詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

コーエン兄弟監督「バーン・アフター・リーディング」(★★★★)

2009-05-05 23:09:00 | 映画
監督 コーエン兄弟 出演 ブラッド・ピット、ジョージ・クルーニー、ジョン・マルコヴィッチ、フランシス・マクドーマンド、ティルダ・スウィントン

 あれっ、ブラッド・ピットがコーエン兄弟の映画に? 大丈夫かなあ。と、不安を抱えてみていると、最初に殺される。あ、これで安心して見ていられる--と、ふと思ってしまう。ブラッド・ピットのファンには申し訳ないが、そういう映画である。ストーリーはあるにはあるが、どうでもいい。「勘違い」が次々に重なり、「事件」が進んで行くのだが、その「勘違い」の重なり合い具合がおかしい。
 ブラッド・ピットが最初に死んで安心した--と書いたが、まあ、それは書き出しの「方便」。どう書き出していいかわからないので、ついつい書いてしまったこと。
 実は、ブラッド・ピットがなかなかいい。
 何の勝算(?)もなくて、ただ、これはおもしろそうと思って、偶然手にいれたCIAの職員が記録したデータをもとに恐喝をこころみる役なのだが、世の中のことを何もわかっていないという感じが、目にとてもよくでている。
 他人を見るときの視線が、他人の「思惑」のなかまで入っていかない。このひとはこういう行動をしているけれど、ほんとうは何を考えているのだろう--というようなことはまったく考えない。感じない。相手の「表面」に触れるだけなのだ。
 カメラは、その視線、視線の力をとてもよく伝えている。
 ブラッド・ピットにかぎらず、この映画では、みな「視線」で演技する。それをカメラは的確にとらえる。ある意味では「視線」の映画なのである。
 たとえばジョージ・クルーニーの大きな目は、他人をぐいと自分の視界のなかに引き入れる。フランシス・マクドーマンド相手に、大人のおもちゃ(?)の椅子を紹介して、「すごいだろう、手作りなんだぞ」と自慢する時の目は傑作である。目のなかに入ってくる人間(女)を拒まない、という「枠なし(?)」の目である。その一方で、「枠」が広すぎて、目に入ってきたものをも、網目から取りこぼすように、見逃してしまう。妻が浮気していることに気がつかないし、間違って殺してしまったブラッド・ピットのことをジョン・マルコヴィッチと思いつづけてもいる。不都合なこと(?)は目の枠からこぼしてしまう。適度な大きさの目を維持することが、ジョージ・クルーニーにはできないのである。
 そのジョージ・クルーニーの不倫相手、ティルダ・スウィントンはジョージ・クルーニーと正反対の目付きをする。相手をみつめながらも、相手が自分のなかへ入ってくることに対しては警戒する。常に相手の本心をさぐる。ジョージ・クルーニーと不倫を重ねながら、この男はほんとうは何を考えているのか、じーっとみつめるのだが、そのとき、ジョージ・クルーニーの視線がティルダ・スウィントンの内部へ入ってくることは、冷たく拒絶している。目は心の窓というが、ティルダ・スウィントンは自分の窓は閉ざして、相手の窓は覗き見るのである。レストランで食事をしたあと、ジョージ・クルーニーと別れるときのシーンや、弁護士に離婚の相談をするシーンの、弁護士のことばを聴きながら、頭の中でそのいみするところを反芻する目付きにも、それがとてもよくでている。
 目のドラマ(?)のクライマックスは、公園でジョージ・クルーニーのうろたえるシーン。ジョージー・クルーニーは、自分が監視されている(追われている)と勘違いする。ここでも、ジョージ・クールニーの「枠なし」というか「底無し」に大きな目は、見るものすべてを「自分を監視している・追っている」と受け止めてしまう。
 このときの、ジョージ・クルーニーの視線、それとぶつかる「監視舎」の、カメラのすばやい切り替えが、この映画は「視線」の映画だということをはっきり浮かび上がらせる。
 そして、この裏返しが、CIAの幹部たち。彼らの視線。彼らは人間を直接見ない。事件を直接見ない。文字(リポート)にして、そのことばの動きを見る。人間をことばにして見てしまう。直接、自分の目で見ないがゆえに、そこに起きたことをすべて「見なかったこと」にしてしまって平気である。つまり、「事件」を葬り去って、まったく、心を痛めることがない。

 自分の目で見る人間は心を痛めるが、自分の目で見なければ、心なんか痛まない。

 などということを言ってしまうと、なんだかこの映画は哲学的・倫理的なものに落ちてしまいそうだけれど。まあ、しかし、そう思ってしまった。


ファーゴ [DVD]

20世紀フォックス・ホーム・エンターテイメント・ジャパン

このアイテムの詳細を見る

コーエン・ブラザーズ コレクション [DVD]

20世紀フォックス・ホーム・エンターテイメント・ジャパン

このアイテムの詳細を見る
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

渡邉浩史「路上」

2009-05-05 16:44:59 | 詩(雑誌・同人誌)
渡邉浩史「路上」(「イリプスⅡnd」3、2009年04月20日発行)

 渡邉浩史「路上」にとまどってしまった。書き出しの2行。

都会の路上には 狂死した人々の「憧憬」と「悲哀」とが混在する。
だから 街は常に「不安」であるし 少年の心もそれを直感し「不安」になる。

 おびただしいカギ括弧は何なのだろうか。なぜカギ括弧つきで「憧憬」「悲哀」「不安」と書かなければいけないのか。カギ括弧にくくることで何をあらわしたいのか、私にはわからない。
 街の不安を直感し、少年が不安になる。少年の「心」が直感すると、わざわざ「心」と書くことで、少年を「心」の世界に限定しておいて、それでもなおかつ「憧憬」「悲哀」「不安」とカギ括弧でくるる理由がわからないのである。
 この書き方は、詩のクライマックスにもあらわれる。

--突然 少年の瞳の奥を 轢死した少女が駆け抜けていった。
少年は瞳に涙をためながら 少女の「嘆き」を全身で受け止めた。
それは 少年が「生」の内側に感じる「死」と対峙した瞬間であった。
少女の「死」は 少年の裏側で解体され そして新しい「生」になって復元される。
降り注ぐ穢れなき雨のカタルシスによって……。

 どんな文体をくぐりぬけてきたのかわからないが、渡邉の文体はゆるぎがない。そのゆるぎのない文体で追いかけたい何かがあるのは感じられる。けれど、そのとのの肝心のことばがカギ括弧に入っているのでは、読んでいる方としては困ってしまう。
 それとも、この困惑は私だけ?
 他の人の書く「憧憬」「悲哀」「不安」「嘆き」「生」「死」と渡邉のそれは、どこがどう違う?
 もし、その違いを書きたいのなら、単にカギ括弧でくくるのではなく、違いがどこにあるかをていねいに書いてもらいたい。
 あるいは、カギ括弧が強調の意味合いしかもたないのだとしたら、その数が多すぎて、何を強調したいのか、わからない。

 カギ括弧をすべて消し去った方が、文体の繊細さが伝わるのではないかと思った。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

『田村隆一全詩集』を読む(75)

2009-05-05 01:03:10 | 田村隆一

 「主語」という作品は、いくつもの断章で構成されている。そのなかの「言葉」。

文字で読むものではない
耳で触れるものだ

 この2行が、私は好きである。私は黙読しかしない。音読・朗読はしない。けれども、「耳で触れる」。耳で受け止めることのできないことばは、私には理解できない。「耳」は「声」を聞く。書かれたことば、文字には、もちろん「声」はないが、その文字のむこうから「声」を感じる。「耳」で触れるとは、そういうことだ。視覚(読む)が視覚を逸脱する、超越する、そして耳・聴覚は、聴覚を逸脱して、触覚にさえなる。
 これに類似したことが「夜よ ゆるやかに歩め」にも書かれている。

近代の人間くらい哀れな存在はない
科学的不可逆性の世界に生きる人間という生物は五感を奪われ
明日になれば死滅する言葉と
一握りの灰で造られた動く標的

 「五感を奪われ」というのは、それぞれの感覚のことではない。「五感」として「ひとつ」の感覚のことだ。視覚、聴覚、触覚、嗅覚、味覚。それは、「ひとつ」である。「肉体」のなかで融合している。互いに越境し合っている。絵をながら感じる音楽がある、音楽を聴きながら感じる手触りがある、匂いのなかに味覚がある。そういうことは誰もが体験する。けれど「科学」はそれを分断し、それぞれを独立させてしまった。
 そのために、ことばは「生物」(生きている存在)から切り離され、つまり「いのち」を失い「死滅」するしかなくなってしまった。
 田村は、そういう「死滅」を強いるものと闘っている。ことばで。ことばに「五感」を取り戻すために。感覚が融合した、あいまいなもの、矛盾したものにするために。

 「ぼくは歩いている」の感想を書こうとして、ふいに、その前に書きたくなったことがある。それが、いま、書いたことだ。「ひとつ」と「五感」の関係。ことばと「五感」と「ひとつ」ということと、「孤独」というものを結びつけたいのだ。私は。

北へ北へむかって歩いているうちに
やっと
「孤独」の意味がわかってきた
「孤独」とは「歓び」
人手をかりて生きてきたくせに
北海の
大西洋の
湖の
光と香りとが

その微風と牧草の色彩の変化が
教えてくれたのさ

ぼくは歩いている
ジェット旅客機
皮靴
ネクタイ
みんな嫌い 大嫌い

拘束されないために
歩いている できるなら
裸足で歩きたい 小さな花 小さな星

 「拘束されないために/歩いている」。そこに「孤独」と「歓び」の融合がある。「拘束」とは、「視覚は視覚」「聴覚は聴覚」というような「分類」のことだ。そういう分類のなかに「歓び」はない。「歓び」は「五感」そのものになること。「五感の融合体」になること。「五感」そのものとして「ひとつ」、つまり「孤独」。そのとき、「歓び」があふれてくる。
 田村は、イギリスで知った「微風と牧草と色彩の変化」そのものについては具体的には書いていないが、その「変化」のなかに「孤独」を鍛える何かを感じている。
 この「孤独」は「礼節」とも通い合う。「灰色のノート」の「3」の部分に、次の行がある。

野の花を見よ
といったって年という高層ビルが林立する廃墟には
野はない
野がなければ野辺送りもできないじゃないか
礼節が失われたゆえんである
礼節とは自然を敬愛することではない

 「自然」のなかで、人間は「孤独」になる。「人手をかりて」生きることをやめる。「視覚は視覚」「聴覚は聴覚」というような「近代的分類」を捨て去って「五感」にもどる。引き戻される。「孤独」へと生まれ変わる。その瞬間、「五感」が復活し、「歓び」があふれる。


Do it!―革命のシナリオ (1971年)
田村 隆一,金坂 健二,ジェリー・ルービン
都市出版社

このアイテムの詳細を見る
コメント (1)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする