」に直にぶつかってくる。爪のなかの泥が、私の爪でも、私がさわった泥でもないのに、ぐいと目に食い込んでくる。
 この「肉体」がぶつかってくるとき、私たちは(私は)、その「肉体」を正確につかみとっていないかもしれない。けれど、「肉体」がぶつかってきたという「感覚」は私の「肉体」のなかに残り、ぶつかった瞬間、そこに「同じ肉体」を感じる。「思想」の深いつながりを感じる。本能としての思想を感じる。
 それは「人魚構文」というような「頭」でつかみとった「真理」とはまったく違う「事実」である。「事実」が直接そこにあれば、それが「真理」かどうか(「頭」で整理したとき、奇妙ではなく、正しいかどうか)ということは問題にならない。というよりも、私は「頭」は間違えるが、本能は絶対に間違えないと感じている。肉体の思想は間違えないと信じている。
 それは、次のようなことを考えればいいのかもしれない。
詩の前の方に書かれている「くねくねと曲がった」の「くねくね」の「体感」、「少しずつ知らない風景の中に入り込んでいく」の「少しずつ」の「不安」と「知らない」の「不安」--その肉体に深く食い込んでくるもの、「覚えていること」と「何を話したかは覚えていない」の対比。「肉体」は「覚えている」、けれど「頭」は「覚えていない」。話した内容は「覚えていない」が、人と人が出会ったら「話す(ことばをかける)」という「肉体」の行為は間違いなく「覚えている」。
 「頭」はときどき消えてしまうが、そのときも「肉体」は残っている。その残っている「肉体」のなかを、ことばは動いている。「肉体」をぬきにして、「頭」のなかだけを調べて「奇妙」というのは、それこそ「奇妙」なことであるように私には思える。
 あ、論理がどこかでずれてしまった。私はまだ角田のばかげた「人魚構文」という「見方」にいらだっているのかもしれない。




天窓―くりはらすなを詩集
くりはらすなを
七月堂
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森山恵「Fall」

2013-03-14 23:59:59 | 詩(雑誌・同人誌)
森山恵「Fall」(「hotel 第2章」2013年03月01日発行)

 森山恵「Fall」について何が語れるだろうか。わからない。わからないまま、気になっている。

落葉色に一日がはじまる
窓の外にもテーブルのしたにも枯葉が積み重なって
小皿----のパンが乾く
バタを塗り紅茶に浸して渇きをとめようとしても渇きはとまらない

見知らぬ人から茶色紙の包みが届く
きっちりと紐で括られた古風な包みが怖くて開けられない
かたかたと軽い空舟
のような箱

テーブルの下の落葉を素足でかき混ぜ
-----乾いたパンのカケラを飲み下す
なん枚も貼られた古切手は二色刷り
帆船の図柄で------どこかの荒海を渡っている

 いくつもの「もの」がバラバラに存在している。「落葉(枯葉)」「乾くパン」「茶色の紙に包まれた箱」「古切手」「帆船(空舟)」。そして、それをつないでいるものはといえば、3行目に出てくる「----」という長い線なのである。この線は3連目では1字分ずつ長くなっている。最初は4字分、次が5字分、6字分という具合。
 この「-----」は何?
 ことばではない。ことばではないものに、何かを託している。そしてそれがことばではないから、「意味」ではないから、接続が切断にも思える。

小皿----のパンが乾く

小皿のパンが乾く

 ふたつを比べてみるとわかる。「小皿のパンが乾く」では「意味」がそのまま「わかる」。「小皿----のパンが乾く」には、「----」の不可解な「間」がある。ことばは、ほんとうにこのとおりに動きたかったのだろうか。森山は、ほんとうに「小皿のパンが乾く」ということを言いたかったのだろうか。ほかに言いたいことがあるのだけれど、そこにたどりつけないので、どうしようもなくなって「----」のあとに「のパンが乾く」とつないだような感じが残る。
 そしてこの瞬間、「間」こそが森山の「肉体」になる。
 そのどうしようもない「間」の前には、落葉(枯葉)から「小皿」への飛躍がある。なぜ、落葉から皿へと「主題(?)」が動いたのか。その間には、まあ、「テーブル」というものがある。テーブルの上に皿があるから、小皿。
 まあ、そうだね。そして、そういう視点で見ていくと、「落葉(室外)」があり、「窓」があり、同時に「窓の外」があり、室内にはテーブルがあり、テーブルの上には小皿があるという具合に世界は「接続」している。テーブルの下に「枯葉」があり、反対にテーブルの上」には「小皿」があり、さらに「小皿の上」にはパン--と視点はどこまでもつながっている。
 つながっているように見える。
 でも、ほんとうはつながっていない。外に落葉の風景があるとしても、それに向き合う形で「室内」がなければならない理由はない。室内にテーブルがあり、その下には枯葉があり、その上には小皿がある必要はない。特にテーブルの下の枯葉は異様だ。ほかのものだってありうる。たとえば、本棚があるとか、壁に絵が掛かれているとか。あるいは枯葉の向こうに公園があり、そこにはブランコがある、誰もすべっていない滑り台もある、とか。
 世界を「つないでゆく」のは、人間なのである。森山なのである。つなぐ「もの」と「もの」の「間」なのである。つなぐときにできる「間」が「つなぐ」のである。--あ、これでは同義反復か……。
 詩にもどる。
 小皿まで世界をつないできたとき、そこから何をさらにつなぐか。その「つなぐ」における「間」の特徴とは何か。何を「接着剤」にして、「間」を埋める、「間」を埋めて「つなぐ」か。
 「パン」だけではつなげなかった。そこに「乾く」という動詞を持ち込む必要があった。そうであるなら、その「乾く」が森山にとっての、この瞬間のキーワードである。「乾く」という動詞が「接着剤」となっている。
 この「乾く」は「落葉(枯葉)」の乾燥(乾き)とも重なっているのだが、だからこそ予兆のようにしてテーブルの下に枯葉があり、潜在意識としての、本能としての枯葉があり、「かわき」が「渇き」に変化するとき、そこには森山の「肉体」が直接的に、直に、ことばのなかに入ってくる。森山が「渇いている」。だから「落葉(枯葉)」の乾きをひきよせ、パンの乾きをひきよせ、いっそう「渇いてしまう」。
 パンの「乾き」がとめられないのではなく、森山自身の「肉体」の「渇き」がとめられないのである。「渇き」はすでにあって、それが出会った「もの」によって増幅される。そだからこそ、落葉ということばから詩ははじまっている。そして、その自分の「渇き」をパンの「乾き」とどこかで混同する。その混同した「接続」までの、不思議な「飛躍」が「----」という接続なのである。この「----」という沈黙の中に、「肉体」の動き、「動詞」がことばにならないまま動いているのである。ことばにならない動き、それが「間」であり、そこにすべてがある。

 「乾き」は「水分がない」こと、「渇き」も水分がないこと、そして「ない」ということは「空」ということ。「空舟」の「空」。舟もまた、何かに「渇いている」。舟は何に「渇く」か、何を切望するか。海である。海はどこにあるか、包みに貼られた古い切手のなかにある。
 こんなふうに、すべての存在が、ばらばらでありながら接続していく。ことばにならない動詞でつながっていく。つまり、その瞬間に、必ず「肉体」が介在してくる。「間」のなかで肉体の動きがことばにならないまま存在している。
 3連目。「-----乾いたパンのカケラを飲みくだす」。そうすることで、森山の肉体はパンの乾きそのものとなり、さらに渇く。その渇きのなかで森山の視線は古い切手、古い切手のなかの帆船と海(大量の水)に出会う。パンを飲み下そうが飲み下さまいが、古い切手の図柄にかわりはないけれど、パンを飲み下すとき、森山はその模様に「-----」という「間」を超えて接続する。「肉体」を「いま/ここ」にあるもののあいだに強引にわりこませると、「もの」が接続して「世界」ができあがる。

王室御用達の醗酵バタはなんの助けにもならない
パンの耳と一緒に薬指を喰いちぎる
のこりの指
は喜望峰をやさしく撫でているから

紐の固い結び目
が責めるように凝視するのが恐ろしくて
開けられない
それでも差出人は秋箱だからこの箱を愛してみる 心を籠めて

 「肉体」をどう割り込ませていいからわからないから、「薬指を喰いちぎる」というようなこともしないといけない。もちろんこれは、「ことば」だけのこと。「ことば」だけだけれど、「肉体」なのだと、「-----」は言うのである。「切断」をことばではない「-----」によって接続するのである。
 だから、そこでは、「現実」とは違った何かがはじまる。

のこりの指
は喜望峰をやさしく撫でているから

 この行の渡り、そして「喜望峰」を撫でるというとき、その「喜望峰」は切手に描かれた「海」の向こうにある。ほんとうは存在しない。そこにない「喜望峰」、つまり現実の、アフリカの喜望峰を「肉体の意識」としてなでるのである。肉体の運動(動詞)はそこまで飛躍することができる。
 「肉体」がそのように動くとき、「意識」は「心」になる。「心を籠めて」の「心」に。この「精神としての意識」ではなく、「肉体の意識」から「心」への移行(というか、接続?、すりかわりといえばいいのか……)には、また「乾き」「渇き」に似たことばの交錯が働いている。
 「秋箱」。「空(から)舟」「空箱(からばこ/あきばこ)」「秋(あき)箱」。一種の「誤読」が「固い結び目」となって働いている。それは「空想」ではなく、何かもっと「肉体」に密着しているものとして感じられる。それは「パンの乾き」を自分自身(森山自身)の「渇き」と結びつけたときからはじまっているのだ。一度そういう「結び目」をつくると、それはどんどん「固く」なっていく。その固さが「-----」という「ことば」にならないことばのなかにある。
 そう感じる。



 森山の詩とは直接関係はないのだけれど。03月05日「朝日新聞」夕刊に、とても奇妙な記事を見つけた。「人魚構文」に関する記事である。「上半身が人で下半身が魚の人魚のように、種類のことなるものがくっついて一つの文になる」ものを「人魚構文」というそうである。

 たとえば「太郎は明日、大阪に行く予定です」という表現がある。言語学者の角田太作(つのだ・たさく)は20年ほど前に「奇妙な文だな」と思った。世界の諸言語を比べて相違点を調べる言語類型論の専門家だ。
 「太郎は人間なのに『太郎は予定です』と表現するのは意味の点でおかしい。文構造もかわっている。前半は『太郎は行く』という、動詞が述語の動詞述語文で、後半は『予定です』の名詞述語文。こんな人魚のような構造の文は、たとえば英語では成り立たない。しかし従来の日本語研究には、これを奇妙な文ととらえる見方がなかった」

 私は、申し訳ないが、笑ってしまった。
 変な構造の文といえば、まず私たち日本人がふつうに習う外国語・英語でいえば「関係代名詞」を含んだ文がある。「太郎は明日、大阪に行く予定です」はふつうに訳せば「Tarou will go to Osaka tomorow. 」だろうけれど、「It is tomorrow's schedule that Tarou will go to Osaka.」は、どうなのさ。あるいは「It is rain today. 」の形式主語のitは変じゃないの? 変な構文は日本語にあるのではなくて、外国語には変な構文があると角田がなぜ思わなかったか。それに笑ってしまったのである。日本語を奇妙と見る前に、外国語を奇妙とみればいいじゃないか。なぜ、外国語(ヨーロッパの言語)に「基準」をおかないといけないのだ。
 なんでも「人魚構文」というのは日本だけではなく東アジアに多数みられるらしい。そうならなおのこと、奇妙なのは東アジアのことばではなく、ほかの外国語じゃない? だいたい、外国語が母国語と同じ構文を持っているという「前提」が奇妙じゃない?
 日本語には不定冠詞も定冠詞もない。それって、奇妙? 複数の意識、単数の意識もあいまい。それは奇妙? そんなことはない。ほんとうに奇妙なら「肉体」がそれを拒絶しているだろう。
 だれかがドアをたたく。「誰?」そう聞くとき、英語では「Who is it?」と聞くと思う。人間がドアをたたいているのに、「it」は奇妙じゃない? なぜ「he」「she 」じゃない?
 どんなことばも、それが日常的に話される場以外では奇妙なものを持っている。「頭」の「論理」では納得できないものをもっている。そして、それが日常的に話される場では何一つ奇妙なものはない。そのことばが話されている「場」を離れて、「頭」で考えるから、奇妙になる。それは「ことば」の問題ではなく「場」の問題--「場違い」の論理の立て方である。そこにいるひとが、そういうことばを使い、それで納得しているなら、それでいいのである。納得できないなら、納得できるまで、そこに「肉体」そのものをなじませるしかない。肉体が自然に(輪意識に/本能的に)「Who is it?」と言ってしまえるまで、自分の「本能」を鍛えるしかない。そういう「本能」と交わる(セックスする)しかない。

 詩を読むとき。
 私は、その詩の「構文」が自分とはまったく違うということに気がつく。そのとき私は「私の構文が奇妙である」という前提では読み進むことができない。ここに書かれていることばは私のことばとはまったく違っている、それはそれを書いた人が私ではないから当たり前であるということを前提にして、その「まったく奇妙なことば」と私がどう向き合ったか、そのことばに対して私が自分自身のことばをどんなふうに変えることができたか、自分のことばをどこまで掘り下げていけば今読んでいることばと向き合えるのか、を語る。肉体に出会えるかを語る。肉体はひとりひとり独立して存在し別々なものであるけれど、どこか同じところを基盤にしていると感じるまで交わる。ことばでセックスをする。それは「誤読」というものなのだが、「誤読」すること、自分のことばの可能性を切り開くこと、見つめなおすことで、私は「一方的」に豊かになる。それが楽しい。
 自分のことばは他人のことばと比べて奇妙である--と思っていたら、とても読むということはできない。他人のことばは奇妙だけれど、その奇妙なところを追いかけていると、自分の知らなかったものに出会えて楽しい、奇妙でなくなる、というのが「文学」だけにかぎらず、外国語を話すおもしろさだけれどなあ。
 まあ、私は「学者」じゃないからね。


みどりの領分
森山 恵
思潮社
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中上哲夫「涼しくて風通しがよくて気持ちのいい場所」

2013-03-13 23:59:59 | 詩(雑誌・同人誌)
中上哲夫「涼しくて風通しがよくて気持ちのいい場所」(「朝日新聞」2013年03月12日夕刊)

 中上哲夫「涼しくて風通しがよくて気持ちのいい場所」は、とてもあいまいなところがある。中上にとってはあいまいではないだろうけれど、私にはあいまいにみえるところと言えばいいのかもしれない。

大きな傘のような木の下で
来世を夢見ながら
ねむるインドの男たち

ジャングルの木陰のハンモックで
赤子のように
昼寝(シエスタ)をむさぼる熱帯の男たち
(ハンモックの発祥の地らしいのだ)

あんなふうに生涯をおくれたらなあ
という友人に異論はないけれども
ダンテ・アリギエリの煉獄(れんごく)のような
窓も空調設備もない
ビルの地階の管理人室ですごした日々に
わたしが思っていたのは
ビクーニャの目をもった妻と
でこぼこのじゃが芋のような子供たちと
神に祈りつつ
コンドル舞うアンデスの高地で物言わず暮らす男たちのことだった
かれらはいうのだ
この風景のなかまに生まれて
年老いて死んでいくのは
なんという幸せなのだと

 1連目、2連目は、インドの風景のように見える。昼寝と書いて、なぜか「シエスタ」とスペイン語のルビを振っているのが、よくわからないが、まあ、「インドの男」ということばが出てくるからインドなのだろう。インドは熱帯だし、ジャングルもどこかにあるだろう。
 3連目の「友人」というのは、そのインドの男たちを目撃してきた友人なのか。それとも「わたし(中上?)」と一緒にインドを旅して、男たちを目撃し、その場で感想をもらしたのか。
 どっちでもいいけれど。
 そのあとの「わたし」。これは中上? 中上はビルの管理人室で、昼寝を楽しんでいるインドの男たちではなく、アンデスの高地で暮らす男たちのことを夢見ていた。アンデスの動物・ピグーニャの目を持つ妻がいて、アンデスが原産のじゃがいものような子供がいて、という暮らしを夢見ていた。
 そうだと仮定して、次の「かれら」とは誰? アンデスの男たち?
 それともインドの男たち? インドの男たちはハンモックで昼寝しながら、「わたし(中上?)」と同じようにアンデスの夢を見ている? そしてアンデスの風景のなかで年老いて死んで行くことを幸せと感じている?
 いや、そうではなくて、アンデスの男たちが、自分たちの暮らし、ビクーニャの目をもった妻とじゃがいもみたいな子供と「物言わずに」(つまり、中上のように詩などは書かずに)、年老いて死んでゆくのは幸せだと感じている?
 たぶん、これだろうなあ。中上の書いていることは。
 でも、それって、中上がアンデスの男たちから直接聞いたことば? ビルの管理人室で「思っていた」のだから、きっと「かれら」の「思い」も中上(わたし)の「思い」に違いない。「わたし(中上)」は「わたしの思い」をかってに「かれらの思い」として語っているにすぎない。
 そうだとすると、「かれら」とは「わたし」にすぎない。「かれら」はほんとうはいないことになる。
 そんなふうに考えると、「友人」の存在もあやうい。とても「あいまい」だ。それはもしかしたら、ある瞬間の「わたし」かもしれない。あるときの「わたし」。あるとき「わたし」はハンモックで昼寝をするインドの男の生涯にあこがれた。でも、ビルの地階の管理人室で働いたので、いまは「地階」の反対の「高地・アンデス」の男たちの暮らしをあこがれの目で見ている、という具合にとらえることができないわけではない。
 「主語」がとても「あいまい」なのである。
 で、その「主語(登場人物)」があいまいという視点からもう一度詩を読み直すと……。
 「インド」というのはアジアのインド? 違うかもしれない。
 アンデスの先住民を「インディオ」という。アンデスも「インド」なのである。1連目を読んで、私は、最初「インド」をアジアのインドと思った。「来世」ということばから釈迦なんかも想像し、インドに違いないと思った。けれども、それは間違いかもしれない。
 中上は最初からアンデスを描いているだけなのかもしれない。南米の先住民が話すことばはスペイン語ではないけれど、いまはスペイン語を話す。(スペインに征服されていた時代があったから。)だから昼寝を「シエスタ」といっても何の不思議もない。「来世」ではなく「シエスタ」に注目して、最初からアンデスを想像すべきだったのかもしれない。
 でも、そうすると、「あんなふうに生涯を遅れたらなあ/という友人」というのは、どういうこと? あこがれの暮らしが南米・アンデスなら、「わたし」のあこがれとあまり差はない。
 いや、そうではないのだ、きっと。
 1、2連目は、アンデスのふもとのジャングル。そこでは男たちがハンモックで「シエスタ」をしている。南米だから、スペイン語。「友人」はその平地、ジャングルでの男たちの生涯にあこがれる。けれど、「わたし」は平地ではなく、アンデスの高地にあこがれる。コンドルの舞う空に近いアンデスに生きる男たちにあこがれる……。

 なんだか、どれが「正解」なのか、わからなくなる。
 わからないのだけれど、それでいいような感じがする。「いま/ここ」ではないどこか。アジアのインドでもいい。アンデスのインディオでもいい。ハンモックで昼寝をしているのもいいし、高地でじゃがいもを作っているのでもいい。どこであっても、そこにある「風景」と一体になって暮らせれば「幸せ」なのだ、と夢見る。
 そのとき「わたし」は「インドの男」なのか「インディオ」なのか、「友人」なのか「かれら」なのか--そういう「区別」はどうでもいいのだ。「区別」をしなくたっていい、というより、それは区別できないものなのかもしれない。
 区別されずに、ただ「一体」であること--そこに「幸せ」がある。区別されず「一体」であるとき、そこは「涼しくて風通しがよくて気持ちがいい場所」なのだ。
 「一体」になるために、ときには「主語」を放棄する、放棄してみるということも大切かもしれない。






エルヴィスが死んだ日の夜
中上 哲夫
書肆山田
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山口洋子『魔法の液体』(2)

2013-03-12 23:59:59 | 詩集
山口洋子『魔法の液体』(2)(思潮社、2013年02月28日発行)

 山口洋子の不思議な「素直」は「鴉」という作品にも感じられる。

アッアッア
きみの木の下
背中の耳でカ行のない鳴き声をききながら
なぜかきみをオスだときめ
草を抜き小石をひろい畝をつくる
鴉はカアではないか
逃げない鴉
わたしの身体の内側には
いつのまにか出来てしまって消えない
金属光りした黒色の
きみの嘴や羽がぴったりはまりこめる鋳型がある
アッアッア

 畑仕事をしていたらカラスが鳴く。「カア」ではな「アッアッア」と聞こえる。変だと思う。山口の肉体はカラスは「カア」と鳴くと「覚えている」。それは「鋳型」になってしまっている。まあ、これは、たいていのひとの「鋳型」であるのだけれど。金属のように光る黒い嘴と羽も。
 で、たとえそれが「アッアッア」と聞こえたとしても、たかがカラスの鳴き声。「カアカアカア」と「鋳型」にはめ込んで描写してしまったって誰も困らないのだけれど、山口はそうしない。
 そこに、山口のもうひとつの「素直」がある。
 「他人」をありのままに受け入れるだけではなく、自分の肉体が感じていることも「ありのまま」に受け入れる。そういう「素直」がある。「アッアッアッ」と聞こえるから「アッアッア」と「ありのまま」ことばにする。
 でもね、そういうふうに「ありのまま」を受け入れることは……。

アッアッア
気を引かせる
わたしは振りむかない
曖昧ないい顔はみせない
見上げればまっすぐに飛び込んでくるだろう
ぬるり濡れ羽色の
芯のみえない
わたしは 鴉になる
------
のは
いやだ

 「アッアッア」を「ありのまま」受け入れれば、それは、山口が「新しいカラス(アッアッアと鳴くカラス)」になってしまうことだ。いや、人間がカラスになるということはないから、それは「方便(比喩)」なのだが、方便であっても、言ってしまうとそれが「事実」にすりかわってしまうことがある。ことばは方便を「事実」にしてしまうことがある。「さっきそういったじゃないか」と批判の「言質」を取られるようなものだ。それはいやだな、と山口は言う。
 素直になると、それはときどき、自分が自分でなくなるということを引き起こしてしまう。それは、困る。いやだなあ。カラスになるより人間でいたい。詩人でいたい。
 で、このときの「身体の内側に」ある「鋳型」、それからその鋳型(つまり身体の内側)に飛び込んでくる--という具合に、山口は「ことば(比喩)」を「身体」の問題としてとらえているところが、私にはとてもおもしろく感じられる。
 ことばを意識の問題ではなく「身体」の問題と考えているから、「アッアッア」という声を「ありのまま」受け入れると、つまり「カア」ではなく「アッアッア」という変化を受け入れると、「身体」そのものがカラスになってしまうという感じになる。だから、いや、という。それは単なる「音の認識」ではないのである。
 「カア」と聞こえるか「アッアッア」と聞こえるかを「身体」の問題と考えるのは、山口の「身体」が「素直」だからである。
 この「素直」は、ちょっとうろたえる。反抗する。その最終連も、とてもおもしろい。

唖唖 烏乎 嗚呼
文字が鳴く
ア行でいきているきみがひどく偉く思え
カアだと思っているのはわたしだけなのか
きみはそのうちニャアと話しかけてきたりして
人語(ひとご)のひとつも創れない
越すに越せない
鴉よ
アッアッア
せっつくのはやめろ
やっぱり
脇目も振らず カアッと
カアッと

 カラスが「ニャア」と鳴くことはない。ここにはナンセンス(無意味)がある。牛がウグイスの声で鳴いたというのは「ほんとかなあ」に似ている。ほんともなにも、そんなことはありえない。で、そのナンセンスを利用して、つまり、「アッアッア」というのは単なる表記の問題だから、どうということはないのだ、無意味なことなのだとふりきろうとするのだが。
 もしかして「アッアッア」というのはカラスのつくりだした「うそ(ほんとうではない/方便)」であり、「方便」であるなら、カラスがニャアという鳴き声つくりだしても問題ではないのだし。
 カラスでさえ、そういうもの、山口が知らなかったものをつくりだせるのに、山口は人間のことばとしての「うそ(きみは体に川を飼っている、とういようなことば/うそ/方便)」つくりだせないでいる。造語能力として、カラスに負けている。
 それはまるでカラスに、ほら詩をつくってみろ、しゃれたことばを書いてみろとせっつかれているようなものである。それがいやならカラスになって「アッアッア」と鳴け。
 ああ、いやだ。カラスが「カア」ときまりきったことばで鳴きさえすれば山口は詩人にもどれるのに--と書いているわけではないが、そういうようなことを思っている、と言えば言い過ぎになるのだろうか。
 まあ、そうかもしれないが。
 あるいはカラスが「ニャア」と鳴けば、また違ったふうに動いていけるのに。そう思っているのかもしれない。
 ここにナンセンス(無意味)と素直(正直)のぶつかりあいのようなものがあって、それがとてもおもしろい。
 これはきのう書いた日記の書き出しにもどってしまうけれど、私が「わかっている」(と思い込んでいること)を書こうとすると、どんどん複雑になり、何も説明できないことになってしまうということろへはまり込んでしまう。
 たぶん。
 あ、ここがおかしい。ナンセンスだ、と笑ってしまえばよかったのだろうなあ。









魔法の液体
山口 洋子
思潮社
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ミヒャエル・ハネケ監督「愛、アムール」(★★)

2013-03-12 10:44:04 | 映画

監督 ミヒャエル・ハネケ 出演 ジャン・ルイ・トランティニャン、エマニュエル・リヴァ、イザベル・ユペール

 ミヒャエル・ハネケの「ピアニスト」「白いリボン」は好きだが。人間の本能のようなものをさらしだしてみせる強さがある。
 今回の「愛、アムール」は好きになれない。老老介護に疲れたからなのか、あるいは愛ゆえに、愛する妻の苦しみをこれ以上見ることに耐えられなくなったのか。そのどちらも「本能」の行動なのだが。
 うーん。
 私は、エマニュエル・リヴァの、この映画での演技が、一か所を覗いて、嫌いだ。そういう演技をさせてしまったハネケが嫌いだ。脳の血管の障碍、手術後の後遺症。その、病人の姿をそのままなぞった演技が、気に食わない。半身不随から言語障碍へと進行していき、寝たきりで介護を受ける。その、なまなましい演技が好きになれない。まるでほんとうの病気の人である。その迫真(?)の演技は、まるで演技ではなく、ほんもの、という印象を与える。その場で病人の姿を見ているような苦しさ、切なさがある。だから、それは「うまい演技」なのかもしれないけれど。
 うーん。
 違うなあ。
 映画はストーリーを見ると同時に役者を見るものである。ストーリーに役者が隠れてしまう(役だけを演じてしまう)映画というのは、私は、どこか「間違っている」と感じてしまう。「ほんもの」に見えてしまう演技というのは「間違っている」と思う。
 この映画の対極にある映画、たとえばクエンティン・タランティーノ監督「ジャンゴ 繋がれざる者」。私はストーリーを見るというよりも、役者を見ている。サミュエル・L・ジャクソンがほんとうはどういう人間か知らないが、そこで黒人差別主義の黒人を演じている。あ、サミュエル・L・ジャクソンって、こんなに愚かな、こんなにひどい男なのだと思い、あきれて、笑ってしまう。これはサミュエル・L・ジャクソン本人に対する「誤解」というものだろうが、そういう「誤解」をさせてくれるのが「演技」というものである。だから、「ジャンゴ」について書いたときに触れたのだが、ディカプリオのストーリーのクライマックスでの「迫真の演技(真剣な演技)」は、いただけない。えっ、ディカプリオってこんな男だった?と思わせてくれない。そこには、演じられた「役」のキャラクターしかない。そのキャラクターがディカプリオそのものになっていない。「役」に乗っ取られて、「役」を突き破っていかない。「ほんもの」が出てこない。--この「ほんもの」というのは、ほんとうのディカプリオというのではなく、偽物であっていい。偽物なのに、えっ、こいつ、こんな男かという「人間」の本質みたいなものがディカプリオの顔をして出てこないと映画はおもしろくない。クリストフ・ヴァルツという人間はどういう人間なのか、私はもちろん知らないけれど、映画を見ていると、「役」ではなく、瞬間的に「なま」の人間を見ているような感じになる。そういうのが、「演技」というものだと思う。それをみせるのが「役者」だと思う。ふつうの人がもっていない「顔」をもっている人間の特権だと思う。
 あ、私はどうも「愛、アムール」について書きたくないらしい。ほんとうに、いやな映画だ。まあ、そういう「いやな」感覚を呼び覚ます--というのが今回の映画の狙いだとすれば、それはそれでハネケらしい仕事と言えるのかもしれないけれど。
 エマニュエル・リヴァの演技は大嫌いだけれど。一か所だけ。あ、ここはすごいと思ったのが、ジャン・ルイ・トランティニャンから果物をすりつぶしたものをスプーンで食べさせてもらうシーン。最初の一杯はトランティニャンがなれていなくて、うまく食べさせられないのだが、2杯目を促すとき、目の輝きが一瞬かわる。「さあ、食べさせて」と誘うような、「食べたいのよ」と訴えるような目をする。こんな流動食なんかいやだ、という気持ちを突き破って、胃袋が反応し、それが目の輝き、トランティニャンを見つめるまっすぐな力になる、その一瞬。あっ、と思わず声がでそうになる。その欲望の目は、その一瞬だけで、次からはまた拒絶の目になるのだが。--なんというか、「間違えた」ように輝く目の、その「間違いようのない本能」のような瞬間が、私を貫く。
 エマニュエル・リヴァがほんとうにしたいことは何なのだろう。彼女の肉体がほんとうに欲求しているのは何なのだろう。そしてそれは精神とどんな具合に闘っているのか。そのことを考えさせてくれる。そういう意味では、あの一瞬の目の輝きだけで「主演女優賞」に値するとは思うけれど。
 他のシーンが、あまりにも「精神的」すぎる。「心理的」すぎる。肉体を見ている感じがしない。「苦悩」そのものを見せつけられている感じがする。その苦悩がだんだんトランティニャンを侵蝕していくというのは、まあ、とてもよくわかるけれど。その分、役者の特権、肉体的特権というものが映画では否定されて、あまりうれしくない。
 --というような視線で見てはいけない映画なのかもしれないけれどね。
     (2013年03月10日、ユナイテッドシネマ・キャナルシティ、スクリーン3)

 10日、ユナイテッドシネマで14時すぎからの3D映画を見る予定だった、誰かさん、見ることができましたか? 券売機のなかにチケット(2000円)が残ったままだった。劇場のひとにチケットを預けたのだけれど。








白いリボン [DVD]
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紀伊國屋書店
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山口洋子『魔法の液体』

2013-03-11 23:59:59 | 詩集
山口洋子『魔法の液体』(思潮社、2013年02月28日発行)

 すぐれた詩には、どんな詩にも何か言い換えのきかないことばというものがある。そのことば自体は知っていることばであるし、「意味」はわかるのだが、その「わかる」を具体的に言おうとするとつまずいてしまう。ことばが、作品全体を貫いていて、「意味」をはっきり特定しようとすると、複雑で、何がわかっているかを説明できないのである。
 山口洋子『魔法の液体』の「ひまわり」にもそういうことばがある。

なんだか顔の奥が重い
だんだんうなだれて行く
わたしの凋落はとても素直にはじまる

 ひまわりが盛りを過ぎて枯れていく--その様子をひまわりになって、ひまわりから書いているのだが……。「素直に」。これが、この詩の「わかる」けれど「わからない」、「わからない」けれど「わかる」ことば。キーワードだ。
 「素直に」はというのは、枯れていくことに「抵抗せずに」かもしれない。「どたばたせずに」かもしれない。「あきらめたように」かなあ。「すべてを受け入れる」かなあ。それって、「あきらめて」ではなく「納得」ということかなあ……。
 「意味」を特定しようとすると、「わからない」のだが、花が盛りを過ぎて枯れていくのはあたりまえのことであり、「素直に」もなにもないよなあ。
 だから、これは「ありのままに」ということかなあ。

すごしやすくなった
ひとはそんなことばを交わし
ほんの少しまえ
いくどもカメラを向けられ
飛びっ切りのスマイルで応え
パラソルの女性たちや黄色いこえではしゃぐこどもたちを
それはよいきもちで
ぐっと高いところから眺めては
自信に満ちあふれていた
そう わたしはサンフラワー
太陽が大好き
夏が大好き
だが
わたしの凋落はとても素直にすすむ
すっかりうなだれ立ち枯れる
縮れた葉は震えはしない
わたしの顔で遊んだチョウはもう来ない あんなに
わたしをつついたスズメはもうむこう
金色の波に楽しんでいる
わたしは棒
褐色の棒

 盛りのころのひまわりの姿がいきいきと見えてくる。ひまわりが感じているであろうこころもくっきり見えてくる。秋になると枯れていくひまわりの姿がとても自然に浮かんでくる。そして、そのなかに「素直に」だけが、独特の感じで動いている。生きている。全体のことばをひきしめて、紙にはりつかせている。本に食い込んでいる。
 これが、詩、なのだ。
 「とても」と強調しているのもいいなあ。
 この詩から、「わたしの凋落はとても素直にはじまる」と「わたしの凋落はとても素直にすすむ」という2行を省略しても、豪華だったひまわりが枯れていくという「物語」にかわりはない。けれど、その2行、そして「素直に」がないと、この作品は詩にはならない。単なる「擬人法」のことばの動きにすぎないものになる。
 「素直に」には擬人法を超えるものがある。
 「素直に」は比喩のようであって、比喩ではない。比喩を超えて……。「ありのまま」なのだ。「比喩ではない」を逆の言い方で言うと「ありのまま」になるから、とりあえず、そう言うしかない。「ありのまま」というのは……。山口とひまわりが「一体」になって、そこに「ある」ということ。それを、「ありのまま」つかみとっている。何もまじえず、つまり比喩を経由しないで、じかにつかみとっている。
 「ありのまま」とは直接性なのだ。

 でも、この「ありのまま」の定義は、これでいいのなかなあ。よくわからない。うまく言えない。どう説明していいかわからないが、「ありのまま」なのだと思う。「ありのまま」とは説明できないもの、説明のまじっていないもの……。
 それは、ちょっと「俳句」の「ありのまま」に似ている。世界がひとつに結晶して、「ありのまま」にある。その「ありのまま」を見た感じ。
 あ、これでは何も言っていることにならないね。同じことばを繰り返しているだけだ。
 どう言いなおせばいいのだろう。
 そう思っているとき、もう一篇、なんとも不思議な感じのことばにであった。「素直に」と同じような、ごくありふれたことばなのだが。
 「川おと」という作品。

きみは体に川を飼っている
と もっぱらのうわさ
川は流れつづけて
南へ流れて
南のさきで海につづいて
だからきみのこころは綺麗さっぱりからっぽだ

 と、とても魅力的に、それこそ「詩」という感じでことばが動いていく。ことばの動きにしたがって「意味」も動いていくように見える。読む先から、新しい何かを見ている感じになるね。
 でも、私がびっくりしたのは、この書き出しではない。

というのはうそだろう

 と、この詩は、いま書いたことを「うそ」と呼ぶ。ひっくりかえしてしまう。--ここにびっくりしたのでもない。
 そのあとの展開。

その川は大きくて広くて
とうとうとして
牛の太郎が
浅瀬で
きみに
背中をあらってもらい
太郎は不覚にも
ほーほーけきょけよって鳴いたんだってね
ほんとかなあ
そういえば
夏には鮎がおどりはねるんだって

 「ほんとかなあ」にびっくりした。
 「ほんとう」であるはずがない。牛が「ほーほーけきょけよって鳴いた」というのは「うそ」である。
 「きみ」の体のなかに川があって、それは流れつづけているので、きみのこころは空っぽだというのは「比喩」であり、「比喩」であるから「ほんとうではない」という以上に「うそ」である。「比喩」には、何かしらの「願い(夢)」のようなものがあり、そういう「夢」を見る「気持ち」そのものには「うそ」はない。そういう「気持ち」の「ほんとう」にささえられて「比喩」は動いている。
 でも牛がウグイスの声で鳴くというは「うそ」というより「間違い」。つまり「ほんとう」ではない。
 それなのに、「ほんとかなあ」という。
 ここに不思議な「素直」がある。前半の「比喩」のことばを叩き壊してしまうまっすぐな力がある。前半の「比喩」なんて(ことばがつくりだすストーリーなんて)、牛がほーほーけきょけよと鳴くというのとたいして違っていないと断言する乱暴な「素直」さがある。つまり……。ことばにしてしまえば、それは全部「うそ」。「ほんとう」はことばとは無関係に、「いま/ここ」にある「もの」のなかにある。「うそ(ほんものではない)」である「ことば」によって「きみは体に川を飼っている」というのも、牛がウグイスのように鳴くというのも同じことばの運動。「川を飼っている」のほうは何かこころを刺戟するセンチメンタルな「意味」を浮かび上がらせるのに対して、牛がウグイスの声で鳴くというのは「意味」を浮かび上がらせないというだけ。

 で、それは、ちょっと引き返してみるとまた別なことも教えてくれる。
 牛がウグイスのように鳴くというのは「うそ」はいうよりも「間違い」と、私はさっき書いたのだけれど。
 体のなかを川が流れている、そしてそのためにこころが空っぽになるというのは「間違い」ではないけれど、「うそ」。「うそ」をとおしてしか言えない「ほんとう」のことを言うための「うそ」。言い方をかえると、感動を引き出すための「虚構(ほんとうではない/うそ)」。つまり、方便。そこには「素直」とは別の何かが働いている。「わざと」が働いている。
 牛がウグイスのように鳴くというのも「わざと」言われた「うそ」には違いないだろうけれど、それは何かを暗示させるための「うそ(比喩)」ではない。そこには「意味」という「意図」がない。体のなかを川が流れている、そしてそのためにこころが空っぽになるには、センチメンタルな「意味」をつくりだすという「意図」がある。でも牛がウグイスのように鳴くは「無意味」。
 「無意味」は、素直。--というのは、私の直感の意見であり、ほかにもっとそれにふさわしい言い方があるのかもしれないけれど。
 「無意味」というより「意味」になることを拒んだ清潔な感じといえばいいのかな。「意味」なんかいらない。ただ「ありのまま」で十分。そういう感じを思い起こさせる何か。それが強烈な「素直」になって私にぶつかってくる。いいなあ。思わず、私はうなってしまう。







魔法の液体
山口 洋子
思潮社
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野村喜和夫「眩暈原論(9)」、海埜今日子「非時香果」

2013-03-10 23:59:59 | 詩(雑誌・同人誌)
野村喜和夫「眩暈原論(9)」、海埜今日子「非時香果」(「hotel 第2章」31、2013年03月01日発行)

 吉増剛造のあとに野村喜和夫を読むと、「音」の違いがわかる。野村は「もの」を叩いて音を出さない。「もの」自身が出す音を聞き取る。
 「Ⅲ-4」の書き出し。

眩暈の実質をつくる諸要素、また諸要素の相互浸透についていうなら、混じりあう樹木と大気、いや、より正確には、則座の飛翔に痙攣したかのような、キンキンした中空の黄金の葉むらであり、あるいはおずおずしたわれわれの愛撫に隣り合う窓辺の、青い青い大気に詩足された花々であり、その輝くプラズマ状態に、ほかならぬわれわれの愛撫からまろびでた未知の子供が漂ってくるのだ。

 「愛撫」ということばが出てくるが、強いて言えば、野村の音の出し方は(聞き取り方は)、打撃ではなく「愛撫」なのだ。打撃では「悲鳴」になる。「もの」が叩かれ叩かれ、変形し、神経が剥き出しになり、それが強烈に発光する。その光が音である。というのが吉増だとしたら、野村は、丁寧に丁寧に愛撫する。そうすると、こらえきれずに「もの」がもだえながら声をもらす。あ、ここのことろを愛撫すればもっと声が聞こえるなと思うと、そこをしつこく愛撫する。耳を頼りに声の変化を聞きながら、同時に視線でものの揺らぎも追いつづける。よく言えば、野村の方が欲張りである。悪く言えば、野村の方が散漫である。野村の肉体は音以外のもの、色や形やときにはにおいにも職種をのばす。で、欲張りの視点から見ていくと、一方に「諸要素」「相互浸透」「正確」というような「頭」のなかに響く音があり、他方に「葉むら」「窓辺」「青い青い大気」「浸された花々」というような「目(肉体)」に響く音がある。これはこれで、肉体とことばの交響曲なのである。
 愛撫の、しなやかにつづくうねりの声だけを視力で追っていくのもいいのだけれど、きっとそれは「いま」の音楽にはちょっとあわない--というか、野村の耳にはちょっと退屈なのだろう。それで「諸要素の移行についていうなら」(2連目)というようなことばで、愛撫を切断して見せる。
 そうすると。
 「あ、やめないで、もっとつづけて」と相手が言うのかどうかわからないけれど、そういう「いわれなかった声(発せられなかったため息)」をちらりと横目で見て、

足元の地面も溶けて、たちまち屍衣に包まれたような水、動かぬ水となって、おかあさん、ぼくを呑み込んでください。

 と、甘えて見せたり、というか、突然、地声を聞かせたり、その地声を転化させて、

ほらまた、諸要素が雌雄あそびをしているよ。あたりまえだが太陽は雄、その愛を注がれて恍惚と大地は雌、あらゆる胚種がむらがる谷もあり、海と雌、波に薫る肉の花だもの、でも私はその海になりたい、自分の内奥に魚を泳がせたらどんな感じがするだろう。

 切断を含みながら、ごちゃまぜに接続していく。「愛撫」はどこをさわっても、結局「肉体」の内部につながっているということを知っている。すけべだね。雄のふりをして雌ってどんな感じ、なってみたいなあ、とも言って女の優越感をくすぐることも知っている。超人的なすけべだね。
 というような批判は嫉妬?
 まあ、そうかもね。
 あ、話が変なところへ迷い込んでしまったけれど、こういう変なところへ迷い込むくらい、吉増の音と野村の音は違うのだ。
 吉増の音が「もの」を叩き、破壊し(というと語弊があるけれど)、その「もの」の純粋な単体(元素)のようなものにたどりつこうとする音だとすると、野村の音は「諸要素」などと言いながら、「元素」から出発して、それを愛撫で巨大に育てていく--なんというか、ある意味ではオナニーに没頭する精神がつくりあげる交響曲なのだ。で、「要素」という「ひとつ」ではなく、「諸」である必要もある。
 の、かな……。



 海埜今日子「非時香果(ときじくのかくのこのみ)」は、また、かわった音である。

どこからなのね。このよのねいろで、まあまれいど、のみほせば、たねをいくぶんこわばるから、すずに、きっとたくせばいい。いきをつたえて、と、はれわたり、さびしいれつにふるえます。

 何のことか、わからない。--と言い切ってしまうことは簡単だけれど、「この世の音色で、マーマレイド(を)飲み干せば」と漢字まじりにすると、何か「肉体が覚えていること」を刺戟してくる。「この世の音色」なんて、ありすぎてどれかわからないけれど、そういう言い方であらわすものはきっと「ひとつ」。で、その正体(?)を海埜は海埜の肉体から外に出さない。海埜の肉体のなかだけにとどめるというのではないけれど、ことばにするということは何らかの声をもらすということなのだけれど、わざと「誰にでもわかる」という具合にはしない。「あの世」じゃなくて「この世」--「あの世とこの世のちがい、わかるでしょ?」。それから、「あの世」はいまの肉体にはわからないけれど、「世」ということばをつかってしまうくらいだから、きっと肉体のどこかで「覚えている」。「覚えているでしょ?」それから、「飲み干し」て、「ほら、飲み干したのよ、わかる? 飲み干したこと、あるでしょ?」という具合。海埜自身の体験を語るのではなく、読者の体験に「覚えているでしょ」と誘いかけ、「肉体の内部」を共有しようとする。
 野村が愛撫するとしたら、海埜はあらゆる存在の愛撫を受けながら、海埜自身の肉体の内部へ引き返し、その内部で肉体が覚えていることを確信する。そういう確信は、まあ、海埜にとっては「明確」かもしれないが、外から見ていると、なんだこれは?という感じになってしまう。で、なんだこれは?--なのだけれど、この感じはなかなか奇妙であって、そういう気持ちが起きるとき、私の側には、あ、海埜の肉体のなかで何かが「起きている」、その「起きている」という「こと」がわかる。
 まあ、これでいいのだと思う。
 道に倒れてだれかが体を折り曲げて呻いている。そういうのを見ると、それが自分の肉体ではないにもかかわらず、あ、この人は腹が痛いのだという「こと」がわかる。その人の肉体のなかで「痛み」がおきているという「とこ」がわかる。「こと」がわかっているだけなのに「痛い」のだとわかる。自分の痛みではないのに。
 というのに、似ている。
 で、

いきをつたえて、と、はれわたり、さびしいれつにふるえます。

 というようなことばに、はっとする。美しいなあと聞きほれてしまう。もし、痛みで苦しんでいるのだとしたら「美しいね」では場違いの感想になるのだが、そこから「何か」が聞こえるということ。
 海埜は音を出さず、自分の肉体に引き返していく。音を出すことで「頭」が理解できるような「諸要素」を提示しない。逆に、音を呑み込むという動きそのものが発する「無音」を、読者の肉体に要求しているように思える。言い換えると、海埜の音を聞き取るためには、私たちは耳を動かすのではなく、「肉体」のすべてを動かし、自分の「肉体」を耳にしないといけないということ。「頭」の無音を生きないといけない。そこまでしてしまうと、きっと、海埜の肉体の内部の音ははっきりと感じられる。
 でも、これはなかなかむずかしい。
 そういうことがほんとうにできるのは、海埜を好きになり、肉体を重ねるという体験がないと、個人の肉体のなかに起きている「こと」はわからない。セックスというのは同じように見えても、一回一回、まったく違う。個人個人、まったく違う。
 あ、またすけべな話題になったが。
 そういうむずかしいことを、海埜は「ことば」だけでおこなおうとしている。詩でしているように私には見える。

詩集 セボネキコウ
海埜 今日子
砂子屋書房


ヌードな日
野村 喜和夫
思潮社
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