詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

池井昌樹「瞳」

2009-05-10 09:04:21 | 詩(雑誌・同人誌)
池井昌樹「瞳」(朝日新聞2009年05月09日夕刊)

 池井昌樹「瞳」は、池井が何度も書いている「瞳」である。池井見つめる瞳。それは、どこにでも存在する。今回書いているのは「胸の奥」にある瞳である。

わたしのむねのおくかには
ひとみがあって
むきあおうともしなかった
ひとみがさえざえみひらかれていて
とがめるでもなくただすでもなく
ひとみがわたしをみつめていて
こんやもわたしはねむれない
みなものにうぶつきのよう
わたのしむねのおくかには
かなしくふかいひとみがあって
さえざえとたださえざえと
ひとみはみひらかれるばかり
ひとみはなにもかたらない
おおきなあなはうまらない
だまってひとりむきあっている
わたしのむねのおくかから
まれにちらつくゆきもあり
さくらまいこむよるもあり
さえざえとたださえざえと
てらしだされる
つみとがもあり

 なぜ、池井は同じことを繰り返すのか。それは、私にとっては「同じ」に見えるけれど、池井にとっては「同じ」に見えないからである。そして、矛盾した言い方になるが、池井にとって「同じに見えない」というのは「同じ」ということである。その「瞳」は「同じもの」である。だから「同じ」に見えない。さらに言い方を変えるなら、その「瞳」は「普遍」である。だから「同じ」にみえない。そこには、そのつど池井の「いま」が映し出される。それはたとえて言えば、完璧な鏡である。完璧な鏡は、池井をまっすぐに写し出す。きのうの池井ときょうの池井は違った存在である。鏡を覗くたびに、その違った池井が写し出される。写し出された池井は違った存在である。だから、「完璧な鏡」としての「瞳」は、池井には、日々違った存在としてあらわれる。それは、「そこ」にあるのではなく、「そこ」にあらわれる。
 「瞳」は、「そこ」に「ある」のではなく、「そこ」に「あらわれる」。
 凡人の私には、あらゆるものは「そこ」に「ある」か「ない」でしかないが、天才・池井にとっては、あらゆる存在は「そこ」に「あらわれる」。「ある」ものとして見れば、それはいつもの、たとえば「完璧な鏡」であるが、「あらわれる」ものとして見れば、毎日違った姿をしている。もし、同じに見えるとしても、それは錯覚である。なぜなら、その鏡を覗く「池井」という存在が「きのう」と「きょう」では違った部分をもっているはずなのに、そこに写った「池井」が同じであるということは、「鏡」のなかになにごとかの変化が起きて、「いま」「ここ」に新しくあらわれてきているのだ。
 「同じ」は「存在」が「同じ」ではなく、「あらわれる」というありかたが同じなのだ。「動詞」が「同じ」。「動詞」が同じであるためには、その「主語」が変わらないいけない。「主語」が同じである時、動詞はかわる。変化というのは、そのふたつである。池井にとっての変化とは「主語」がかわるのである。
 「主語」とは、「瞳」であるが、同じ「瞳」なのに、どこが違うのか? 堂々巡りのことを書いてしまうが、それは「瞳」と名付けられているだけであって、ひとつひとつは違っていて、違うことで「同じ」になるのだ。
 この詩で言えば、最後の方にその特徴がでている。

まれにちらつくゆきもあり
さくらのまいこむよるもあり

 それは「瞳」とともに「あらわれる」ものである。そのとき「瞳」は「ゆき」であり「さくら」である。凡人なら「雪」「桜」をそのまま書いて、「違い」を区別するが、天才・池井はそれを区別できない。「雪」と「桜」と一体となって「あらわれる」瞳に眼を奪われるからである。瞳があらわれるから、「雪」も「桜」もあらわれるにすぎない。池井は、そんなふうに世界を見ている。「雪」と「桜」は瞳と一体になってあらわれるがゆえに、その区別はない。
 同様に、瞳とともにあらわれる「罪」「咎」も区別はない。
 あらゆるものに区別はない。それは、「池井」と「瞳」の区別もないということ、「池井」と「瞳」は一体であるということでもある。「みなものにうかぶつきのように」一体なのである。「水」と「月」が一体であるように、「池井」と「瞳」は、そのとき一体になっている。
 一体になって、池井自身が「あらわれる」と言い直せば、池井を語ったことになるだろうか。

 この一体感を、池井は「さえざえ」と呼んでいる。「さえざえ」とは「透明」。「透明」とは「池井」と「対象」との間、不純なものがないということ、疎外物がないということ、つまり「一体」になっているということでもある。



童子
池井 昌樹
思潮社

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『田村隆一全詩集』を読む(80)

2009-05-10 01:26:56 | 田村隆一

 「脳」のなかの「白昼の悪魔」。ここには「手」「物」「自然」の関係が語られている。

wildという英語をやっと七十歳すぎて分った
wildとは純粋な「自然」そのもの
氷河と砂漠で人は力をつくし物を創造した
自然とは「物」である

 「wild」は、「野生」あるいは「荒野」を一般的に指すだろう。それを田村は「自然」と呼んでいる。しかし、ここで重要なのは「自然」ということばよりも、それを修飾する「純粋な」であるだろう。
 この詩で語られているのは、ほんとうは「純粋」とは何かなのである。

 引用した行に先だつ連に(2連目)は、次のようになっている。

悪の実在のおかげで ぼくら人類は
善を創り出す努力と意志をたゆまなく
たゆまなく
四千年まえの 二千年前の 百年前の
人と人 人は文化そのもの
「文化人」とは ぼくは口が裂けても云わない
その手と手は
「物」をつくり出す手である

 人間には「手」があり、手がつくりだすものは「文化」ではなく「物」。つくりだされた「もの」は人間にとって新しい「自然」である。そこには人間の「純粋」が結晶している。

氷河と砂漠で人は力をつくし物を創造した
自然とは「物」である

 という2行は、詩特有の混乱である。
 ここには詩特有の「省略」がある。詩人にはわかりすぎていることがらが省略されて、ことばが歪んでいる。散文(論理的な?)ことばの動きなら、たとえば、

氷河と砂漠で人は力をつくし物を創造した
(その)物とは「自然」である

 という具合にしないと、論理にならない。「氷河と砂漠で人は力をつくし物を創造した/自然とは「物」である」では、人がつくりだしたものが「物」なのか、「自然」なのか、わからない。
 ここでは「自然」と「物」が融合して、どちらを「主語」にしてもいいのである。その「融合」がここでは「省略」されているから、2行の論理上の意味が混濁してしまうのである。
 厳しい自然と向き合い人間は何か物を造る。それがないと人間は厳しい自然と向き合えないからである。自然と物は「厳しさ」において拮抗する。「厳しさ」以外の何ももたない。不純物をもたない。つまり「純粋」である。
 こういう「物」を人間がつくりだす時、自然は人間にとって、やはり「物」と同じなのである。自然は、「物」になってくれるのである。自然のなかで「変化」がおきるのである。それは、繰り返しになるが、あくまで純粋な「物」ができたとき、自然が変化するのである。
 「wild」野生とは、ある意味で「純粋」である。それは「本能」である。
 人間が「物」をつくるのも本能である。本能とは生きていくために必要なものである。氷河、砂漠を生きるための「本能」が「物」をつくる。そのとき「手」は、やはり「本能」である。「手」を仲立ちにして、つまり「物」をつくるという本能を仲立ちにして、「自然」と「物」が一体となり、人間の「生活」の「場」になる。融合する。かつては、そういう「純粋」な「場」、「純粋」ないのちがあった。それが「自然」そのものであったのだ。

 だから、最初に引用した4行。そのことばは、さまざまに入れ替えが可能なのだ。たとえば、次のように。

wildという英語をやっと七十歳すぎて分った
wildとは自然の「純粋さ」そのもの
氷河と砂漠で人は力をつくし物を創造した
その「物」とは自然の「純粋さ」である

 「物」によって、野生、自然は、「純粋」になる。
 この「物」を「詩」に置き換えると、おもしろいことがおきる。
 「白昼の悪魔」の「反歌」としての作品「脳」。その前半。


小さな村があって小さなパブ
三人の老人が 昼間から
愉しそうに エールを飲んでいる
八十歳の老人は頬をバラ色に輝かして
ぼくが 貴殿はまるで海洋少年団のメンバーですね
と云ったら 美しい笑顔でうなずいてくれた
黒いスーツを着た紳士がワイセツな詩を朗読してくれた
この村では ワイセツな詩も輝く

 「ワイセツな詩も輝く」。「ワイセツ」も純粋になるのだ。だから輝く。

 矛盾したいいかたになるが、そしてこの「純粋」とは「未分化」のことである。「wild」、自然とは「未分化」のことである。そして「物」とは「未分化」ではなく、「未分化」ではないもの、その反対のものである。いろいろな要素を「分化」しながらある機能に向けて統一することで「物」はできあがる。その「物」をつくる過程、つまり「未分化」を「分化」を通してとらえ直すとき、「未分化」の「領域」が具体的に人間に見えてくる。「分化」の過程を経ないことには「未分化」そのものもわからない。「物」をつくるということは、そういう「矛盾」をかかえこんでいる。
 「未分化」の発見、「自然」の発見、それは「純粋」の発見でもある。「野生」は、それらすべてを飲み込む「場」、混沌である。

 ひるがえって。
 現代はどういう状況なのか。「自然」から遠く離れている。「文化」の状態にある。田村は、この「文化」を叩き壊したいのだ。「文化」は「分化」でもある。それを叩き壊し「未分化」の状態へ戻したい。そして、そこで「物」、「野生」と拮抗する「物」をつくりたい。ことばを、そのために動かしたいと願っている。「未分化」に触れながら、「未分化」をくぐることで野生の力を取り戻し、「純粋」になることば--それを手にいれるために詩を書いている。




女神礼讃―ぼくの女性革命
田村 隆一
廣済堂出版

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