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詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

竹内敏喜「木々の」(22日の日記の書き直し)

2011-03-23 23:59:59 | 詩(雑誌・同人誌)
竹内敏喜「木々の」(22日の日記の書き直し)(「ムーンドロップ」14、2011年02月04日)

 竹内敏喜「木々の」は無造作に書かれたような詩である。美しい音、思わず立ち止まり、耳をすまし聞き入る音というものはない。繰り返し読んで、そのとき舌や喉や口蓋が、音を出す喜びに打ち震えるというものでもない。それとはまったく逆。読みたいという気持ちを起こさない詩であるとさえいえるかもしれない。
 じゃあ、何がいいのか。何が好きで、私はこの作品についてもう一度書いているか。
 竹内のことばには、声を出すときとはまったく違った喜びがある。聞く喜びだ。耳の喜びだ。

隣接する歩道からは数メートルさきも見通せず
生い茂る木々のむこうに神秘さえ
感じていたが

数十年も放ってあった病院まえの雑木林に
業者が入ると
そこへ、さっぱりした遊歩道ができた

整備されると、なんのことはない
奥行き四〇メートル
道を歩けば一周一〇〇メートルほどで足りてしまう土地だ

みえないということは
いかにも人間の想像力を刺激するのだろうと
しみじみ、理解する仕儀となった

失われたものを惜しみ嘆く立場でもないから
休日の午後、妻が料理するあいだ
一歳児を抱いて遊歩道を進むたのしさ

風いろになった木々に吸い込まれて

 聞く喜び--と書いたが、それは自分では思いもつかなかった新しいことばを聞く喜びとは違う。ごく普通の、いつも聞いていることばを聞き、そのいつものことばであることの安心感の喜びである。しかも、ちょっと複雑なのは、その「いつも」のなかに、たたいても壊れない(?)不思議な間合いがあることの安心感の喜びなのだ。
 具体的には指摘にはならないことを承知で書くのだが--それは、森繁久弥のせりふの言い回しを聞いている感じ、なつかしい漫才を聞いている感じ、に似ている。聞き慣れている。聞き慣れていることしか言わない。一種の「マンネリ」に通じる何か--マンネリというと、ことばは悪いのだが、繰り返すことで肉体にしみ込んだ呼吸、間合いの、不思議な美しさがある。
 1連目の「生い茂る木々のむこうに神秘さえ/感じていたが」は「学校教科書文法」の文節構造では「生い茂る木々のむこうに/神秘さえ感じていたが」という具合になるのだろうけれど、竹内は「生い茂る木々のむこうに神秘さえ」と言ったあと、しばらく考えて(改行の「間」をおいて)、「感じていたが」とつづける。「感じていた」と言い切らずに「感じていたが」とつづける。そこに「神秘」ということば、「神秘さえ」ということばに対する少しの抵抗感がある。「神秘」と言ってしまったのだが、そのことばを自分自身でうまく納得できなくて、違和感を感じながら、それを引き受ける。その「間合い」の瞬間に、ふいに、竹内の肉体が潜り抜けてきた「時間」というものが見える気がするのである。
 私は竹内というの人間を知らないのだが、不思議な「時間」の蓄積、落ち着きがある。最後の方に出てくる「一歳児を抱いて」ということばをそのまま信じるなら、竹内は20代後半から40代前半までの年齢のようだが、私には、どうもそんなふうに若く感じられない。もっと年上、ひなびた感じのする年代の「見切り」のようなものを感じる。竹内がもし30代を中心とする年齢の人間だとしても、彼がことばを交わしてきたひとはひとたちは彼よりはるかに上の年代のような感じがする。ことばのなかに「間合い」を大切にする「時間」が蓄積されている。ことばに「意味」などない。ことばの「意味」は「間合い」でできていると感じ、そのことを「肉体」で実践してきたひとの、温かい味がする。
 森繁久弥のことを何となく書いてしまったので、森繁久弥から感じることを補足として書いておけば、森繁のことばは少し遅れて出てくる。ふつうの役者のことばより、ワンテンポ遅れる。ことばより先に肉体が動いて、その肉体をことばが追いかけてくる感じがする。森繁が死んだとき、だれだったか(たぶん朝日新聞の歌壇に載っていた歌だと思うのだが)、最初は音痴で始まった「知床旅情」が最後には音程があっていると言っていたが、その感じ。最初は何か「ずれ」を感じるのだが、その「ずれ」がことばのなかで自然に調整されて最後はきちんと響く感じ--間が整っていく感じ、それを予感させる運動。森繁の肉体のなかに「間」をきちんとととのえる力があり、それが安心感を誘うのである。それに似ている。
 2連目の「そこへ、さっぱりした遊歩道ができた」というのとき、「さっぱり」ということばの出てくる瞬間の間合い、直前の読点「、」の不思議。その間合いが「さっぱり」ということばに与える「肉体」の感覚がおもしろい。
 これは、2連目から「そこへ、さっぱりした」ということばを省略してみるとよくわかるかもしれない。「そこへ、さっぱり」ということばはなくても「意味」は通じる。病院前の雑木林のなかに遊歩道ができたという「事実」に何の変化もない。
 だから。
 だから、というのも変な言い方になるが、竹内の書きたいのは、実は病院の前の雑木林に遊歩道ができたということではないのだ。そのことなら、だれでもが書ける。その遊歩道を見ていない私にだって、竹内の家の近くにある病院の前の雑木林に遊歩道ができた、と「事実」を説明することができる。でも、そういう書き方では「竹内」が見えて来ない。竹内がそのことばを書かなければならない理由というものがない。
 竹内が書きたいのは、「そこへ、さっぱり」ということばの動きのなかにあるものだ。そのことばを経由しないと「遊歩道ができた」という「事実」を書けないということだ。「そこへ、さっぱり」は、森繁の芝居にもどって言いなおすと、せりふの前に動く「肉体」である。せりふを濁してしまう何か--森繁の肉体の匂いである。
 それが「そこへ、さっぱり」のなかにある。特に、読点「、」のなかにある。
 3連目の「整備されると、なんのことはない」という1行も同じである。この1行はなくても、雑木林の広さが変わるわけではない。整備した業者、遊歩道をつくることを依頼した病院(?)にとっても、そこを歩く人にとっても、何かがかわるわけではない。ただ竹内の「肉体」にとってだけ「意味」がかわる何かなのである。そこには竹内の「肉体」がある。
 「肉体」はだれにでもあるものである。というか、「肉体」がないと、その人はその人ではいられないこれは明白なことなのだけれど、ことばのなかに「肉体」を持ち込み、それを自然な形で動かせる人は、実は、とても少ない。
 ことばは「意味」をつたえてしまうからである。「意味」さえつたわれば、ほとんど用事がすんでしまうからである。だから「意味」を「思想」と勘違いするということも起きるのである。
 しかし、ことばは「意味」ではないし、「思想」も「意味」ではない。それは、同じ台本で演じられる芝居や漫才が、演じる役者、芸人によってまったく違って聞こえることを考えればわかる。私たちは芝居や演芸を「意味」を知るために見たり聞いたりするのではない。「意味」ではなく、そのことばを動かすときの肉体、その間合いのなかに、「人間」を感じるために、芝居や演芸を見たり聞いたりするのだ。「人間」の、そのことばのなかにある「間」(間合い)を呼吸するために、芝居を見たり、聞いたりする。
 そこにあるのは「聞く」ことをとおして感じる喜びである。竹内の書いていることばを借りて言えば「たのしさ」である。
 4連目の「いかにも」ということばのゆったりした響きがおかしい。「しみじみ、理解する仕儀となった」の「しみじみ」のあとのひと呼吸、「仕儀」という変な(?)かしこまった(?)ことばの出てくる瞬間の呼吸、間合いも、おっ、竹内というのはこんな人間なのか(どんな人間?、といわれそうだが、「こんな」としか言いようがない)と感じる。それを感じる喜びがある。
 そして、竹内は「こんな」人間なんだ、こういう呼吸、こういう間合いを生きる人間なんだとわかり、その呼吸、その間合いに自分自身の「肉体」を重ねてみるとき、(竹内のことばを追いかけて、その呼吸をまねしてみるとき)、

風いろになった木々に吸いこまれて

 あ、美しいなあ。「風いろになった木々に吸いこまれて」と竹内は書くのだけれど、吸い込まれながら(吸い込まれることをとおして、はじめて)、さっぱりした木々を吸い込んで、自分自身が風になったような気持ちになる。竹内は「風いろになった木々に吸いこまれて」と書いているのに、そう書いていることが理解できるのに、逆に、世界を吸い込んでいるような感覚になる。
 竹内の書いていることを「誤読」してしまう。

 こういう不思議な「誤読」へと誘ってくれることばが、私にとっては、詩である。


翰―竹内敏喜詩集
竹内 敏喜
彼方社



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誰も書かなかった西脇順三郎(199 )

2011-03-23 11:39:58 | 誰も書かなかった西脇順三郎
 『禮記』のつづき。「野原の夢」のつづき。
 「連結」は、次のようになる。

ああ苦しみのケヤキの
クヌギのトゲトゲの葉の
カミングズのリス
エリオットの暗闇の荒地を
エラズのイタリの門を
くぐるダンテのフロレンスの
地獄のパンの笛の
ヘナヘナヘナヘナの音の

 カミングズ、エリオット、ダンテ--そのことば(名前)が呼び覚ますものはさまざまにあるが、それを「意味」にしても無意味である。西脇は「意味」を正確に書こうとはしていない。西脇は「意味」を「連結」しようとはしていない。「意味」を無視して、音を「連結」しようとしている。イタリ→ダンテ→フロレンス→地獄、とことばが動けば「神曲」という「意味」が浮かぶけれど、そういうものを西脇は否定する。「ヘナヘナヘナヘナの音の」という無意味が、「神曲」という「意味」を笑い飛ばす。「意味」は、「意味」をほしがる人間が(読者が)かってにつけくわえればいい。しかし、西脇は「意味」を必要としていないのだ。

 では、なぜ西脇は、イタリ→ダンテ→フロレンス→地獄とことばを動かしたのか。
 あ、これが問題だねえ。
 これから私が書くことは、ほんとうに私が書きたいことなのだが、どれだけ書いてもきちんと説明できないことがらである。
 ひとはことばを選ぶ。そのとき、なぜ、そのことばを選ぶのか。音のなかにある何かにひかれるのである。音は(声は)、人間の本能のとても深いところと関係している。
 机の上に林檎があるとする。それを絵に描けば、何国人であろうと林檎の絵になる。赤い(ときには青いけれど)、丸い形、イタロ・カルビーノの表現をかりればアルファベットのQの形になる。けれど、それをことばにすると、林檎になったり、アップルになったりする。絵だと似通ったものになるのに、ことば(音)にするとずいぶん違ったものになる。なぜ? 人間がひとりの(一匹の)猿から出発したとして、絵を描くときにはそんなに差がないのに、ことばにするとさまざまに分かれてしまったのはなぜ? 音の方が、音の力の方が人間の奥深いところを揺さぶるのだ。視覚よりも、耳と口をとおして(ふたつの器官を融合させて)動かすものの方が、人間の奥底に影響するのだ。人間の感覚は、便宜上「五感」に分類されるけれど、どこかで融合している。そして、その融合、未分化のものの方が、本質、本能なのだ。
 ことば、声に比較すると、視覚的表現である「絵」は、はるかにあとから生まれてきた、一種の「嘘」なのである。「芸術」なのである。それに対して「音」は嘘ではない。つまり「芸術」以前なのだ。その「芸術以前」のところをことばがくぐるとき、人間は無意識にある音を選んでしまう。ある音を好んでしまう。そして、ことばは、いくつもの外国語に分かれていったのである。--というのは、私の大胆な仮説。
 そして、それと同じように、何かを書こうとするとき(これから書くことは、さっき書いたことと矛盾するのだけれど)、つまりなんらかの、まだ「意味」になっていない「意味」を書こうとするとき、西脇の耳は、カミングズだのエリオットだのエラズだのダンテだのの音のなかをさまようのである。(その名前ではなく、彼らの書いた音、つまりことばの運動をふくめてのことであるけれど。)音はいくつもに分裂しながら、まだ、ここに存在しない音をめざしている。それは、そして遠い遠い昔--西脇が生まれる以前に西脇が聞いた根源的な音なのである。
 いつでも西脇は「根源的な音」(音の根源)を探している。そこに、「人間」が存在するからだ。
 そして、西脇が「根源」というとき、そこには「男」ではなく「女」が登場する。すべての「人間」は女から生まれるからである--というのも、西脇の考えではなく、私の大胆な仮説かもしれない。西脇は、そう考えているというのは、私のかってな「誤読」かもしれないが……。

やがてミヨンの幽霊が出る
竹藪にすばらしい会話が
聞えてくる
今日もまた聞こえてくる
この栄華の悲しみに
今日の夕を過している
ああまたあの音が聞える
あの女の音が聞える

 「女の声」ではなく、「女の音」。それは、ことば以前の「音」、「肉体」を動いている何かのことである。視覚かもしれない。嗅覚かもしれない。触覚かもしれない。そうではなく、それらを統合して、何かになろうとする力、何かを、まるで子どもを産みだすように生み出そうとする蠢きかもしれない。





西脇順三郎と小千谷―折口信夫への序章
太田 昌孝
風媒社
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