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詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

浦歌無子「K」

2011-03-12 23:59:59 | 詩(雑誌・同人誌)
浦歌無子「K」(「SEED」25、2011年03月05日発行)

 浦歌無子「K」は地下鉄N駅から出発し、Kで下りるはずがDまできてしまった。逆戻りするが、今度はあっと言う間にNについてしまう。K駅がなくなっている--という不条理(?)を描いている。
 どうなっているのだろう? 事情を隣のひとに聞こうとするが……。

Kの名前が出てこないかたちにならない
口を開けたまま息苦しくなって激しく咳き込むガタンゴトンと電車は走り続ける
ない
降りる駅がない
名前も忘れた形も色も手触りも匂いももう忘れた
なくなった駅ひとつぶんの闇は全身の皮膚を覆うのにぴったりだったから
ぴったりを全身に被せるくまなく密着させるD駅で降りる

どこに行く?

 ほんとうに駅がなくなったのか、それとも「記憶」から駅が消えてしまったのか、というのは一種の不条理である。そのことをどう受け止めるか。ここからが浦のことばの真骨頂である。もし駅が消えるとしたら、それはどこへ行ったのか。それはどんな影響を与えるのか。

なくなった駅ひとつぶんの闇は全身の皮膚を覆うのにぴったりだったから

 ということばを手がかりにすれば、駅がどこへいったかはわからない。わかるのは浦が(と、とりあえず書き手を「主人公=主語」にしておく)、大切な闇をはぎ取られ、剥き出しになっているということである。
 そして、その「闇」というのは「名前」「形」「色」「手触り」「匂い」と重なり合うものである。「名前」は、まあ、「意識」(頭)で記憶するものだが、形、色、手触り、匂いというのは肉体の器官、目、皮膚、鼻が覚えるものである。肉体で覚えるものだからこそ「全身の皮膚を覆うのにぴったり」ということばとも呼応するのである。
 Kとは、つまり、浦にとって「肉体」そのものだったのである。「肉体」が記憶している、ことばそのものだったのである。浦は大げさに言えば浦を覆っている「肉体」を一個なくしてしまったのである。
 そして、D駅に降りる。

ぴったりを全身に被せるくまなく密着させるD駅で降りる

 この行は、奇妙にねじれているので、少しときほぐしたい。「ぴったりを全身に被せるくまなく密着させる」は意味的には(論理的には?)その前の行「なくなった駅ひとつぶんの闇は全身の皮膚を覆うのにぴったりだったから」につながる。改行があるために、なんとなくわかりにくいが、「なくなった駅ひとつぶんの闇は全身の皮膚を覆うのにぴったりだったから、(その)ぴったり(そのものの感じ)を全身に被せる(、そして全身に)くまなく密着させる、(はずだったのに、それができずに)D駅で降りる。」その結果、浦は全身を覆うものを失って、剥き出し、闇一枚分剥き出しになっている。
 「ぴったりを全身に被せるくまなく密着させ」と「D駅で降りる」のあいだにはほんとうは断絶があり、論理構造からいうとつづけて書いてはいけないのだが、剥き出しになっているという感覚が、その断絶に入り込み、つないではいけないものをくっつけてしまうのである。ぺろりと皮膚がむけて、剥き出しになった筋肉についてはいけない汚れが直接はりつくような感じである。
 剥き出しになってD駅に降りる--と書いたのは、そういう意味(私の読み方、誤読の仕方)である。
 でも、それは浦だけのことではないのかもしれない。

こっちの耳さっきから聞こえない方のイヤホンからパサパサ音が聞こえるんだ
ホームにいる人と同じ数だけの白いビニール袋が
いっせいに舞い上がりモンシロチョウのようにひらひら羽ばたいている
「   」
一頭の白いビニール袋に導かれてふらふらと歩き出す

 それは浦だけのことではないかもしれないし、肉体的は変化を起こした浦だけにみえることかもしれない。詩だから、これはもう、どっちでもいい。いいかげんにしておいていい。
 闇一枚をなくした肉体は、白いビニール袋と同じである。白いビニール袋には闇はない。だから白いビニール袋は比喩でもあるのだが、ことばが動き出すと現実にもなってしまう。なぜなら、ビニール袋のあとに出てくるモンシロチョウが白いビニール袋の比喩だからである。--ちょっとはしょりすぎたが、ことばが動いて行って、それが比喩を生み出し、生み出された比喩が現実となり、次の比喩を生み出す。そこからことばの運動が飛躍する--そういう運動が浦の特徴でもあるのだ。
 先の、

なくなった駅ひとつぶんの闇は全身の皮膚を覆うのにぴったりだったから
ぴったりを全身に被せるくまなく密着させるD駅で降りる

 という2行の、ことばの論理的な構造と、それとは別の見せ掛けの構造との「ズレ」も、その一種である。比喩を書いてしまうと比喩が現実になり、そこから別の比喩を生み出していくその加速度に押されて、つながってはいけない「ぴったりを全身に被せるくまなく密着させる」と「D駅で降りる」が密着してしまう。
 この加速度を増す肉体の変化--あるいは現実をあくまでも肉体の変化としてことばにする浦の作品。その基本にあるのは、肉体をきちんとことばにするという浦の姿勢である。以前、浦は「骨」にこだわったとてもおもしろい詩を書いた。肉体にこだわり、こだわることでみえてくる肉体にさらにこだわっていく--そこからことばが独自に動き出す。浦はそういうことをやっていると思う。



 ちょっと後半、いそぎすぎて書いたので(私は目が悪く、一回に書く時間、ワープロに向かう時間を40分程度と決めているので)、いろいろ書き漏らしたこともある。ことばのなかに、いつも肉体が深く生きている。それは、この詩の書き出しの1行からだけでもわかる。(ほんとうは、このことだけを書けばすっきりと浦に接近できたかもしれない。)

絡んだコードを無理にいつも引っぱるから片耳聞こえなくなったイヤホンで

 だれでもがつかう言い回しであるけれど、この行のなかの「片耳/聞こえなくなったイヤホン」はほんとうは、「片方が聞こえなくなったイヤホン」である。片方の耳が聞こえなくなったのではなく、耳はきちんと聞こえる。あくまでイヤホンが聞こえなくなったのだけれど、これも正確には「聞こえなくなった」ではなく「音を出せなくなった(音がでなくなった)」である。
 イヤホンから音がでないということと、片耳が聞こえないということは別のことだけれど、「肉体」はそんなことを気にしないのである。片方のイヤホンから音が出ないなら、片耳が聞こえないと同じなのである。肉体は、現象的には別個なことを、肉体という現場で「ひとつ」にする。この現象を(あるいは世界を)肉体で「ひとつ」にするということに関して、浦は敏感な感覚でことばにしていくのだ。
 「肉体」でしかつかみとれない「ひとつ」。それを言語で再現する。しかも、それをある瞬間の状態ではなく、運動として動かしていく。


詩集 耳のなかの湖
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フロリアン・ヘンケル・フォン・ドナースマルク監督「ツーリスト」(★★)

2011-03-12 00:38:06 | 映画
監督 フロリアン・ヘンケル・フォン・ドナースマルク 出演 アンジェリーナ・ジョリー、ジョニー・デップ

 大どんでん返しのストーリーである。こういうどんでん返しは小説なら有効かもしれないが、映画では興醒めしてしまう。小説と映画の一番の違いは、そこに「肉体」があるかどうかである。小説では「肉体」は見えない。描写があるにはあるのだが、それは想像力を働かせないと見えて来ない肉体である。ところが映画では、そこに役者の肉体がある。どんな説明も抜きにして、肉体が何事かを語る。語ってしまう。そして、その肉体が語ったことがらをとおして観客はストーリーに接近していく。だから、よっぽど巧妙にストーリーを展開し、役者が肉体で語ってしまうことを防がなければならない。肉体はそこにあるが、その肉体は何も語らない--「役」ではなく、俳優の人生そのものを見せるという具合でないと、どんでん返しは「嘘」になる。
 この映画で、そういう問題点を指摘すると……。
 最初の方、ジョニー・デップが殺し屋に襲われる。このときのジョニー・デップは単純にツーリストの顔をしている。肉体は何がなんだかわからない状況に追い込まれてあたふたするツーリストを演じている。観客は、そんなふうにしてジョニー・デップを見る。
 これは、この段階ではそれでいいのだが、大どんでん返しから振り返ると変だよ。
 ジョニー・デップは殺し屋がどんなものかを知っている。どんなふうに逃げなければならないかを知っている。それがホテルのフロントに助けを求める? ホテルから屋根づたいに逃げる? いや、逃げてもいいのだけれど、そのときの表情はツーリストでいいわけ? 変だよねえ。そこでツーリストを演じる必要がどこにある? むしろ、ツーリストの仮面を脱ぎ捨てて必死で逃げる必要がある。必死で逃げてしまうのが「現実」というものだろう。でも、そんなときもジョニー・デップの肉体(顔やからだの動かし方)はツーリストでありつづける。こんなふうに、観客をだましてはいけない。
 ジョニー・デップがイタリアの警察につかまり、そこでツーリストを演じるのはいい。そこにはジョニー・デップをみつめる相手がいるからである。ツーリストであると嘘をつき、警察に守ってもらわなければならない理由がある。
 でも、ホテルから屋根づたいで逃げるときは、これとはまったく違う。殺し屋に対してツーリストを演じる必要はない。
 敵をだます。あるいは味方であるはずのアンジェリーナ・ジョリーをだますというのはわかる。ストーリーとして必要だからである。けれど観客をだましてはいけない。その点をこの映画は踏み外している。「伏線」というものが、ない。「伏線」であるべき部分が観客をだますためだけにつかわれている。こういう映画は嫌いだなあ。
 エドワート・ノートン、リチャード・ギアが主演の「真実の行方」という作品がある。この映画も大どんでん返しなのだが、最後の、ほんのちょっとだけ手前で、エドワート・ノートンが絶妙の演技を見せる。それまでエドワート・ノートンは吃っているのだが、一回だけ吃らない。「あ、いま、吃らなかった」と観客にわからせる。それが大どんでん返しにつながっていく。肉体できちんと大どんでん返しの伏線を(あるいは補助線を)描いている。
 そういう映像が、「ツーリスト」にはない。いや、最後の方の手錠をピンで外してしまうところに伏線が--と言えるかもしれないけれど、でも、それはアンジェリーナ・ジョリーが教えた方法である。もちろん教えられたことを完璧にこなせるのはそういう素質があるからだ、と強引にいうことはできるが、これではおもしろくない。
 あのホテルからの逃走劇のシーンでは、最初は別人の顔(肉体)で逃走し、アンジェリーナ・ジョリーに目撃されているとわかって、そこからもう一度ツーリストに戻る演技をしないといけない。これはジョニー・デップの問題かもしれないが、それ以上に演出、監督の責任だなあ。ホテルからの逃走劇に「ほんとうの顔」と「ツーリスト」をつかいわける演技を要求し、それを映像にするというのは無理。あそこで観客をだましてしまったことが、この映画の大失敗である。
 とても「善き人のためのソナタ」の監督の作品とは思えない。
                         (03月11日、福岡天神東宝)



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