goo blog サービス終了のお知らせ 
不適切な表現に該当する恐れがある内容を一部非表示にしています

詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

江夏名枝「ここに在ることを理解することができないのは、……」

2009-05-02 08:05:25 | 詩(雑誌・同人誌)
江夏名枝「ここに在ることを理解することができないのは、/あまりにも誘惑を強く感じすぎるためなのだろうか」(「イリプスⅡnd」3、2009年04月20日発行)

 江夏名枝「ここに在ることを理解することができないのは、/あまりにも誘惑を強く感じすぎるためなのだろうか」は不思議な印象がある。不思議に感じるのは、江夏のを詩をはじめて読んだためなのか、つまり、私が江夏のことばの動きになれていないために、そう感じるのか、それともほんとうに不思議なのか、実はよく分からないのだが……。

たとえば「いとすぎ」と、遠い言葉に奪われて
求め、求め続けて、
キトラ・乖離・の動悸のかけら・白檀(サンダルウッド)
これは通過のための合言葉、

 書き出しの2行のことばの動きに、私は激しくこころを揺さぶられた。「言葉に奪われて」としか書いていないが、何を奪われたのか。タイトルに書いてあるから書くのではないが(実は長すぎるタイトルだったので、私はそれを無視して読みはじめた)、「いま」「ここにある」という私の実感を奪われていると感じたのだ。何か衝撃的な事件(たとえば交通事故の目撃、殺人の目撃)なら、「いま」「ここにある」ということを忘れてしまうかもしれない。けれど、江夏は、「いとすぎ」という「遠い言葉」に、「いま」「ここ」を奪われている。
 何かが分かっているわけではない。(江夏は、分かっている、というかもしれないけれど……。)「いま」「ここ」に密着したことばではなく、「遠い言葉」が「私」そのものを奪っていく。その奪われてしまった「私」を奪い返すためにさらに「遠い言葉」を求める。求め続ける。
 私が感じていることは、江夏の書きたいこととは違うかもしれない。しかし、そういうことを承知で、私は「誤読」したい。詩は「ことば」であって、「事実」ではない。「ことば」であるかぎり、いったん書かれてしまえば、それはもう「作者」とは関係ないというのが私の読み方である。「作者」がどう書いたかなど、私は気にしたことがない。私はこんなふうに読みたい--ということを書くだけである。
 「いま」「ここ」から「私」を奪っていく、いくつもの「ことば」。そのことばのなかをとおって、「いま」「ここ」から離れる。離れれば離れるほど、そのことが「いま」「ここ」を逆説的に語る。--矛盾。そのどうしようもない矛盾の中に、詩があると、私は感じる。

水の惑い、魂の原型
あらゆる出会いをかさねた、それは巴旦杏という名の樹だったのだと、
古い有人から聞いて知った
ふと目を逸らしたとき、
人称として成熟するはずのモーツァルト
睦みあう、そして求め、

 この2連目は、私には、江夏が自分のこころの中をまさぐっているように思える。感じられる。
 「遠い言葉」に奪われていく「いま」「ここ」、そして「私」。そのとき、こころの中に動いている「記憶」。「記憶」ということばがあるから言うのではないが、「遠い言葉」に「いま」「ここ」「わたし」が奪われてはじめて、ひとは、自分とは何だったか、何を求めていたのか、考えはじめるのである。「巴旦杏」「モーツァルト」。それは実際の「巴旦杏」「モーツァルト」とは関係ない。それは単なる「音」だ。「音楽」だ。1連目にでてきたいくつものことばも「音」であり、「音楽」である。実在の「もの」ではない。「意味」ではない。
 奇妙なたとえになるかもしれないが、抽象画の「色」である。つまり「無意味」である。そして、「無意味」であるからこそ、意味が--価値がある。「いま」「ここ」「わたし」を「意味」から引き剥がし、自由にする。
 「遠いことば」。それは「自由」のそのものなのだ。「いま」「ここ」「私」と無関係であることによって、「私」そのものをきれいに洗い流す。その瞬間を、江夏は求めている。求め続けている。

 3連目。

名を呼びたいから、
名ではないすべてのものを教えてほしい
鮮やかに揺れるグラマラスな機械、
あやめもわかたぬ夜
ここに在ることを理解することができないのは、
あまりに誘惑を強く感じすぎるためなのだろうか

 「名を呼びたいから、/名ではないすべてのものを教えてほしい」。この矛盾した語法というか、消去法というか、何かを求める求め方が、とても印象に残る。
 好きな人を抱きしめる、強く抱きしめる--そのために、まず、好きな人を遠くへ突き放す、あるいは好きな人から遠く離れてみる。そういう矛盾。あ、江夏は、ことばに恋しているのだ、と思う。ことばへの恋--そこから、確かに詩ははじまると思う。

 江夏が書こうとしていることは(書いたことは)、私の感想とはまったく無関係なことかもしれない。私の感想は完全な誤読かもしれない。それならそれで、私はかまわない。私は、江夏の詩に、ことばそのものへの恋を感じた。ことばがとても好きな詩人だと感じた。
 ことばが好きな人--それは信じるに足る人である。詩人である。


コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

『田村隆一全詩集』を読む(72)

2009-05-02 02:08:34 | 田村隆一
 「ある」と「なる」。「ハミングバード」には「ある」も「なる」もつかわれていないが、この詩でも「ある」「なる」ということと存在の関係が書かれている。

小鳥の内部には 細長いクチバシの
小鳥が歌を歌っている

人間の内部には
人間がいない

 「内部」は「雪は汚れていた」の「彼女の中にある雪/ぼくの中にある雪」の「中にある」と同じである。小鳥の中には、細長いクチバシの小鳥がある(いる)。そしてその小鳥は歌を歌っている状態にある。小鳥の中にある(中にいる)小鳥が歌を歌うことで、外部もまた歌を歌う小鳥に「なる」のである。
 この「ある」と「なる」の関係は、田村にとっての、存在の理想形のようなものである。
 その小鳥と対比すると人間は奇妙である。「人間の内部には/人間がいない」。「人間」の内部には、人間のきまった形、「定型」というものがない。小鳥なら歌を歌うという定型があり、それが細長いクチバシという存在を通ることで「定型」になる。人間は、何に「なる」か、決まっていない。「動詞」が決まっていない。
 これは、逆に見れば、動詞の決め方次第で何にでも「なる」ことができるということを意味する。だからこそ、田村は、存在のありようがきまっているように生きている読者に対して、その「定型」を破壊し、いのちそのものに還元し、そこからの生成を(再生を)うながすように、ことばを書きつづける。

小鳥の内部には 細長いクチバシの
小鳥が歌を歌っている

人間の内部には
人間がいない

靱帯解剖図のように
赤と緑の細い川が流れ

欲望と恐怖が駈けめぐり
白昼の影だけが人間の形をしていて

花がひらく 空中に停止したまま
小鳥からぬけだしたハミングバードが

花の密をめがけて急降下
世界一ちいさな声 ちいさな羽根を

ふるわせて
人間の皮膚をかぶった人間はただ眺めているだけ

 最後の2行は、奇妙に歪んでいる。そして、その歪みの中に、田村の、夢、願いのようなものがある。
 「歪んでいる」と書いたのは、「ふるわせて」の主語は「ハミングバード」であることを指す。ほんらい、その直前の連にあってしかるべきものである。
 この詩は2行ずつ7連の構成になっていて、それは、小鳥、人間、人間、人間、ハミングバード、ハミングバードと描写してきている。最後だけ、ハミングバードと人間の両方が同居している。その同居は、しかも、ごく簡単に解消できるものである。つまり、

花の密をめがけて急降下
世界一ちいさな声 ちいさな羽根をふるわせて

人間の皮膚をかぶった人間は
ただ眺めているだけ

 という形にすれば、それぞれの連がハミングバード、人間の描写として完結する。けれど、田村は、そうしていない。「ふるわせて」をわざわざ、1行あきをつくったうえで人間の描写に結びつけている。
 「ふるわせて」という動詞に、夢を託しているのだ。
 もし人間が、ハミングバードを見て、こころをふるわせるなら、「人間の皮膚をかぶって」ハミングバードを眺めているだけの存在は、何かに変わる(変身)できるはずなのである。人間のなかにいる「人間」が何かに「なる」はずなのである。
 人間の中にある(いる)人間が、ハミングバードを単に歌っている鳥とみているかぎりは何もおきない。ハミングバードが歌っているのは、実は、ハミングバートの中にいる小鳥が歌っているからだ--ということに気づけば、その事実に、こころをふるわせることができれば、そのとき人間は変わりうる。

 人間の目には、ハミングバードのなかにいるハミングバートは見えない。けれど、「肉眼」では、どうだろうか。「肉眼」なら見える。
 何が人間の「肉眼」をじゃましているのか。人間の「肉眼」が「肉眼」であることをじゃましているのか。そのじゃまを、どうやったら取り除けるのか。その障害を、どうやったら破壊できるのか。
 田村のことばは、常に、そういうものを探している。


詩と批評D (1973年)
田村 隆一
思潮社

このアイテムの詳細を見る
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする