『禮記』のつづき。
私は「意味」のわからないことばに出会うのが好きだ。「意味」がわからないと、肉体と精神はどう動くか。
たとえば「元」。
2行目の「みみ傾けるとき」。「意味」がわからない。いや、「みみ傾けるとき」そのものの意味はわかる。聞く、という意味だ。けれど「あけぼのに開く土に/みみ傾けるとき」とは、どういうこと?
「あけぼのに開く土」も、ほんとうは「意味」がわからない。なんとなく、あけぼのになって、つまり夜が明るんできたとき、土がぼんやり見えてくるくらいの「意味」だと思う。そして、そう思うからこそ「みみ傾ける」がわからない。夜明け、夜の底がぼんやり明るくなり、土が見えてくる--なら、その「見えてくる」の「主体」は「みみ」ではなく「目」であるべきだ。と、私は思う。「あけぼのに開く土に/目を向けるとき」なら「意味」はすっきりする。
けれど、西脇は「みみ傾けるとき」と書いている。
このとき、私の肉体はどう動くか。
目は一瞬見えなくなる。いま、目の前にあるもの、たとえば本のページ--それは見えているのだが、それを私は見ていない。見えているものと、「あけぼのに開く土」ということばが一致しない。さらに「あけぼのに開く土に/みみ傾けるとき」となると、見えているものとことばがさらにかけ離れてしまう。何も見えない。
そして、見えないことがわかると、次に私は目をつむってしまう。目が開いていてもことばと重なるものが何も見えないなら、目をつむって、いま見えているものを消してしまった方が「見る」という行為に近づくと感じるからだ。(あ、変な論理だねえ。)そして、目をつむると--不思議。耳の奥に、暗がりから浮かび上がる大地がぼんやり見えてくる。目をつむっているのだから目が見ているのではない。では、何が見ている? 「みみ」が見ている、私は瞬間的に思う。
というより、思わされる、という方がいいか。「思わされる」というのは変な言い方だ。言いなおすと、西脇の「みみ傾けるとき」という行の「みみ」ということばが影響して、その「みみ」で聞くのではなく、見てしまうのだ。「みみ」で見てしまったと感じてしまうのだ。
私の肉体は、「誤読」するのだ。肉体、その器官が、自分の役割を越えて、他の領域に入っていく。「みみ」が「聞く」という領域を越えて、「見る」のなかで世界をつかみ取っている。あ、「みみ」でも「もの」を見ることができるんだ、と私の肉体は錯覚する。「みみ」が「みみ」であることをやめて、「みみ」自身を「目」と誤読してしまう。
「みみ」と「目」の区別がなくなってしまう。
したがって、(したがって、というのはきっと変なつかい方になっていると思うのだが……)、「みみ」は「みみ」以外の領域へ突き進んでゆく。
「郷愁の夢」。抽象的に書かれている。なんのことかよくわからない。けれど「夢」ということばに誘われて、肉体の主役は「みみ」から「目」へ戻って生きている。「目」が、失われた郷愁の夢を見るのだ。
目、みみ、目が、気がつけば、次々に自己主張している。「わけがわからなくなる」。わけがわからないのだけれど、この目、みみ、というものをいちいち区別せずに、「目」で聞いてもいいし、「みみ」で見てもかまわないというのが、「肉体」なんだなあ、と思うのである。
暗がりなら、手さぐりで場を見る、爆音で鼓膜が敗れたときは(私はそんな体験はないのだが)目でものの動きから音を聞くということもできる。それが「肉体」の力である。そういう力とどこかで触れ合っていることば--そのことばのなかには、きっと「こころ」というものがあるのだ。「肉体のこころ」である。
このときの「追う心」--それは、私には、人間の手足をもったものとして見える。だから、そのことばのあとに、「足音」という表現が出てくるが、ごく自然なことに感じられる。
わからないものは、みんな「肉体」が消化する。もちろん「肉体」では消化できないものもある。それは、ほんとうにわからない。「頭」で考え直さないと、絶対にわからない。私は、まあ、そういうものに近づくだけの「頭」がないので、敬遠して、「肉体」でつかみとれるものにだけ接近して、それを楽しむ。

私は「意味」のわからないことばに出会うのが好きだ。「意味」がわからないと、肉体と精神はどう動くか。
たとえば「元」。
あけぼのに開く土に
みみ傾けるとき
失われた郷愁の夢を
追う心はもどつてくる
2行目の「みみ傾けるとき」。「意味」がわからない。いや、「みみ傾けるとき」そのものの意味はわかる。聞く、という意味だ。けれど「あけぼのに開く土に/みみ傾けるとき」とは、どういうこと?
「あけぼのに開く土」も、ほんとうは「意味」がわからない。なんとなく、あけぼのになって、つまり夜が明るんできたとき、土がぼんやり見えてくるくらいの「意味」だと思う。そして、そう思うからこそ「みみ傾ける」がわからない。夜明け、夜の底がぼんやり明るくなり、土が見えてくる--なら、その「見えてくる」の「主体」は「みみ」ではなく「目」であるべきだ。と、私は思う。「あけぼのに開く土に/目を向けるとき」なら「意味」はすっきりする。
けれど、西脇は「みみ傾けるとき」と書いている。
このとき、私の肉体はどう動くか。
目は一瞬見えなくなる。いま、目の前にあるもの、たとえば本のページ--それは見えているのだが、それを私は見ていない。見えているものと、「あけぼのに開く土」ということばが一致しない。さらに「あけぼのに開く土に/みみ傾けるとき」となると、見えているものとことばがさらにかけ離れてしまう。何も見えない。
そして、見えないことがわかると、次に私は目をつむってしまう。目が開いていてもことばと重なるものが何も見えないなら、目をつむって、いま見えているものを消してしまった方が「見る」という行為に近づくと感じるからだ。(あ、変な論理だねえ。)そして、目をつむると--不思議。耳の奥に、暗がりから浮かび上がる大地がぼんやり見えてくる。目をつむっているのだから目が見ているのではない。では、何が見ている? 「みみ」が見ている、私は瞬間的に思う。
というより、思わされる、という方がいいか。「思わされる」というのは変な言い方だ。言いなおすと、西脇の「みみ傾けるとき」という行の「みみ」ということばが影響して、その「みみ」で聞くのではなく、見てしまうのだ。「みみ」で見てしまったと感じてしまうのだ。
私の肉体は、「誤読」するのだ。肉体、その器官が、自分の役割を越えて、他の領域に入っていく。「みみ」が「聞く」という領域を越えて、「見る」のなかで世界をつかみ取っている。あ、「みみ」でも「もの」を見ることができるんだ、と私の肉体は錯覚する。「みみ」が「みみ」であることをやめて、「みみ」自身を「目」と誤読してしまう。
「みみ」と「目」の区別がなくなってしまう。
したがって、(したがって、というのはきっと変なつかい方になっていると思うのだが……)、「みみ」は「みみ」以外の領域へ突き進んでゆく。
失われた郷愁の夢を
追う心はもどつてくる
「郷愁の夢」。抽象的に書かれている。なんのことかよくわからない。けれど「夢」ということばに誘われて、肉体の主役は「みみ」から「目」へ戻って生きている。「目」が、失われた郷愁の夢を見るのだ。
目、みみ、目が、気がつけば、次々に自己主張している。「わけがわからなくなる」。わけがわからないのだけれど、この目、みみ、というものをいちいち区別せずに、「目」で聞いてもいいし、「みみ」で見てもかまわないというのが、「肉体」なんだなあ、と思うのである。
暗がりなら、手さぐりで場を見る、爆音で鼓膜が敗れたときは(私はそんな体験はないのだが)目でものの動きから音を聞くということもできる。それが「肉体」の力である。そういう力とどこかで触れ合っていることば--そのことばのなかには、きっと「こころ」というものがあるのだ。「肉体のこころ」である。
失われた郷愁の夢を
追う心はもどつてくる
このときの「追う心」--それは、私には、人間の手足をもったものとして見える。だから、そのことばのあとに、「足音」という表現が出てくるが、ごく自然なことに感じられる。
ああまた人間のそこ知れない
流浪の足音に
さそわれてあわれにも
ふるさとの壁にうつる
あたらしい露を桜の酒杯にのむ
わからないものは、みんな「肉体」が消化する。もちろん「肉体」では消化できないものもある。それは、ほんとうにわからない。「頭」で考え直さないと、絶対にわからない。私は、まあ、そういうものに近づくだけの「頭」がないので、敬遠して、「肉体」でつかみとれるものにだけ接近して、それを楽しむ。
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