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詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

誰も書かなかった西脇順三郎(193 )

2011-03-10 20:24:23 | 誰も書かなかった西脇順三郎
 『禮記』のつづき。
 私は「意味」のわからないことばに出会うのが好きだ。「意味」がわからないと、肉体と精神はどう動くか。
 たとえば「元」。

あけぼのに開く土に
みみ傾けるとき
失われた郷愁の夢を
追う心はもどつてくる

 2行目の「みみ傾けるとき」。「意味」がわからない。いや、「みみ傾けるとき」そのものの意味はわかる。聞く、という意味だ。けれど「あけぼのに開く土に/みみ傾けるとき」とは、どういうこと?
 「あけぼのに開く土」も、ほんとうは「意味」がわからない。なんとなく、あけぼのになって、つまり夜が明るんできたとき、土がぼんやり見えてくるくらいの「意味」だと思う。そして、そう思うからこそ「みみ傾ける」がわからない。夜明け、夜の底がぼんやり明るくなり、土が見えてくる--なら、その「見えてくる」の「主体」は「みみ」ではなく「目」であるべきだ。と、私は思う。「あけぼのに開く土に/目を向けるとき」なら「意味」はすっきりする。
 けれど、西脇は「みみ傾けるとき」と書いている。
 このとき、私の肉体はどう動くか。
 目は一瞬見えなくなる。いま、目の前にあるもの、たとえば本のページ--それは見えているのだが、それを私は見ていない。見えているものと、「あけぼのに開く土」ということばが一致しない。さらに「あけぼのに開く土に/みみ傾けるとき」となると、見えているものとことばがさらにかけ離れてしまう。何も見えない。
 そして、見えないことがわかると、次に私は目をつむってしまう。目が開いていてもことばと重なるものが何も見えないなら、目をつむって、いま見えているものを消してしまった方が「見る」という行為に近づくと感じるからだ。(あ、変な論理だねえ。)そして、目をつむると--不思議。耳の奥に、暗がりから浮かび上がる大地がぼんやり見えてくる。目をつむっているのだから目が見ているのではない。では、何が見ている? 「みみ」が見ている、私は瞬間的に思う。
 というより、思わされる、という方がいいか。「思わされる」というのは変な言い方だ。言いなおすと、西脇の「みみ傾けるとき」という行の「みみ」ということばが影響して、その「みみ」で聞くのではなく、見てしまうのだ。「みみ」で見てしまったと感じてしまうのだ。
 私の肉体は、「誤読」するのだ。肉体、その器官が、自分の役割を越えて、他の領域に入っていく。「みみ」が「聞く」という領域を越えて、「見る」のなかで世界をつかみ取っている。あ、「みみ」でも「もの」を見ることができるんだ、と私の肉体は錯覚する。「みみ」が「みみ」であることをやめて、「みみ」自身を「目」と誤読してしまう。
 「みみ」と「目」の区別がなくなってしまう。
 したがって、(したがって、というのはきっと変なつかい方になっていると思うのだが……)、「みみ」は「みみ」以外の領域へ突き進んでゆく。

失われた郷愁の夢を
追う心はもどつてくる

 「郷愁の夢」。抽象的に書かれている。なんのことかよくわからない。けれど「夢」ということばに誘われて、肉体の主役は「みみ」から「目」へ戻って生きている。「目」が、失われた郷愁の夢を見るのだ。
 目、みみ、目が、気がつけば、次々に自己主張している。「わけがわからなくなる」。わけがわからないのだけれど、この目、みみ、というものをいちいち区別せずに、「目」で聞いてもいいし、「みみ」で見てもかまわないというのが、「肉体」なんだなあ、と思うのである。
 暗がりなら、手さぐりで場を見る、爆音で鼓膜が敗れたときは(私はそんな体験はないのだが)目でものの動きから音を聞くということもできる。それが「肉体」の力である。そういう力とどこかで触れ合っていることば--そのことばのなかには、きっと「こころ」というものがあるのだ。「肉体のこころ」である。

失われた郷愁の夢を
追う心はもどつてくる

 このときの「追う心」--それは、私には、人間の手足をもったものとして見える。だから、そのことばのあとに、「足音」という表現が出てくるが、ごく自然なことに感じられる。

ああまた人間のそこ知れない
流浪の足音に
さそわれてあわれにも
ふるさとの壁にうつる
あたらしい露を桜の酒杯にのむ

 わからないものは、みんな「肉体」が消化する。もちろん「肉体」では消化できないものもある。それは、ほんとうにわからない。「頭」で考え直さないと、絶対にわからない。私は、まあ、そういうものに近づくだけの「頭」がないので、敬遠して、「肉体」でつかみとれるものにだけ接近して、それを楽しむ。


西脇順三郎コレクション〈第4巻〉評論集1―超現実主義詩論 シュルレアリスム文学論 輪のある世界 純粋な鴬
クリエーター情報なし
慶應義塾大学出版会



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季村敏夫『ノミトビヒヨシマルの独言』(6)

2011-03-09 23:59:59 | 詩集
季村敏夫『ノミトビヒヨシマルの独言』(6)(書肆山田、2011年01月17日発行)

 季村敏夫の文体は強靱である。そして、その強靱をささえているのは、正直である。「つや」という作品。

春三月、三度目の雷鳴が響く。一度目は病室。息をひきとった父を
見下ろしていたときだった。二度目は、遺体を家に運び込むとき。
だが、父をどのように連れ戻したのか、おもい起こすことができな
い。(略)

はっきりと憶え、いまも疼くのは、あろうことか、嗚咽する妹を病
室で制したことだ。「ご臨終です」という医者に、いきなり泣き出
した妹に、泣きつくせばよいと、なぜ慮ることができなかったか。

 「おもい起こすことができない」と季村ははっきり書く。人間には思い出せることと思い出せないことがある。季村は、それを意識できる。ことばにできる。
 そして、それをことばにするということは、思い出せないことのなかにある何かを見極めるためである。
 最終連。

電話が三度かかってきた。一度目は葬儀屋から。二度目は婦人会か
ら。家に戻ったばかりのオレには、どれもこれも初めての声だった
が、やがて始まるだろう、いやもう始まっている時間をおもい、一
つひとつに応対した。だが、受話器を置き、廊下をつたい、遺体の
前に戻ると、胸の奥からの、けたたましい笑い声を聞き取り、その
まま倒れそうになった。どの対応にも、少しずつ食い違うズレの感
覚にひき裂かれていたからだ。

 ここでは季村はふたつのことを発見している。
 ひとつは「やがて始まるだろう、いやもう始まっている時間」と区別することのできない時間があるということ。「時間」は単純に一直線に流れているわけではない。はじまりは、いつなのか、ということは特定できない。季村が思い描いているのは「葬儀」のあれこれの手順というか、進め方(進み方)の時間かもしれないが、それはたしかにこれから始まるのか、それとも父が亡くなった時点から始まるのか、あるいは父の死を覚悟した時点から始まっていたのか--それは、わからない。いや、わからないけれど、実は、はっきりしている。それは、その時間を思うときに始まるのである。「おもい起こすことができない」という表現が1連目にあったが、何かを思い起こすとき、すべては始まるのである。
 もうひとつのことは、「ズレ」である。ひとはそれぞれ、何かを思い起こし、そこから時間をつくっていく(行動を律していく)のだが、ひとが複数いれば、その思い起こし、その後の行動には複数のことがらが考えられる。その複数の考え(ことば)と出会い、会話するとき、ことばは通じているのに、通じないものがある。「感覚」がどことなく「ズレ」ている、かみあっていないということに気づくときがある。
 そして、その「ズレ」は、実は、「いま」をどのような「過去」と結びつけて思い起こすか、「時間」をどのように描き出すかということと、深い関係がある。「いま」「ここ」にあって、それぞれがどんな「過去」を「いま」の出発点と考えるか、その「過去」をどう考えるかということが、そのまま「未来」へとつながっていく。
 季村が向き合っているのは、「時間」の乱れである。
 季村は、それを強引に「矯正」しようとはしない。「統一」しようとはしない。ととのえようとはしない。そのかわりに、乱れを乱れのまま、みつめようとする。ことばにしようとする。その強い意思が、ことばそのものを強靱にしている。

                部屋に戻れば、ま新しい棺を境
に、老いた一群と若い一群が分かれ、惜しいとか、この家もこのあ
とが大変だとか、戻って来いとは一度もいってないはずだとかいう、
まるで文法の違う声が飛び交っていた。

 「時間」の乱れは、ことばの乱れ--「文法」の違いである。他者と自分との「時間」の違い(ズレ)、自分自身のなかにある「ズレ」も「文法」ということばでとらえるところに季村の、ことばに対する厳しい姿勢が端的にあらわれている。ことばとつねに正確に向き合おうとする姿勢があらわれている。
 そして、このときの「正確」とは、学校教科書の文法に対して正確であるという意味ではない。季村の思い、意識に対して正確であるということだ。その「正確」を、私は「正直」と呼ぶ。ひとは、それぞれ「正直」の対象が違う。季村は、ことばに対して「正直」なのである。「わかること」「わからないこ」、それを区別して書くこと、そこから始まる「ズレ」をどこまでも隠さずにみつめること、向き合うこと--そういう正直が、自然に季村のことばを強靱にするのだ。

                  このようにこれから、オレ
は他者によって飾られるのだろう。三度目の電話はすべての感傷を
切断した。母を電話口に出せという親類の妖精。読経にはなじめぬ
と母は、三位一体の十字をきって退いていたからだ。

 そうなのだ。ことばは、しかし、季村だけの所有物ではない。あらゆるひとがことばをもっている。それぞれが、それぞれ「正直」にことばを動かそうとする。そして、それが互いを批評する。
 季村は「飾る」という表現で他人のことばをとらえている。
 季村自身のことばは、季村にとって「正直」である。それは「裸」の季村を描き出す。けれど、他人のことばは季村を裸のままにしはしておかない。そこにいろいろなものを着せる。つまり「飾る」。
 その「飾り」は、どこまでも(季村自身だけではなく)、他のひとにまで及んでくる。母を出せ--という電話の人物は、季村の母を、彼(彼女)の知っていることばで飾ろうとしている。
 そういうものと向き合うのが生きるということである。

 ここからは詩に対する感想ではなくなるかもしれない。--けれど、少し書いておくと……。
 人の死とは不思議なものである。たとえばここに書かれている季村の父の死。それは、父がそれまで「防波堤」(壁)になって隠していたいくつもの「時間」を噴出させる。たとえば、母の宗教。それに対する批判(他者からの飾り)は、以前にもあったものかもしれない。父が生きているあいだは、父がそれを隠していた。「わかること」「わからないこと」(知っていること、知らないこと)の区切り目に父が存在して、「文法」を支配していた。それがなくなると、父の背後にあったものが一気に季村に押し寄せてくる。
 その、理不尽な、強い力と対抗するには、どうしても強いことば、強靱な文法が必要である。それは、すぐには完成しない。だから、書くのだ。書きつづけるのだ。
 自分の知らなかった何かと向き合い、それをしっかり受け止めるために書くのだ。季村には、これから起きることを受け止める覚悟がある。それは、これまで起きたことを受け止めるという覚悟でもある。「やがて始まるだろう、いやもう始まっている時間」のすべてを正直に受け止める覚悟--それを季村のことばに感じる。






山上の蜘蛛―神戸モダニズムと海港都市ノート
季村 敏夫
みずのわ出版



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平田好輝「門衛さん」

2011-03-08 23:59:59 | 詩(雑誌・同人誌)
平田好輝「門衛さん」(「鰐組」263 、2011年01月01日発行)

 平田好輝「門衛さん」は、坂多瑩子の「天井裏」と同じように、とっても変な詩である。ひとに勧められない(?)、特に子どもに勧められないようなものを含んでいる。

父の勤めていた工場には
門衛さんがいた
門のところに
小さな建物があって
その中にいつも坐っていた

門衛さんはいいなア
何もしなくていいのだから
楽ちんでいいなア
わたしが本気になって父に言うと
父はひどく不機嫌な顔を見せた
工場の中で
一番つまらん奴が門衛なのだと
父はツバでも吐くように言った

けれども わたしは
門衛さんにあこがれていた
将来あんな人間になりたいと
思っていた

 多くのひとが「父」と同じような考えかもしれない。仕事に貴賤はないとかなんとかいっては見ても、どこかで人間を比べている。そして、少しでも「つまらん奴」ではない方にいたいと思う。それはそれで、自然な考えではあるだろう。
 けれど、そういう考え(意味)から離れて、かってに動いていくことばがある。「自律」運動を生きてしまうことばがある。思いがある。「何もしなくていいのだから/楽ちんでいいなア」と、動いていく思いがある。
 この「自律運動」と、坂多の書いていた「ねずみ算」の計算の結果--だれもが消えてしまったという結果とは「違う」ものかもしれないが、私は、何か似たものを感じるのである。算数の計算の、計算そのもののなかにある自律して動いていく力、自律して動くことで「真理」をつかんでしまう力、「白い月」と同じような美しさに到達してしまう力が、平田の書いている「幼いこども」のことばのなかにあると感じるのだ。
 そのことばが自律してつかみとる美しさは、人間のくらしとは、かならずしもうまく合致しない。だからこそ、「父」はそれを絶対的な力で否定しようとする。
 でもねえ。
 自律することばは、そんな保守的な暴力には負けないのだ。

父の仕事の部屋に行くと
大勢の人が忙しそうに一日中働いていて
夜になって幾人かの人がうちに酒を飲みにきても
やはり工場のことばかり
怒鳴り合うように話していた

門衛さんはいつも
一日中何もしないで
静かに暮らしていた
昼どきになると
魚をジュージューと焼いて食べたりしていた

 ことばは、いつでも、どこでも、自律して動いていってしまう。子どものことばが、平田の書いているままの真実をつかみ取ったとしたら、多くの「父」はやっぱり叱るだろう。それは、まあ、どうしようもないことである。どうしようもないことであるからこそ、平田は、そこから離れて自律して動くことばがあるということを、こんなふうにして詩にするのことで守っているのである。


みごとな海棠―平田好輝詩集
平田 好輝
エイト社



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坂多瑩子「天井裏」

2011-03-07 23:59:59 | 詩(雑誌・同人誌)
坂多瑩子「天井裏」(「鰐組」263 、2011年01月01日発行)

 坂多瑩子「天井裏」は、わからないところがある。ふと覗いてみた天井裏から、急に昔を思い出したのだろうか。天井裏と言えば、ねずみ、そしてねずみといえば子だくさん。それを利用(?)してつくられた「算数」の問題……。

むかしむかし
お正月にお母さんが子どもを12匹生みました
お父さんいれて14匹になりました
2月にそれぞれ12匹ずつ生みました
毎月それぞれが12匹ずつ生みました
死ぬことなんて
考えないでいいと先生が言ったから
どんどん計算していったら
だれもが消えてしまった
ここには生活がないから
やさしく
白い月がでている
一年たったら何匹になるでしょう

 ここには、不思議な「自律」の美しさがある。「ここには生活がない」と坂多は書いているが、「生活」を押し切って、ただ「論理」が動いていく美しさがある。算数の計算は純粋に計算である。「死ぬことなんて/考えなくていい」。数字と数字を積み重ねていく。そのとき、「人間」が消えていく。この人間が消えていくことを、美しいと思うかどうかは、まあ、むずかしい問題だけれど、私は美しいと思う。美しさとは、人間が消えてしまったところにあると思う。
 もちろんそれとはまったく逆の美しさ--人間の生活でありつづける美しさもあるのだが、生活を拒絶して、ことばが自律してしまう美しさもある。その自律は「白い月」のように、人間に対して配慮しない。人間の思いなど気にしない。
 坂多は、そういう美しさがあることを、どこかで自覚している。その美しさに深くかかわっていく詩人ではないのだが、それがあることはしっかり自覚している。そして、その美しさを「天井裏」と結びつけているところが、おもしろい。なるほどなあ、と感じさせる。
 坂多は「天井裏」ではなく「天井」の「下」で生きている。そうして、ときどき「天井裏」を覗いてみる。「生活」を生きる人間がだれもいない世界を覗いてみる。そうすると、ちょっと変なのである。天井裏と言うと、蜘蛛の巣なんかが張っていて、……。では、ないのである。順序が逆になるが、先の引用部分は詩の後半。詩は、ほんとうは次のように始まっている。

天井の板のすきまから見ると
辺り一面
アルミ板におおわれていて
あかるい
ゴミひとつなく
銀白色
走りたくなった

 実際に見た「天井裏」は美しかったのだ。予想外だったのだ。そして、そこからことばが走りはじめる。「走りたくなった」のは、坂多のことば自身である。そして、実際に、坂多のことばが走りはじめる。天井裏を坂多自身が走るわけにはいかないから、ことばがかわりに走るのだ。
 そうすると……。

前肢の爪があたって
すべる
一直線のところ
隅をこそこそ
隠れる場所もない

 あ、ことばが「ねずみ」になってしまっている。どうみても、その天井裏を天井裏ではなく、生きる場所として選んでいる「ねずみ」が走っている。いや、「すべ(って)る」。あ、それは、なんだか遊んでいるようにも見えるなあ。ねずみがぴかぴかの、銀白色の床の上で滑って遊んでいる。「隠れる場所」がないことも忘れて、夢中になっている。その夢中であることが、遊び。
 それを私は「遊び」の「自律」と呼びたい。

 で。

 これが、実は後半の「ねずみ算」の計算そのものにつながる。ねずみが毎月12匹ずつ子どもを産んでいく。1年で何匹になる? この計算にはなんの「意味」もない。ただの、計算である。計算のための計算である。なんの意味もないことを、坂多は「だれもが消えてしまった」といっているように思う。「意味」と「人間(だれか)」は重なるのである。
 そういう「意味」と無関係に、ただ、計算が計算として成り立つ。それと同じようにして、ことばがことばとして「成り立つ」、というか、自律して動いていく。そのとき、算数の中にある「美しさ」と通じるものが、ことばのなかにも動いている。
 そして、それは「白い月」と同じように、全体的な美しさなのだ。

 --うまく書けたかな? 私の思っていること、私が考えたことが、きちんと他人に伝わる形で書けたかな? よくわからない。
 萩原健次郎の「スミレ論」との関係で言えば(私はいつでもこんなふうにして強引に「誤読」のなかへ入っていくのだが)、萩原のことばと違って、坂多のことばは「自律」によって動いていく。その「自律」にこそ、私はいつも美しさを感じる。詩を感じるのだ。


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萩原健次郎「スミレ論」

2011-03-06 23:59:59 | 詩(雑誌・同人誌)
萩原健次郎「スミレ論」(「coto」20号=最終号、2010年12月18日発行)

 萩原健次郎「スミレ論」は連作である。「coto」20号には「二十六」から掲載されている。前の部分を読んだ記憶がある。しかし、申し訳ないことに、もう「スミレ論」というタイトルしか覚えていない。もしかしたら、そのタイトルからかってに、昔読んだことがあると私が錯覚しているだけで、ほんとうは今回が最初の作品かもしれない。私は、まあ、そんな具合にいいかげんな読者なのだが、「スミレ論」というのは、あ、萩原健次郎らしいなあ、と思う。そう思うから、前に読んだと思うのかもしれない。
 何が萩原健次郎らしいか--といえば、妙な「古めかしさ」である。「スミレ+論」ということばの連続性が、ぞくっとするくらい、古い。そして、それをどうも、萩原は嫌いではないらしい、ということろに、私はぞくっとするのである。

深泥、足首まですっぽり入る柔らかな泥土であったの
に、この夏場はすっかり雨も少なく、乾土となり、と
きには、微粒子となった、さらさらの砂がただ無造作
に舞っている。
午後の閉域は、午前の閉域に比べてどうだろう。

 ことばの好みというのは、色の好みのように、何かしら「本能」に関係しているのかもしれない。だから、こんなことを書いても萩原は困るだけかもしれないが……。
 書き出しの「深泥」、このことばからして、私はつまずいてしまう。ぞくっとする。「しんでい」と読むのだろう。辞書にもきっと掲載されていることばだと思う。思うけれど--私は、このことばを聞いたことがない。文字を読めば「意味」はわかる。深い泥。ぬかるみのようなものだろう。こういう「意味」は見当がつくけれど、音として聞いたことのないことばに出会うと、私はいやな感じになるのである。「魔物」が、「古いことば」でしか言い表すことのできない何かがひそんでいるような、あ、近づきたくないなあ、という変な感じをもってしまうのである。
 そういうことばは、そういうことばとして自律して動いていけば、それはそれで泉鏡花のようなものになるかもしれないが、そこに「素粒子」が加わると、私の場合、我慢できなくなる。「素粒子」が、なんといえばいいのだろう、「元素」くらいに大きいものに見えてしまう(感じてしまう)のである。
 「午後の閉域」「午前の閉域」も同じである。つかい方次第では、すばやく動くことばなのだと思うが、萩原の文体のなかでは、ことばが重たい。何か妙なものを(魔物)を引きずっている。「どうだろう」ということばが、それに拍車をかける。

スミレの成育圏は、セカイと名づけられているだろうか。
それは、だれが定めた場であるのか。
金属の属性に近い、糸状の細い叫声を発する
笛なのか。
きょうは、泥で
あしたは、かわききった砂にまみれて
いのちの残滓である、花弁をごしごし擦って傷をつけ
て、生きるための官能を棄てて。官能のスイッチをつ
けたり消したり。
明滅している、
スミレの顔色よ。

 これはきっと「好み」のひとにはたまらない「毒」だろうなあ。「金属の属性に近い、糸状の細い叫声を発する/笛なのか。」の「笛なのか。」という短いことば。句点「。」の呼吸。
 それは、ことばが動いて行ってそうなった、というより、私には、ことばをそんなふうに集めてしまったという具合に感じられる。どのことばにも出典があり、萩原はそのことばを萩原の粘着力で統一している。ことばがことば自身で動いていくのを拒絶し、萩原が動いて行ってことばを萩原に定着させる。ときどき、「笛なのか。」というような短いことばで呼吸をととのえながら。(短いことばのあとに、深い、ゆったりした呼吸がある。)

 うまく書けない。書きたいことが書けない。書くべきことではなかったのかもしれない。でも、書かずに置いておいても、けっきょく思ってしまったことなのだから、おなじだよなあ。




冬白
萩原 健次郎
彼方社



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誰も書かなかった西脇順三郎(192 )

2011-03-06 12:49:36 | 誰も書かなかった西脇順三郎
 『禮記』のつづき。
 西脇のことばは、さまざまに乱れる。あることばの運動が、どうしてそんなところへ行ってしまうのかわからない部分がある。ことばとことばの脈絡に断絶がある。--というのは矛盾した表現になってしまうが、あることばの連続が、ふいに切断された瞬間に、ことばが「もの」のようにしてそこに存在する。それが私には美しく感じられる。
 「坂の夕暮れ」。前半は、ことばが「文学」っぽい。

あのまた
悲しい裸の記憶の塔へ
もどらろければならないのか
黄色い野薔薇の海へ
沈んでゆく光りの指で
そめられた無限の断崖へ
いそぐ人間の足音に耳傾け
なければならないのか

 ここには「日常」のことばにはないことばの動きがある。それを私はとりあえず「文学」っぽいと呼んだのだが、こういうことばを読むと、意識が研ぎ澄まされていくというか、意識が緊張していくのがわかる。緊張の中で、いままで見たことのないものが見えはじめる。
 これはたしかに詩である。
 そして、この詩が、後半にがらりとかわる。

頭をあげて
けやきの葉がおののくのを思い
うなだれて下北(しもきた)の女の夕暮の
ふるさとのひと時のにぎわいを思う
まだ食物を集めなければならないのか
菫色にかげる淡島の坂道で
かすかにかむ柿に残された渋さに
はてしない無常が
舌をかなしく
する

 「かすかにかむ柿に残された渋さ」。この具体性は、あまりにも具体的過ぎて、びっくりしてしまう。前半にあらわれた「沈んでゆく光りの指」という「比喩(文学)」の対極にある。そして、それはまた「日常」でもない。「日常」をたたきわったようなものである。それ自体が「日常」をたたきわったようなものであるが、そのことばは前半のことばの脈絡からかけ離れることで、ことばの運動自体に「断面」を誘い込む。それが美しい。この瞬間の「手触り」が私は大好きである。
 そして、そういうことばの運動のあと、「はてしない無常」がくる。「舌をかなしく/する」という不思議な「肉体」がくる。前半の「文学」(頭の中のことば--比喩)が、「肉体」そのものに、突然変わっている。

 「悲しい裸の記憶の塔」と、「舌をかなしく/する」の、ふたつの「悲しい」「かなしく」をつきあわせると、ことばの断面がよりくっきりと見える。

評伝 西脇順三郎
新倉 俊一
慶應義塾大学出版会


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季村敏夫『ノミトビヒヨシマルの独言』(5)

2011-03-05 23:59:59 | 詩集
季村敏夫『ノミトビヒヨシマルの独言』(5)(書肆山田、2011年01月17日発行)

 季村敏夫『ノミトビヒヨシマルの独言』については、1月に4回感想を書いたが、書き足りない。何度も何度も、できるなら全作品を引用しながら感想を書きたいくらいである。どのことばも、ことば自身の内部をとおり、ことばの向こう側へ行こうとしている。
 ことばの向こう側--そんなものはない、とひとは言うかもしれないが、だからこそ、そこへ行こうとしている。「ない」ところへ。まだ存在しない場へ。その「場」は、いまは「ない」けれど、ことばがそこへ行けば、その瞬間にそこに生まれてくる--そういう場である。
 「室内楽」。

コップがゆれる。コップのなかの水が、かすかに、ふるえる。いっ
しんに光を集め、小さな音楽に変換しているのか。コップ、カップ、
モップ。部屋にあるすべてのもの、身体まで、小さな爆発に、つつ
まれる。

(死者を目覚めさせる。そのために、手紙は書かれる。)

 季村のことばを借りて言えば、ことばを目覚めさせるために、ことばは書かれる。「意味」のなかで死んでしまったことば、「意味」に固定されて動けなくなったことばを目覚めさせるために、季村のことばは書かれる。
 コップ。これは誰もが知っていることばである。コップは、たとえば水を入れるもの、水を入れて、その水を飲むためのもの。「意味」は「定義」でもあるのだが、そのコップが、コップでなくなる瞬間がある。たしかにそこに水ははいっている。だからコップなのだが、それだけではない--そう感じるときがある。その感じによって、コップそのものを、コップではないものにする。
 死んだことばと、目覚めることば。それが同じ「コップ」ということばで書かれるために、このことを説明するのはとても面倒くさい(むずかしい)のだが……。

 「コップがゆれる。コップのなかの水が、かすかに、ふるえる。」たしかに、コップがゆれれば、そのなかの水はゆれる。だが、季村がこのことばを書いているとき、そのコップがほんとうにゆれているわけではない。ゆれていなけれど季村は「ゆれる」と書く。そうすると、それに反応して「コップのなかの水が、かすかに、ふるえる。」ということが起きるのである。コップの揺れが、水のふるえに変わる。そして、その変化は「かすか」である。「かすか」なものは、それに注目しないかぎり、そこには存在しない。存在するけれど、見すごされてしまう。その見すごされてしまうものを、ことばの力で、くっきりと存在させる。
 この瞬間。
 ことばは、越境しているのである。いままで存在しなかった「場」が、ことばによって「場」としてそこに出現している。
 だから、そこからことばはさらに変わっていく。つまり、それまで存在しなかったものを、そこに出現させることで、さらに先へ進む力を獲得する。

いっしんに、光を集め、小さな音楽に変換しているのか。

 コップがゆれる。水がふるえる。そして、そのとき「音楽」が生まれる。それも「音」の音楽ではない。「光」をあつめてできる音楽である。光のゆれ。光のふるえ。--もう、コップを見ているのか、水を見ているか、わからない。そこにあるのは、コップ? 水? それとも、それをみつめる「私」? いや、そこから始まる音楽を聞く「私」? ことばの運動は、私を、見ているのか、聞いているのかわからないというところまで連れ去ってしまう。
 コップと水と光と音楽が区別がつかなくなるように、あらゆるものが区別がつかなくなる。「コップ、カップ、モップ。」その音の変化(ことばの変化)のなかに、そのことばを向き合いつづける「私」も当然含まれる。

部屋にあるすべてのもの、身体まで、小さな爆発に、つつまれる。

 この「身体」は「私」である。「私」ということばは書かれていないが、そのことばを書いている季村のことであり、同時に、コップ、水、光、ことばにすることで生まれてきた音楽である。
 季村は「つつまれる」と受け身でことばを書いている。そのとき、では、「つつむ」能動は? 「つつむ」の「主語」は? 音楽? --「学校教科書」の文法ではそうなるかもしれない。けれども、そうなのかな? コップがゆれ、水がふるえ、そのなかにあつまめられた光が音楽になり、それが「すべて」をつつんでいるのかな? どうも、おかしい。「コップがゆれる。」の「ゆれる」は自動詞。主語はコップ。「水が(略)ふるえる。」の「ふるえる」は自動詞。主語は水。では「光を集め」の主語は? 「集める」は他動詞である。主語と目的語が必要である。目的語は「光」に間違いないだろうが、主語は? わからない。「音楽に変換している」の「変換している」の主語もわからない。 コップ? 水?
 主語はないのだ。
 あえていえば、ことばの運動が主語なのだ。ことばが自律して動いている。そして主語になっている。季村がことばを動かしている--と外形的には言えるかもしれないが、そうではなく、ことばが「目覚め」、かってに動いているのである。
 だからこそ、「つつまれる」という表現が出てくる。
 「つつむ」のは目覚め、自律的に動きはじめたことばであり、その運動のなかでは「身体(私=季村)」までもが「目的語」になる。受け身の立場になる。
 こうした変化を、季村は、まるで何も起きなかったかのような静かな文体で書いてしまう。死んでしまったことばを目覚めさせる。そのために、ことばは書かれる--というようなことなど、意識されないようにして、静かに書かれる。

なにも動いていない。コップも、コップのなかの水も。今いる部屋
も、微塵も動かない。だが遠方から、爆発音が送られたような気が
し、ふるえるおもいがとまらない。

(届くのだろうか、手紙は。封は、だれの手によって切られるのだ
ろう。)

 ことばは動く。だが、そのときコップも水も動かない。--これはほんとうである。そして、これが、詩の大きな問題である。
 コップは動かない。水は動かない。したがって、そこにある光が音楽に変換する(変換される)ということも現実にはありえない。けれど、そのありえないことをことばは書くことができる。ただ書くことができるだけではなく、書いてしまうと(読んでしまうと)、それが「わかってしまう」。
 「ない」。そこに「ない」ものが、「わかってしまう」。
 このとき、ことばが目覚めたのか、それとも、私たちの「意識」が目覚めたのか。あるいは逆に意識は果てしない「夢」(眠り)のなかに落ち込んでしまったのか。わからない。わからないのに、そのわからないということが「わかってしまう」。

 季村のことば(手紙)は、届くのか。だれの手によって、その封が切られるか--私は、その封を切ってみたいと思う。切って、そのことばを読んでいる、と思って、感想を書く。私は、いつでも「誤読」しかしないから、季村のことばが届いているとは言えないかもしれない。けれど、私は夢をみるのだ。「誤読」することで、ことばをさらに遠くへ動かしていきたい。季村のことばが季村から自立し、自律的に動き、こうやって「伝達」のまねごとをしている私からも遠く遠く去って行って、どこかでとんでもない運動を引き起こすことを。


*

 もう、いくらなんでも「アマゾン」で購入できるだろうと思い、感想を書いたのだが、アマゾンの「アフリエイト」のリストには登録されていないようである。とてもおもしろい詩集なので、ぜひ、書肆山田に問い合わせて、購入し、読んでみてください。
書肆山田は
東京都豊島区南池袋2-8-5-301
電話 03-3988-7467


 


木端微塵
季村 敏夫
書肆山田
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ジョージ・スティーヴンス監督「シェーン」(★★)

2011-03-05 23:53:37 | 午前十時の映画祭
監督 ジョージ・スティーヴンス 出演 アラン・ラッド、ジーン・アーサー、ヴァン・ヘフリン、ブランドン・デ・ワイルド、ジャック・パランス

 私はひねくれものなのだろうか。この映画を一度もおもしろいと思ったことがない。クライマックスといっていいのかどうかわからないが、最後の酒場のシーン。シェーンを2階からライフルが狙う。そのとき、少年ジョーイが「危ない」と叫ぶ。気がついて、シェーンが振り向きざまに銃を放つ。このシーンは、まあ、許せないことはないのだが。
 その前。
 シェーンが、ジョーイの父親の代わりに酒場へ乗り込む。それをジョーイが追い掛ける。シェーンは馬に乗っている。少年は走っている。追いつける? 走り続けられる? どうみても小学校低学年、10歳以下。変だよねえ。一緒に犬もついてくるんだけれど、犬ってそんなに走る?
 映画がリアリズムである必要はないけれど、これは、あんまりだよねえ。

 途中に出てくる、暴力と自由の対立、その議論――というのも、図式的。土と生きる人間のずぶとさがなく、まるでストーリーのためのセリフ。実感がこもっていない。
 そのくせ、シェーンとジョーイの母の「恋愛」だけは、セリフではなく、肉体(顔、目の動き、体の動き)で表現するという映画の王道をつきすすむ。あらあら。これって、恋愛映画? アラン・ラッドではなく、ジーン・アーサーの演技力によるものだけれど。

 唯一の救いは、透明な空気かなあ。どこだろう、遠い山には雪が残っている。青い連山、青い山脈だ。その山の方へ向って去っていく男を、ジョーイの声が追い掛ける。「シェーィン」(シェーンじゃないね)。こだまが「シェーィン、シェーィン」と響く。これは、いいね。帰ってくるのは、こだまだけ。それも、少年の透明な声。せつない、というより、さびしい悲しさだね。
             (「午前10時の映画祭」青シリーズ5本目、福岡天神東宝)




シェーン [DVD] FRT-094
クリエーター情報なし
ファーストトレーディング
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誰も書かなかった西脇順三郎(191 )

2011-03-05 09:12:02 | 誰も書かなかった西脇順三郎
 『禮記』のつづき。「半分」ということばは、「たそがれのまなこ」にも出てくる。知人を訪ねての帰り道。その「途中生垣をめぐらす/大きな庭を/向う側にみて」いる。その詩の後半。

ザクロの実が
重そうに枝から下がつている
なぜこの半分の風景が
心をさびしがらせるのか

 ここで「半分」と書かれているのは、ザクロに則して言えば、ザクロの全体が見えない。生け垣で半分は隠されている、ということだろう。「世界」は半分が見え、半分は見えない--そこに「さびしさ」があり、美しさがある。
 それは「意味」が完結しない、ということかもしれない。完結しないことで、「意味」の「断面」のようなものが見えるのかもしれない。その「見える」という感覚は錯覚かもしれないけれど……。きっと、半分であることで、もう半分を求めようとして何かが動くのである。その動くことのなかに、たぶん「さびしさ」と美しさがある。「動く」という運動そのもののなかに、美しさのすべてがある。

何人がこの乱れた野原のような
曲つた笛のような庭で
秋の来るのを
待つていたのだろう
この辺は昔ガスタンクを見ながら
苺に牛乳をかけてたべたところだ

 最後の2行は、この詩を「半分」にしてしまう。「現在」のなかに、突然、時間を突き破ってあらわれる「過去」である。そして、その「過去」は「この辺」というだけの理由で「現在」を突き破るのだ。
 「ガスタンク」も「苺に牛乳をかけてたべ」ることも、生け垣の向こうにある庭とは無関係である。
 無関係なものの闖入は、「乱調」である。そして、この「乱調」を促すのが「半分」という不思議な「断面」、あるいは「すきま」(間)の構造である。ここにかかれていることが、何かに完全に属していない、「半分」自由であるから、そこに乱調を誘い込むのである。




西脇順三郎と小千谷―折口信夫への序章
太田 昌孝
風媒社
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岩佐なを「下弦」、池井昌樹「鈍竜」(「桜尺」38、2011年02月28日発行)

2011-03-04 23:59:59 | 詩(雑誌・同人誌)
 岩佐なを「下弦」はとても変である。「下弦」は下弦の月。朝方の半分欠けた月。しかも、それは太陽の光の影響もあって薄れていくだけの存在。それを見ながら、岩佐は、人間は死んだら星(や月)になるというけれど、父や母もそうだろうか、下弦の月はどっちだろう--というようなことを思うのだ。

すると、兄が「俺だよ」と笑って言う。坂のそらみみ。全く兄のことは知らないから、なるべく関わらずに生きていきたいのに、死んでいきたいのに。「ははは、俺だよ」と言う兄。(ミアゲルナ・キコエナイフリ)生まれてすぐ死んだくせに立派に成長して端正な幻影でわりこんでくる。うすっぺらの半月だとしても、脳にしみこませる言の葉を降らせてくる。ほら、冬の一日が始まって、樹木にはあたらしい芽。兄の肉の手を握るまで、下弦の月を見つけては黙礼する自分。よく見て。後頭部が禿げている。

 そうだねえ。上弦の月の形の禿はないよなあ。でも、おかしいねえ。禿げというのは、髪の毛の欠けた(?)部分。もし、それを月にあてはめるなら上弦の月の方が、禿げ頭ということになるのかもしれないけれど、ほら、光っているのは上弦の月は下、下弦の月は上、と奇妙にねじれるからなあ。なにか、おかしいねえ。「日本語」がおかしいのかな?私の論理のどこかがおかしいのかな? 論理と見かけは違うということかな?
 どうでもいいのだけれど、そのどうでもいいところへことばが自然に動いて行ってしまう。それがおかしい。
 で、読み返すと、この奇妙な混乱は、

なるべく関わらずに生きていきたいのに、死んでいきたいのに。

 から始まっている。(もっと前から、かもしれないけれど。)
 「生きていきたいのに」「死んでいきたいのに」と、反対のことが読点「、」を挟んで繰り返される。そして、そんなふうにつづいてしまうと、あれ、どっちだろうと思ってしまう。そこに、どんな違いがある? 生きていくと死んでいくって、どこが違う? 違うようで、違わないねえ。生きて行ったその果てに死があるのだから、生きていくということは死んでいくことにほかならない。
 それと、半欠けの月の「禿げ」の感じがそっくり。いや、まったく違うのだけれど、どこかですれ違ったときに、どうして違ってしまったのかわからないくらいに似ている。
 髪の毛が抜けた部分(欠けた部分)を「禿げ」というのなら、月の上半分が欠けた上弦の月の方が禿の月であるはずだけれど、その欠けた部分が暗く(黒く)、欠けていない部分が光っているので、あれ? この光と影を中心に見つめなおせば、下弦の方が禿げ頭に似ている。
 変でしょ?
 こんなことは、考えちゃいけないことだったのかもしれない。
 (ミアゲルナ・キコエナイフリ)という岩佐のことばをまねして、考えるな、読まなかったふり、と言い聞かせ、別な感想でも書いた方がいいのかもしれない。
 でも、書いてしまったからねえ。

兄の肉の手を握るまで、

 という1行も変だよねえ。岩佐の詩に従えば、兄は死んでいるのだから、その手を岩佐が握ることがあるとしても、それは岩佐が死んだとき。天国なんてあるかどうかしらないが、兄と手を握るのはその天国ということになる。でも、天国でも、私たちの肉体は肉体? 肉体があるなら、そこは天国じゃないのでは?
 ほら、また、罠にかかってわけのわからないことを書きはじめてしまう。もう、やめようね。同じことばを繰り返し繰り返し書いてしまうことになる。



 池井昌樹「鈍竜」も、繰り返し繰り返しなのだが、岩佐の詩の進む方向とはまったく違う。

じぶんさえよければいいむれのどこかで
じぶんではないだれをもおしのけ
じぶんではないだれかをかきわけ
じぶんさえよければいいむれのどこかで
だれよりはやくあそこへと
だれよりあかるいあそこへと
じぶんさえよければいいむれのどこかで
きょうもきょうとておんなをもとめ
あすはあすとておとこをもとめ
じぶんさえよければいいむれはすこうしすすみ
じぶんさえよければいいむれはまたあともどり
じぶんさえよければいいむれはふくらみつづけ
じぶんさえよければいいむれはくろくものよう
いよいよふくらみふくらみきわまり
じぶんさえよければいいながいしっぽは
かこのとばりにくらくおおわれ
じぶんさえよければいいちいさいおむつは
いましもあんぐりくちをあける
あかるくはてないならくのほうへ

 「じぶんさえよければいい」と繰り返し、どんどんかわっていく。でも、ほんとうはかわらない。行き着く先は「あかるくてはてないならく」である。「明るい」と「奈落」はほんとうは(というか、常識では、)矛盾している。暗いのが奈落である。でも、その「あかるくてはてないならく」ということばが与える印象は、岩佐の書いている下弦の月の禿げ頭のようには、おかしくはない。変ではない。
 「明るい」と「奈落」が矛盾せずに存在する「場」があるのだ。そして、その一転すると「矛盾」したものの結合である「場」は「じぶんさえよければいい」という欲望の繰り返し、欲望の果てにやってくるものなのである。
 その欲望を声に対して、池井は岩佐のように(ミアゲルナ・キコエナイフリ)とは言わない。絶対に言わない。かわりに、「みあげろ、きけ」というのである。否定しない。ただ肯定を繰り返す。きょう女を求めたなら、あすは男を求める。方向を限定しない。「すこうしすみ」「またあともどり」しながら、「ふくらみつづけ」、明るい奈落そのものになるのだ。矛盾そのものになることで「変」とか「奇妙」とかの安直な批評のことばを拒絶する。

 あ、これは、岩佐の「変」「奇妙」が安直という意味ではありません。それじゃあ、何、と質問されると、ちょっと答えるのが面倒くさい。
 次の機会に。



 浅山泰美「春」は、最後が俳句のようである。

新月の晩
掌の中でみどりの小鳥が死んだ
その記憶が鏡のように曇っている 冬の空に

秘密は守られているだろうか 遠くで。

 秘密が「近く」で守られているのではなく、「遠く」で守られていてほしい--という抒情が、世界を押し広げる。それも掌の中で死んだ小鳥という具体的な肉体とものとの出会いの中に凝縮することで。
 遠心と求心の強い結合がある。これは、岩佐の「変」「奇妙」とも、池井の「絶対矛盾」とも違った何かである。西脇の書いている「淋しい」を抒情にすると、浅山のようになるのかな、とも思った。






しましまの
岩佐 なを
思潮社

母家
池井 昌樹
思潮社
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誰も書かなかった西脇順三郎(190 )

2011-03-04 10:05:28 | 誰も書かなかった西脇順三郎
 『禮記』。「タランボウ」という詩がある。

ハナズホウやマメいろにそめた
袖なしを着て四人の男が
タランボウの木の
みおさめに
雷のならないうちに歩いた

 の「タランボウ」が実はわからない。「タラノ木」というものが『宝石の眠り』に出てくるので、これだろうと、いいかげんな見当をつけている。音が楽しい。「ボウ」にはなんとなく親しいものに対する呼びかけのようなものがある。愛称、っぽい。それが、なんとなくうれしいのである。
 その書き出しの、少し後。

こわれた花瓶のような坂を越えた
トウダイグサやアザミの藪で
キリギリスは呪文をとなえる
人間の声におどろいて半分でやめる

 この「人間の声におどろいて半分でやめる」が、特に「半分」がとても好きだ。途中で、というのと「意味」は同じだろう。途中、といっても、それがほんとうに「途中」かどうかは人間にはわからないことである。同じように「半分」もそれがほんとうに「半分」かどうかなど、人間にはわかるはずがない。けれど、そのわからないものを「半分」と言い切ってしまうところがおもしろい。「途中」よりも「半分」の方が、全体(?)が見えそうでおかしい。それに、音がとてもいい。「途中」でやめるだと、奇妙に重たい。真剣というか、真面目な感じがする。「半分」は軽い。その軽さが「呪文」の重さを洗い流す。
 このあ、詩は、

人間の言葉は悪魔の咳にすぎない

 という行へとつづくのだが、このなにやら重大なのか、冗談なのかわからないことばの運動も「半分」のおかげで、とても軽く弾む。重大な意味にも、冗談にもならなず、「半分」のことばそのままに、その「真ん中(半分のところ)」を動いていく。
 あらゆることばが、「意味」から「半分」離れて動いていく。

ある粘土の井戸もなくなつた
コンクリートの電気ポンプになつた
ノビラ氏はものの涙のために
悲しい「ダ」の宴を開いてくれた
麦酒赤飯油いためのサヤマメやニンジン
青紫の皮のやわらかなナス
「菊」を「ジコウ」に酌んだ
主人とともに絃琴に合わせて
農業政策と物価論を歌つた

 「農業政策」「物価論」を「語った」ではなく、「歌った」--そんなものなど歌えないだろう。でも、歌ってしまうのだ。
 「歌った」の方が音がおもしろい。
 そして、このときの音というのは、現実に「耳」が聞く音ではなく、意識が聞く音である。「歌った」という、ありきたりのことばのなかにある音が、「農業政策」「物価論」という音とぶつかって、「農業政策」「物価論」を「意味」ではなく、音そのものにしてしまう。実際に何を語ったかは問題ではない。「のうぎょうせいさく」(のーぎょーせーさく)「ぶっかろん」という音が「意味」から剥がされて浮かんでいる感じが「歌つた」によって生まれてくるのである。




西脇順三郎詩集 (新潮文庫 に 3-1)
西脇 順三郎
新潮社


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進一男『かつて光があった』

2011-03-03 23:59:59 | 詩集
進一男『かつて光があった』(本多企画、2011年02月01日発行)

 進一男『かつて光があった』はタイトルは旧約聖書からとられている。詩集の最初に「神は、光を、よしと思い、光を闇と分けられた。」が掲げられている。私は宗教のことはわからない。だから、宗教については書かない。そして、宗教のことを除外して考えるとき(除外しなくても同じになるかもしれないが)、気づくことがある。進の詩は、「ことば」からはじまる、ということである。そこに「ことば」がある。そこから出発する。
 だれかが(神、かもしれない)、ことばを、よしと思い、ことばをことば以外のものと分けられた--ということばが、誘われるようにして思い浮かんだ。
 「ことば以外のもの」と、あいまいに書いたのは、それが進の場合、「もの(実在)」を指してはいないように感じられるからである。
 先に書いた文章の「主語」を「進」にすると、それは次のようにして動いていく。
 進は、ことばを、よしと思い、そのことばをそれ以外のことばと分けられた。進は詩のことば(文学のことば)を、よしと思い、詩のことば(文学のことば)をそれ以外のことばと分けた。そして、詩のことば(文学のことば)を動かして、詩をつくる(文学をつくる)。それは世界を、詩(文学)の世界と詩(文学)以外の世界に分けることである。そして、このときの詩(文学)以外の世界というのは「もの」のことではなく、あくまでことばの領域のことである。

 なんだか面倒くさいことを書きはじめた感じがするが、簡単に言いなおすと、進は、詩(あるいは文学)のことばを踏まえながら詩をつくる、文学をつくる。詩、あるいは文学として「認定」された作品がある。たとえば旧約聖書。それは詩、文学ではなく「宗教」かもしれないが、いずれにしろ、そのことばは特別なことばである。正しい(?)ことばであると認められていることばである。単語だけではなく、そこに書かれている「文体」も正しいものである。日常のあやふやなことば、文体ではなく、人間を導き育てることばである。進は、そういうことばを、ことばそのもののなからか学び、吸収し、そのことばを組み立て直すことで、自分のことばを確立する。そういうことをしていると思う。
 進が向き合っている「現実」は、私には、なにやら「ことばの現実」でしかないように思えるのだ。「もの」と向き合って、「もの」と闘いながらことばを動かしているのではなく、いろいろなことばと向き合って、そのことばを動かしているだけのように見えるのだ。
 この詩集では旧約聖書のことばと向き合い、そのことばと結びつけることができることばを探しながら、ことばを組み立てているように思えるのだ。「もの」が入り込み、ことばをひっかきまわすことはない。「もの」の抵抗にあい、ことばが行き詰まるということもない。
 巻頭の「初めの時」とは誕生の瞬間のことだろうか。

初めて大きく目を開いて
最初に私が見たのは 光
それは確かに光であったと私には思われる
何と輝かしい光の中に私は在ることか
私がそこに在るこの世界が
このようにまで美しいものだとは
私は思い切り手足を伸ばし動かして
どれほどまでに私の生を喜んだことか
そのように私には思われた

 ここからは、どんな「もの」も引き出すことができない。ただ「光」ということばだけしか存在しない。それも進が見た「現実の光」というよりは、「光の意味」だけがここにしるように思われる。
 進は、「意味の確立したことば」をよしと思い、「意味の確立したことば」を「意味の確立していないことば」と分けられた(分けた)。「意味の確立したことば」は「光」とはなってひとを導く。「意味の確立していないことば」は「やみ」となってひとをわけのわからない世界にひきずりこむ。
 まあ、それはそれでいいのかもしれないが、私は、わけのわからない世界に迷うのも楽しいと思うのだ。正しく導かれると、正しい人間になれるのかもしれない。正しい世界を生きることができるのかもしれない。でも、ときには正しくないことのしてみたくない?思いっきり罵倒されるようなことをしながら「へん、お前、これができずに悔しいんだろう」なんて、言ってみたくない?

薔薇よ
私は何時も思っていた
私の薔薇を美しく咲かせたい
しかし薔薇よ
私の内に籠もって現れないことばのように
私の薔薇は一向に
咲く気配さえもないのだ
薔薇よ
私はお前の中の何ものかを
おそらく忘れているのに違いない
                                 (「薔薇」)

 進は、「お前の中の何ものか」を「美」と考えているのかもしれない。絶対的な美につながる思想と考えているのかもしれない。たとえば、旧約聖書に書かれているような確立されたことば、意味と考えているのかもしれない。それを見つけ出した時(思い出す、というより見つけ出す時だと思う)、ことばは進の内から現れて薔薇のように開く--そういうことを夢見ているのかもしれない。
 それは「理想」かもしれない。
 けれど、私は逆に、何か間違ったもの、正しくないものが、ことばとなってあふれだす時、そこに薔薇が開くのではないかな、とも思うのだ。薔薇。比喩としての薔薇。比喩--というのは、別なことばで言えば、それ自体ではないもの、間違ったもの、間違いの形でしかあらわれることのできない真実である。言い換えると、薔薇は人間でも思想でもない。間違ったものである。だから、思想よりも美しい。そして、人間を迷わせる。--そういうことが起きるのが人間の世界だと思う。
 そういうふうにことばが動いていけば楽しいと思うのだが、進のことばは、それとは正反対の方向へ、間違いを切り捨てながら正しいものへと進んでいく。そういう歩みを確立することが進の詩なのだ、と感じる。
 しかし、それではあまりにも抽象的過ぎる。何か、とてもつらい気持ちになる。

 詩集のなかでは「果てない隧道」が印象に残った。この詩では「光」ではなく「闇」が書かれている。そして、その「闇」には抽象的な意味ももちろんあるが、とても具体的である。そのために、不思議に安心して読むことができたのだ。進に叱られて(?)いる気がしなかったのだ。ほかの詩では、なんだか人生を改めなさい、と叱られているような気がしてくるのだ。

突然の異変に 私は気づいたのだ
瞬時にして 対向車が完全に姿を消し
同時に 対向車線もなくなってしまって
自分の居る一方通行車線のみになっていた
と思う間に 先行車も消えてしまっていて
引き返した方がいいしも知れぬと思うと
忽ち 後方が閉ざされたように闇になった

 これは、進には申し訳ないが、いいなあ、と思う。この恐怖。いやだけれど、味わってみたい。トンネルに入って、前から車が来なくなったと思ったら、前から来なくなっただけではなく、後ろが闇に消えている。だからこそ、車は来ないのだ、と気づく。そして、後ろが闇に消えているなら、前だって闇に閉ざされているはずである。

私は前方の微かな明かりを頼りに 車を進める
しかし 行けども行けども 出口は現われない
私は永劫無限隧道の中に 閉じ込められたのかも知れぬ
何れにせよ 前へ前へ進むより方法はない 私は覚悟を決める
私は何時しか これがこの世のことなのだと 思い知らされる

 「前方の微かな明かり」「永劫」というようなことばがなければもっといいなあ、と思う。闇のなかでは「前方」なんて、ない。「明かり」があるとき、それが「前方」なってしまう。そうすると、その瞬間から「この世」ではなくなる。それが残念だけれど1行目から7行目までは、とても好きだなあ。


香しい島々―進一男詩集
進 一男
沖積舎
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ミヒャエル・ハネケ監督「白いリボン」(★★★★★×5)

2011-03-03 23:57:29 | 映画
監督ミヒャエル・ハネケ出演クリスティアン・フリーデル、レオニー・ベネシュ、ウルトリッヒ・トゥクール

 とても怖い映画である。怖い、と書いてしまうのが怖いくらい怖い。映像はあくまでも端正で構図が揺るぎがない。光はあくまで透明に輝き、闇はあくまで暗い。嘘がないのである。
 いろいろ怖いシーンがあるが、象徴的なのは牧師の少年が牧師(父)に問い詰められるシーンである。牧師は少年が元気がないのを問い詰める。「何か反省することはないか」。牧師は少年がオナニーにふけっているため、元気がないことと知っている。そして、そのことを直接言わずに、ある少年の話をする。その話を聞いて少年は顔を赤らめ(牧師が指摘する)、涙も流すが、「何もしていない」と反論する。もちろん嘘である。それも見抜かれていることを知っていて言う嘘である。牧師は牧師で、少年が嘘をついていることがわかっているが、それ以上の答えは求めない。そのかわり、寝るときに少年の手をベッド脇にしばりつける。オナニーができないように、である。
 ここに端的にあらわれた人間の関係。それが全編にあふれている。みんな他人のやっていることを知っている。秘密を知っている。しかもその秘密は「本能」なのである。誰もがやっていることなのである。
 誰かをねたむこと、恨むこと、憎むこと、傷つけること――そういう、オナニーとおなじように「してはいけない」ことは、オナニーとおなじように「しないではいられない」ことなのである。誰もが「してはいけない」、けれど「してしまう(しないではいられない)」ことをして、それを隠している。「していない」という。嘘をつく。そういう嘘に気づかない人間はいない。そして、そういうことに気づいても、人はその嘘を徹底的にあばこうとはしない。そんなことをすれば、自分自身の嘘があばかれる。面倒なことになる。
 そして、この嘘、嫉妬、憎悪、暴力は、「こども」を突き動かす。牧師は少年に「純真(純心)」の象徴である「白いリボン」をつけさせるが、逆説的な言い方になるが、こどもたちは純真ゆえに、嘘、嫉妬、憎悪、暴力、そしてセックスに染まる。防ぐ方法、それらから自分を守る方法を知らない。自分に襲いかかってくる性の暴力から自分を守る方法など、もちろん知らない。
 それらから自分を守る方法はただひとつ。そういう「悪」に染まることである。「悪」に染まって見せないと「仲間外れ」にされる。おとなはこどもに純真をもとめる。けれど純真を守れば、こどもはこどもから除外される。また、おとなの暴力もこどもはただ受け入れる。拒んだとき、次に何が起きるかわからないから、ただ受け入れ、そうすることで嘘、嫉妬、憎悪、暴力を自分の肉体のなかにためこむ。嘘、嫉妬、憎悪、暴力は肉体の思想になる。
 「悪」に耐えられないこどもは、「悪」を「夢」(悪夢)として語る。それはこどもの悲鳴である。不思議なことに、おとなはこどもの嘘を見抜いても、「悪夢」のなかの「悪」にはなかなか気がつかない。「夢をみたんだね、夢だから気にしなくていいよ」と言ってしまったりする。

 それにしても美しい映画である。完璧に美しい。それは、誰もが見たことのあるものである。見てきたものが純化、純粋化された形でスクリーンに定着している。美しすぎて、信じられないくらいだが、きっとそれは、嘘、嫉妬、憎悪、暴力さえも、完璧に純粋化されているからである。
 映画の時代は第一次大戦前、舞台はヨーロッパの敬虔な村だが、そこで起きていることは、どこでも起きている。都会でも、会社でも、家庭でも。白いリボン(純真、無実)を求めるこころがあるところなら、いつでも起きるおとなのだ。矛盾した言い方になるが、白いリボンを要求するものがあるとき、黒い悪が野獣のように動くのである。悪に対抗するものが白ではなく、白に対抗して動くのが黒、悪なのである。その不思議な拮抗が、この映画の「モノクロ」の輝きそのものになっている。
 この映画を批評して「古典になっている」ということばがあったが、「古典」というようり、私の感覚では「神話」である。あらゆるシーンが絶対的に美しく、超越的である。
                        (3 月2 日、KBCシネマで)




ミヒャエル・ハネケ DVD-BOX1
クリエーター情報なし
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誰も書かなかった西脇順三郎(189 )

2011-03-03 12:47:55 | 誰も書かなかった西脇順三郎
 『宝石の眠り』のつづき。「坂」は前半と後半で、ことばの調子が変わってしまう。

崖のくぼみに
群がるとげのある
タラノ木に白い花が
つき出る頃
没落した酒屋の前の
細い坂を下つて行く
ジュピテルにみはなされて
植物にさせられた神々の
藪の腐つた臭いは
強烈に脳髄を刺激する
神経組織に秘む
永遠は透明な
せんりつを起す

 4行目の「つき出る」に驚く。花が咲く--それを花が枝から「つき出る」。それは突き破って出てくるということだろう。「咲く」も動詞なのだが、「つき出る」は「咲く」より激しい。過激だ。
 興味深いのは「ジュピテルにみはなされて/植物にさせられた神々の」という2行である。西脇の詩には「植物」がとてもたくさん出てくる。それも、この詩に出てくる「タラノ木」のように、どちらかといえば素朴な、観賞向きのものではないものが多い。それぞれの土地で深津根付いているものが多い。そういう「植物」に対して「ジュピテルにみはなされた」という修飾節を西脇はつけている。植物はジュピターに見放されている? それが事実かどうか(神話でそう書かれているのか?)、私は知らないが、まあ、それはどっちでもいいんだろうなあ。私がおもしろいと思うのは、その「ははなされている」という否定的なことばからはじまる不思議な運動(ことばの変化)である。
 みはなされて→腐る→強烈な臭い。それが脳髄を刺激する。そして、永遠が「せんりつ(戦慄?)」を起こす。その運動のなかで「腐る(臭い)」と「永遠」が出会う。「腐る(臭い)」には否定的なニュアンスがある。「見放されて」と通い合うものがある。それが「永遠」を浮かび上がらせる。「永遠」を「戦慄」として浮かび上がらせる。
 そのことばの出会い、「矛盾」したことばが出会い、輝く--その瞬間がとても美しい。私が見たものは、「腐る(臭い)」なのか「永遠」なのか、わからなくなる。この「わからない」という瞬間が、私は好きなのである。
 また、「ジュピテル」ということばからはじまる不思議な音の響きあいも、とても気持ちよく感じられる。「ジュピテル」「植物」「強烈」。「ジュピテル」という日本語ではない音が、前半のことばの「和ことば」を破って、「漢語」を引き出すのだ。「漢語」が連鎖して「脳髄」「刺激」「神経」ということばを引き出す。そこにも音の響きあいがある。のう「ず」い、し「げ」き、の濁音の呼び掛け合い。「し」げき、「し」んけい、の頭韻。その影響を受けながら「永遠」と「透明」が別の音楽を響かせる。「えーえん」「とーめー」。「漢語」のなかにある、その「音引き」の共鳴。「せんりつ(戦慄)」は「「旋律(音楽)」のなかで、忘れられないものになる。
 あ、これは「誤読」だね。強引な、ことばの分解だね。
 でも、「意味」とは無関係に、そういうことを私は感じてしまうのだ。





西脇順三郎コレクション〈第3巻〉翻訳詩集―ヂオイス詩集 荒地/四つの四重奏曲(エリオット)・詩集(マラルメ)
クリエーター情報なし
慶應義塾大学出版会



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ジョナサン・モストウ監督「サロゲート」(★)

2011-03-03 00:00:00 | 映画

監督 ジョナサン・モストウ 出演 ブルース・ウィリス

 ああ、なんでこの映画を見てしまったんだろう。いや、理由は簡単なんですねえ。ほんとうは「アバター」を見たい。けれど、目への負担を考えると3D映画、しかも早い動きのあるものは無理。でも、アンチ・リアルな世界を見たい。動きはもったりしていた方がいい--と思っていたら1本だけ、それらしき映画があった。「サロゲート」。
 まあ、予想はついていたんだけれど。
 だって、映画がはじまる前、予告編がはじまる前から、私は寝てしまっていた。(笑い)
 ああ、そのまま眠っていたかった。でも、隣のひとに「はじまるよ」と起こされてしまった。
 
 強いて見どころをあげると。
 ブルース・ウィリスの「サロゲート」は皺を消して、のっぺらぼう。とても気持ちが悪い。禿げ頭にも何やらのっぺりした金髪がのっかっていて、それもまたまた気持ちが悪い。
 ブルース・ウィリスって、禿げてて、皺があって、ようするに「疲れがたまった男」の表情をしていて、そのくせ「子守」をしてしまうというのが味だったんだなあ、とそういうことを思い出してしまう。
 「子守が似合う」というのはもしかしたら、世界共通の認識なのか。この映画でも「子供」に対する意識、愛情というのがとても重要な要素になっている。それがなかったら、たぶん、この映画自体成り立たない。
 変な感想だけれど、まあ、それがブルース・ウィリス何だろうなあ。

 見に行ってはいけません。お金の無駄遣いです。ほんとうに。



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