詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

こころは存在するか(36)

2024-05-16 14:19:49 | こころは存在するか

 神谷美恵子を読んでいて、ふいに、とても奇妙な気持ちになる。「私は神谷美恵子の文章に愛されている」と感じる。これは神谷美恵子に限ったことではないが、私は、何か好きな人の文章を読んでいると、私はその文章に愛されていると感じる。それは、私はその文章が好きという感覚よりも、何か、不思議な強さ、不思議な深さ、不思議な広がりで迫ってくる。その文章、ことばにつつまれている感じがする。このことばのなかにいる限り、私は安心できる、という感じだ。
 私は、そういう感覚を求めて、たぶん本を読んでいる。愛を知りたいというよりも、愛されているという感覚を思い出したくて読んでいる。
 これは、だから、何と言うか、「私の知らないことを知りたい」という「知識欲」とはかなり違う。「知っている何か」を確かめたいということになる。しかも、その知りたいのは、ことばにする必要のないことなのである。ひとは(私は)ことばをとおして考えるのだが、それは「意味」ではなく、ある「動き」なのだと感じている。
 この「前置き」は、これから書くこととどういう関係があるのか、私自身もわからないが、和辻哲郎の次の文章について書こうと思ったら、突然、思いついてしまったのである。
 で、その和辻の文章というのが。

同一の倫理の異なった表現はあるが、異なった倫理はない。

 私はこのことばから、突然、母や父のことを思い出すのである。前に書いたが、私の母は、私の小学校の担任だった石田先生の「遠眼鏡をもっている。みんなが何をしているか、いつでも見ている。わかっている」ということばを信じて、私に向かって何度もくりかえした。
 このことばのなかにある「倫理」は、どういうものか。ひとは不正なことをすれば、それはかならず発覚する(何か悪いことをすれば、だれかがきっと見ていて、罰せられる)ということかもしれない。ひとは、だれかが見ている、見たいないにかかわらず正しいことをしなければならない、ということかもしれない。
 この「同一の倫理」は、さまざまな異なった表現(ことば)をとる。しかし、その異なった表現(ことば)のなかに、何か「同一の倫理」がある。ひととひととの関係を律する力がある。希望がある。愛がある。
 石田先生が「遠眼鏡をもっている。みんなが何をしているか、いつでも見ている。わかっている」と言ったとき、母がそのことばをくりかえしたとき、私は愛されていたのだと思い出す。そこには希望があったのだと感じる。それは、私の希望か、石田先生の希望か、母の希望か。それは区別してもしようがない。

 「(私は)遠眼鏡をもっている。みんなが何をしているか、いつでも見ている。わかっている」ということばを、あれこれ言い換えてもしようがない。そこから「愛」とか「正義」とか「徳」というような抽象的なことば、さらに「幸福」とか「祈り」という抽象的なことばを引き出してもしようがない。和辻は彼自身の考えを突き詰めていくとき、私たちが日常的につかっている日本語を解体しながら動かしているが、その解体の対象にはならない、かなり「あいまいな広がり」をもったことばである。でも、どんなことばでも、ひとが何らかの「希望」をもって発したことばには必ず共通するものがある。それは、どうしたって「倫理」につながる。ソクラテスもプラトンも、石田先生も「見ている」ものは「一つ」である。表現が違うだけだ。

 神谷美恵子は「人間をみつめて」で、こんなことを書いている。

人間というものは、人間を越えたものが自分と世界を支えている、という根本的な信頼感が無意識のうちにないならば、一日も安心して生きて行けるはずはなく、真のよろこび、真の愛も知りえないもののだ。

 「人間を超えたもの」を「神」と呼ぶひともいる。「宇宙の真理」と呼ぶひともいる。私は「ことば(表現)のなかに動いているもの」と感じている。どんなことばも何かしら「私を越える(超える)」。それが私を愛してくれている。本を読むと、そう感じる。そう感じることができる本を読むのが好きだ。安心できる。
 神谷美恵子も和辻哲郎も、私の存在を知らない。私が彼らのことばを知っているだけだ。しかし、私は、彼らのことばを読むたびに「愛されている」と感じる。

 

**********************************************************************

★「詩はどこにあるか」オンライン講座★

メール、googlemeetを使っての「現代詩オンライン講座」です。
メール(宛て先=yachisyuso@gmail.com)で作品を送ってください。
詩への感想、推敲のヒントをメール、ネット会議でお伝えします。

★メール講座★
随時受け付け。
料金は1篇(40字×20行以内、1000円)
(20行を超える場合は、40行まで2000円、60行まで3000円、20行ごとに1000円追加)
1週間以内に、講評を返信します。
講評後の、質問などのやりとりは、1回につき500円。

★ネット会議講座(googlemeetかskype使用)★
随時受け付け。ただし、予約制。
1回30分、1000円。(長い詩の場合は60分まで延長、2000円)
メール送信の際、対話希望日、希望時間をお書きください。折り返し、対話可能日をお知らせします。

費用は月末に 1か月分を指定口座(返信の際、お知らせします)に振り込んでください。
作品は、A判サイズのワード文書でお送りください。

お申し込み・問い合わせは、
yachisyuso@gmail.com


また朝日カルチャーセンター福岡でも、講座を開いています。
毎月第1、第3月曜日13時-14時30分。
〒812-0011 福岡県福岡市博多区博多駅前2-1-1
電話 092-431-7751 / FAX 092-412-8571

オンデマンドで以下の本を発売中です。

(1)詩集『誤読』100ページ。1500円(送料別)
嵯峨信之の詩集『時刻表』を批評するという形式で詩を書いています。
https://www.seichoku.com/user_data/booksale.php?id=168072512

(2)評論『中井久夫訳「カヴァフィス全詩集」を読む』396ページ。2500円(送料別)
読売文学賞(翻訳)受賞の中井の訳の魅力を、全編にわたって紹介。
https://www.seichoku.com/user_data/booksale.php?id=168073009

(3)評論『高橋睦郎「つい昨日のこと」を読む』314ページ。2500円(送料別)
2018年の話題の詩集の全編を批評しています。
https://www.seichoku.com/user_data/booksale.php?id=168074804


(4)評論『ことばと沈黙、沈黙と音楽』190ページ。2000円(送料別)
『聴くと聞こえる』についての批評をまとめたものです。
https://www.seichoku.com/user_data/booksale.php?id=168073455

(5)評論『天皇の悲鳴』72ページ。1000円(送料別)
2016年の「象徴としての務め」メッセージにこめられた天皇の真意と、安倍政権の攻防を描く。
https://www.seichoku.com/user_data/booksale.php?id=168072977

 

 

問い合わせ先 yachisyuso@gmail.com


コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« Estoy Loco por España(番外... | トップ | 青柳俊哉「運動」ほか »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。

こころは存在するか」カテゴリの最新記事