浦歌無子「K」(「SEED」25、2011年03月05日発行)
浦歌無子「K」は地下鉄N駅から出発し、Kで下りるはずがDまできてしまった。逆戻りするが、今度はあっと言う間にNについてしまう。K駅がなくなっている--という不条理(?)を描いている。
どうなっているのだろう? 事情を隣のひとに聞こうとするが……。
ほんとうに駅がなくなったのか、それとも「記憶」から駅が消えてしまったのか、というのは一種の不条理である。そのことをどう受け止めるか。ここからが浦のことばの真骨頂である。もし駅が消えるとしたら、それはどこへ行ったのか。それはどんな影響を与えるのか。
ということばを手がかりにすれば、駅がどこへいったかはわからない。わかるのは浦が(と、とりあえず書き手を「主人公=主語」にしておく)、大切な闇をはぎ取られ、剥き出しになっているということである。
そして、その「闇」というのは「名前」「形」「色」「手触り」「匂い」と重なり合うものである。「名前」は、まあ、「意識」(頭)で記憶するものだが、形、色、手触り、匂いというのは肉体の器官、目、皮膚、鼻が覚えるものである。肉体で覚えるものだからこそ「全身の皮膚を覆うのにぴったり」ということばとも呼応するのである。
Kとは、つまり、浦にとって「肉体」そのものだったのである。「肉体」が記憶している、ことばそのものだったのである。浦は大げさに言えば浦を覆っている「肉体」を一個なくしてしまったのである。
そして、D駅に降りる。
この行は、奇妙にねじれているので、少しときほぐしたい。「ぴったりを全身に被せるくまなく密着させる」は意味的には(論理的には?)その前の行「なくなった駅ひとつぶんの闇は全身の皮膚を覆うのにぴったりだったから」につながる。改行があるために、なんとなくわかりにくいが、「なくなった駅ひとつぶんの闇は全身の皮膚を覆うのにぴったりだったから、(その)ぴったり(そのものの感じ)を全身に被せる(、そして全身に)くまなく密着させる、(はずだったのに、それができずに)D駅で降りる。」その結果、浦は全身を覆うものを失って、剥き出し、闇一枚分剥き出しになっている。
「ぴったりを全身に被せるくまなく密着させ」と「D駅で降りる」のあいだにはほんとうは断絶があり、論理構造からいうとつづけて書いてはいけないのだが、剥き出しになっているという感覚が、その断絶に入り込み、つないではいけないものをくっつけてしまうのである。ぺろりと皮膚がむけて、剥き出しになった筋肉についてはいけない汚れが直接はりつくような感じである。
剥き出しになってD駅に降りる--と書いたのは、そういう意味(私の読み方、誤読の仕方)である。
でも、それは浦だけのことではないのかもしれない。
それは浦だけのことではないかもしれないし、肉体的は変化を起こした浦だけにみえることかもしれない。詩だから、これはもう、どっちでもいい。いいかげんにしておいていい。
闇一枚をなくした肉体は、白いビニール袋と同じである。白いビニール袋には闇はない。だから白いビニール袋は比喩でもあるのだが、ことばが動き出すと現実にもなってしまう。なぜなら、ビニール袋のあとに出てくるモンシロチョウが白いビニール袋の比喩だからである。--ちょっとはしょりすぎたが、ことばが動いて行って、それが比喩を生み出し、生み出された比喩が現実となり、次の比喩を生み出す。そこからことばの運動が飛躍する--そういう運動が浦の特徴でもあるのだ。
先の、
という2行の、ことばの論理的な構造と、それとは別の見せ掛けの構造との「ズレ」も、その一種である。比喩を書いてしまうと比喩が現実になり、そこから別の比喩を生み出していくその加速度に押されて、つながってはいけない「ぴったりを全身に被せるくまなく密着させる」と「D駅で降りる」が密着してしまう。
この加速度を増す肉体の変化--あるいは現実をあくまでも肉体の変化としてことばにする浦の作品。その基本にあるのは、肉体をきちんとことばにするという浦の姿勢である。以前、浦は「骨」にこだわったとてもおもしろい詩を書いた。肉体にこだわり、こだわることでみえてくる肉体にさらにこだわっていく--そこからことばが独自に動き出す。浦はそういうことをやっていると思う。
*
ちょっと後半、いそぎすぎて書いたので(私は目が悪く、一回に書く時間、ワープロに向かう時間を40分程度と決めているので)、いろいろ書き漏らしたこともある。ことばのなかに、いつも肉体が深く生きている。それは、この詩の書き出しの1行からだけでもわかる。(ほんとうは、このことだけを書けばすっきりと浦に接近できたかもしれない。)
だれでもがつかう言い回しであるけれど、この行のなかの「片耳/聞こえなくなったイヤホン」はほんとうは、「片方が聞こえなくなったイヤホン」である。片方の耳が聞こえなくなったのではなく、耳はきちんと聞こえる。あくまでイヤホンが聞こえなくなったのだけれど、これも正確には「聞こえなくなった」ではなく「音を出せなくなった(音がでなくなった)」である。
イヤホンから音がでないということと、片耳が聞こえないということは別のことだけれど、「肉体」はそんなことを気にしないのである。片方のイヤホンから音が出ないなら、片耳が聞こえないと同じなのである。肉体は、現象的には別個なことを、肉体という現場で「ひとつ」にする。この現象を(あるいは世界を)肉体で「ひとつ」にするということに関して、浦は敏感な感覚でことばにしていくのだ。
「肉体」でしかつかみとれない「ひとつ」。それを言語で再現する。しかも、それをある瞬間の状態ではなく、運動として動かしていく。
浦歌無子「K」は地下鉄N駅から出発し、Kで下りるはずがDまできてしまった。逆戻りするが、今度はあっと言う間にNについてしまう。K駅がなくなっている--という不条理(?)を描いている。
どうなっているのだろう? 事情を隣のひとに聞こうとするが……。
Kの名前が出てこないかたちにならない
口を開けたまま息苦しくなって激しく咳き込むガタンゴトンと電車は走り続ける
ない
降りる駅がない
名前も忘れた形も色も手触りも匂いももう忘れた
なくなった駅ひとつぶんの闇は全身の皮膚を覆うのにぴったりだったから
ぴったりを全身に被せるくまなく密着させるD駅で降りる
D
どこに行く?
ほんとうに駅がなくなったのか、それとも「記憶」から駅が消えてしまったのか、というのは一種の不条理である。そのことをどう受け止めるか。ここからが浦のことばの真骨頂である。もし駅が消えるとしたら、それはどこへ行ったのか。それはどんな影響を与えるのか。
なくなった駅ひとつぶんの闇は全身の皮膚を覆うのにぴったりだったから
ということばを手がかりにすれば、駅がどこへいったかはわからない。わかるのは浦が(と、とりあえず書き手を「主人公=主語」にしておく)、大切な闇をはぎ取られ、剥き出しになっているということである。
そして、その「闇」というのは「名前」「形」「色」「手触り」「匂い」と重なり合うものである。「名前」は、まあ、「意識」(頭)で記憶するものだが、形、色、手触り、匂いというのは肉体の器官、目、皮膚、鼻が覚えるものである。肉体で覚えるものだからこそ「全身の皮膚を覆うのにぴったり」ということばとも呼応するのである。
Kとは、つまり、浦にとって「肉体」そのものだったのである。「肉体」が記憶している、ことばそのものだったのである。浦は大げさに言えば浦を覆っている「肉体」を一個なくしてしまったのである。
そして、D駅に降りる。
ぴったりを全身に被せるくまなく密着させるD駅で降りる
この行は、奇妙にねじれているので、少しときほぐしたい。「ぴったりを全身に被せるくまなく密着させる」は意味的には(論理的には?)その前の行「なくなった駅ひとつぶんの闇は全身の皮膚を覆うのにぴったりだったから」につながる。改行があるために、なんとなくわかりにくいが、「なくなった駅ひとつぶんの闇は全身の皮膚を覆うのにぴったりだったから、(その)ぴったり(そのものの感じ)を全身に被せる(、そして全身に)くまなく密着させる、(はずだったのに、それができずに)D駅で降りる。」その結果、浦は全身を覆うものを失って、剥き出し、闇一枚分剥き出しになっている。
「ぴったりを全身に被せるくまなく密着させ」と「D駅で降りる」のあいだにはほんとうは断絶があり、論理構造からいうとつづけて書いてはいけないのだが、剥き出しになっているという感覚が、その断絶に入り込み、つないではいけないものをくっつけてしまうのである。ぺろりと皮膚がむけて、剥き出しになった筋肉についてはいけない汚れが直接はりつくような感じである。
剥き出しになってD駅に降りる--と書いたのは、そういう意味(私の読み方、誤読の仕方)である。
でも、それは浦だけのことではないのかもしれない。
こっちの耳さっきから聞こえない方のイヤホンからパサパサ音が聞こえるんだ
ホームにいる人と同じ数だけの白いビニール袋が
いっせいに舞い上がりモンシロチョウのようにひらひら羽ばたいている
「 」
一頭の白いビニール袋に導かれてふらふらと歩き出す
それは浦だけのことではないかもしれないし、肉体的は変化を起こした浦だけにみえることかもしれない。詩だから、これはもう、どっちでもいい。いいかげんにしておいていい。
闇一枚をなくした肉体は、白いビニール袋と同じである。白いビニール袋には闇はない。だから白いビニール袋は比喩でもあるのだが、ことばが動き出すと現実にもなってしまう。なぜなら、ビニール袋のあとに出てくるモンシロチョウが白いビニール袋の比喩だからである。--ちょっとはしょりすぎたが、ことばが動いて行って、それが比喩を生み出し、生み出された比喩が現実となり、次の比喩を生み出す。そこからことばの運動が飛躍する--そういう運動が浦の特徴でもあるのだ。
先の、
なくなった駅ひとつぶんの闇は全身の皮膚を覆うのにぴったりだったから
ぴったりを全身に被せるくまなく密着させるD駅で降りる
という2行の、ことばの論理的な構造と、それとは別の見せ掛けの構造との「ズレ」も、その一種である。比喩を書いてしまうと比喩が現実になり、そこから別の比喩を生み出していくその加速度に押されて、つながってはいけない「ぴったりを全身に被せるくまなく密着させる」と「D駅で降りる」が密着してしまう。
この加速度を増す肉体の変化--あるいは現実をあくまでも肉体の変化としてことばにする浦の作品。その基本にあるのは、肉体をきちんとことばにするという浦の姿勢である。以前、浦は「骨」にこだわったとてもおもしろい詩を書いた。肉体にこだわり、こだわることでみえてくる肉体にさらにこだわっていく--そこからことばが独自に動き出す。浦はそういうことをやっていると思う。
*
ちょっと後半、いそぎすぎて書いたので(私は目が悪く、一回に書く時間、ワープロに向かう時間を40分程度と決めているので)、いろいろ書き漏らしたこともある。ことばのなかに、いつも肉体が深く生きている。それは、この詩の書き出しの1行からだけでもわかる。(ほんとうは、このことだけを書けばすっきりと浦に接近できたかもしれない。)
絡んだコードを無理にいつも引っぱるから片耳聞こえなくなったイヤホンで
だれでもがつかう言い回しであるけれど、この行のなかの「片耳/聞こえなくなったイヤホン」はほんとうは、「片方が聞こえなくなったイヤホン」である。片方の耳が聞こえなくなったのではなく、耳はきちんと聞こえる。あくまでイヤホンが聞こえなくなったのだけれど、これも正確には「聞こえなくなった」ではなく「音を出せなくなった(音がでなくなった)」である。
イヤホンから音がでないということと、片耳が聞こえないということは別のことだけれど、「肉体」はそんなことを気にしないのである。片方のイヤホンから音が出ないなら、片耳が聞こえないと同じなのである。肉体は、現象的には別個なことを、肉体という現場で「ひとつ」にする。この現象を(あるいは世界を)肉体で「ひとつ」にするということに関して、浦は敏感な感覚でことばにしていくのだ。
「肉体」でしかつかみとれない「ひとつ」。それを言語で再現する。しかも、それをある瞬間の状態ではなく、運動として動かしていく。
![]() | 詩集 耳のなかの湖 |
クリエーター情報なし | |
ふらんす堂 |