江夏名枝「ここに在ることを理解することができないのは、/あまりにも誘惑を強く感じすぎるためなのだろうか」(「イリプスⅡnd」3、2009年04月20日発行)
江夏名枝「ここに在ることを理解することができないのは、/あまりにも誘惑を強く感じすぎるためなのだろうか」は不思議な印象がある。不思議に感じるのは、江夏のを詩をはじめて読んだためなのか、つまり、私が江夏のことばの動きになれていないために、そう感じるのか、それともほんとうに不思議なのか、実はよく分からないのだが……。
書き出しの2行のことばの動きに、私は激しくこころを揺さぶられた。「言葉に奪われて」としか書いていないが、何を奪われたのか。タイトルに書いてあるから書くのではないが(実は長すぎるタイトルだったので、私はそれを無視して読みはじめた)、「いま」「ここにある」という私の実感を奪われていると感じたのだ。何か衝撃的な事件(たとえば交通事故の目撃、殺人の目撃)なら、「いま」「ここにある」ということを忘れてしまうかもしれない。けれど、江夏は、「いとすぎ」という「遠い言葉」に、「いま」「ここ」を奪われている。
何かが分かっているわけではない。(江夏は、分かっている、というかもしれないけれど……。)「いま」「ここ」に密着したことばではなく、「遠い言葉」が「私」そのものを奪っていく。その奪われてしまった「私」を奪い返すためにさらに「遠い言葉」を求める。求め続ける。
私が感じていることは、江夏の書きたいこととは違うかもしれない。しかし、そういうことを承知で、私は「誤読」したい。詩は「ことば」であって、「事実」ではない。「ことば」であるかぎり、いったん書かれてしまえば、それはもう「作者」とは関係ないというのが私の読み方である。「作者」がどう書いたかなど、私は気にしたことがない。私はこんなふうに読みたい--ということを書くだけである。
「いま」「ここ」から「私」を奪っていく、いくつもの「ことば」。そのことばのなかをとおって、「いま」「ここ」から離れる。離れれば離れるほど、そのことが「いま」「ここ」を逆説的に語る。--矛盾。そのどうしようもない矛盾の中に、詩があると、私は感じる。
この2連目は、私には、江夏が自分のこころの中をまさぐっているように思える。感じられる。
「遠い言葉」に奪われていく「いま」「ここ」、そして「私」。そのとき、こころの中に動いている「記憶」。「記憶」ということばがあるから言うのではないが、「遠い言葉」に「いま」「ここ」「わたし」が奪われてはじめて、ひとは、自分とは何だったか、何を求めていたのか、考えはじめるのである。「巴旦杏」「モーツァルト」。それは実際の「巴旦杏」「モーツァルト」とは関係ない。それは単なる「音」だ。「音楽」だ。1連目にでてきたいくつものことばも「音」であり、「音楽」である。実在の「もの」ではない。「意味」ではない。
奇妙なたとえになるかもしれないが、抽象画の「色」である。つまり「無意味」である。そして、「無意味」であるからこそ、意味が--価値がある。「いま」「ここ」「わたし」を「意味」から引き剥がし、自由にする。
「遠いことば」。それは「自由」のそのものなのだ。「いま」「ここ」「私」と無関係であることによって、「私」そのものをきれいに洗い流す。その瞬間を、江夏は求めている。求め続けている。
3連目。
「名を呼びたいから、/名ではないすべてのものを教えてほしい」。この矛盾した語法というか、消去法というか、何かを求める求め方が、とても印象に残る。
好きな人を抱きしめる、強く抱きしめる--そのために、まず、好きな人を遠くへ突き放す、あるいは好きな人から遠く離れてみる。そういう矛盾。あ、江夏は、ことばに恋しているのだ、と思う。ことばへの恋--そこから、確かに詩ははじまると思う。
江夏が書こうとしていることは(書いたことは)、私の感想とはまったく無関係なことかもしれない。私の感想は完全な誤読かもしれない。それならそれで、私はかまわない。私は、江夏の詩に、ことばそのものへの恋を感じた。ことばがとても好きな詩人だと感じた。
ことばが好きな人--それは信じるに足る人である。詩人である。
江夏名枝「ここに在ることを理解することができないのは、/あまりにも誘惑を強く感じすぎるためなのだろうか」は不思議な印象がある。不思議に感じるのは、江夏のを詩をはじめて読んだためなのか、つまり、私が江夏のことばの動きになれていないために、そう感じるのか、それともほんとうに不思議なのか、実はよく分からないのだが……。
たとえば「いとすぎ」と、遠い言葉に奪われて
求め、求め続けて、
キトラ・乖離・の動悸のかけら・白檀(サンダルウッド)
これは通過のための合言葉、
書き出しの2行のことばの動きに、私は激しくこころを揺さぶられた。「言葉に奪われて」としか書いていないが、何を奪われたのか。タイトルに書いてあるから書くのではないが(実は長すぎるタイトルだったので、私はそれを無視して読みはじめた)、「いま」「ここにある」という私の実感を奪われていると感じたのだ。何か衝撃的な事件(たとえば交通事故の目撃、殺人の目撃)なら、「いま」「ここにある」ということを忘れてしまうかもしれない。けれど、江夏は、「いとすぎ」という「遠い言葉」に、「いま」「ここ」を奪われている。
何かが分かっているわけではない。(江夏は、分かっている、というかもしれないけれど……。)「いま」「ここ」に密着したことばではなく、「遠い言葉」が「私」そのものを奪っていく。その奪われてしまった「私」を奪い返すためにさらに「遠い言葉」を求める。求め続ける。
私が感じていることは、江夏の書きたいこととは違うかもしれない。しかし、そういうことを承知で、私は「誤読」したい。詩は「ことば」であって、「事実」ではない。「ことば」であるかぎり、いったん書かれてしまえば、それはもう「作者」とは関係ないというのが私の読み方である。「作者」がどう書いたかなど、私は気にしたことがない。私はこんなふうに読みたい--ということを書くだけである。
「いま」「ここ」から「私」を奪っていく、いくつもの「ことば」。そのことばのなかをとおって、「いま」「ここ」から離れる。離れれば離れるほど、そのことが「いま」「ここ」を逆説的に語る。--矛盾。そのどうしようもない矛盾の中に、詩があると、私は感じる。
水の惑い、魂の原型
あらゆる出会いをかさねた、それは巴旦杏という名の樹だったのだと、
古い有人から聞いて知った
ふと目を逸らしたとき、
人称として成熟するはずのモーツァルト
睦みあう、そして求め、
この2連目は、私には、江夏が自分のこころの中をまさぐっているように思える。感じられる。
「遠い言葉」に奪われていく「いま」「ここ」、そして「私」。そのとき、こころの中に動いている「記憶」。「記憶」ということばがあるから言うのではないが、「遠い言葉」に「いま」「ここ」「わたし」が奪われてはじめて、ひとは、自分とは何だったか、何を求めていたのか、考えはじめるのである。「巴旦杏」「モーツァルト」。それは実際の「巴旦杏」「モーツァルト」とは関係ない。それは単なる「音」だ。「音楽」だ。1連目にでてきたいくつものことばも「音」であり、「音楽」である。実在の「もの」ではない。「意味」ではない。
奇妙なたとえになるかもしれないが、抽象画の「色」である。つまり「無意味」である。そして、「無意味」であるからこそ、意味が--価値がある。「いま」「ここ」「わたし」を「意味」から引き剥がし、自由にする。
「遠いことば」。それは「自由」のそのものなのだ。「いま」「ここ」「私」と無関係であることによって、「私」そのものをきれいに洗い流す。その瞬間を、江夏は求めている。求め続けている。
3連目。
名を呼びたいから、
名ではないすべてのものを教えてほしい
鮮やかに揺れるグラマラスな機械、
あやめもわかたぬ夜
ここに在ることを理解することができないのは、
あまりに誘惑を強く感じすぎるためなのだろうか
「名を呼びたいから、/名ではないすべてのものを教えてほしい」。この矛盾した語法というか、消去法というか、何かを求める求め方が、とても印象に残る。
好きな人を抱きしめる、強く抱きしめる--そのために、まず、好きな人を遠くへ突き放す、あるいは好きな人から遠く離れてみる。そういう矛盾。あ、江夏は、ことばに恋しているのだ、と思う。ことばへの恋--そこから、確かに詩ははじまると思う。
江夏が書こうとしていることは(書いたことは)、私の感想とはまったく無関係なことかもしれない。私の感想は完全な誤読かもしれない。それならそれで、私はかまわない。私は、江夏の詩に、ことばそのものへの恋を感じた。ことばがとても好きな詩人だと感じた。
ことばが好きな人--それは信じるに足る人である。詩人である。