詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

緒加たよこ「お庭のきんぎょ」

2024-08-08 22:37:17 | 詩(雑誌・同人誌)

2024年08月05日(月曜日)

緒加たよこ「お庭のきんぎょ」(朝日新聞、2024年08月07日夕刊)

 緒加たよこ「お庭のきんぎょ」(朝日新聞、「あるきだす言葉たち」)は、「説明」を省略した作品である。その全行。

お庭のきんぎょのお池のよこで
きんぎょたべました
じゅうじゅう焼いて
きんぎょ?きんぎょ?
じゅうじゅう焼いて
きんぎょ?きんぎょ?
そうじゃそうじゃ
そうそうそうじゃ
おじちゃんと
おにいちゃん
にこ 
にこ
にこにこ
にこにこ
お庭のきんぎょ焼いてたべたよ
まま、
まま、
きんぎょをみるたび
これたべた
あたらしいともだちができるたびに
いいました
じゅうじゅう焼いて
じゅうじゅう焼いて
お庭のきんぎょのお池のよこで

 そのまま読むと「金魚を庭で焼いて食べた、バーベキューの食材に、庭の池にいた金魚を焼いて食べた」という情景が浮かんでくる。もちろん、そういう「読み方」があってもいいと思う。
 私は、しかし、そんなふうに読まない。
 この詩に特徴的なことは、同じことばが繰り返されていること。ことばというよりも、「音」と言った方がいい。「音」は「意味」ではない。「音」は「声」であり、「声」はは何よりも「感情の動き(意味)」を伝える。それは辞書にある「ことばの意味(定義)」を超える。
 で、ここからなのだが。
 この詩のなかで「意味」になりにくい「音」は何か。「じゅうじゅう焼いて」の「じゅうじゅう」が、「わかる」けれど、それ「意味」として明確にするのは難しい。何かが焼けるときの「音」。その何かは「乾いた」ものではない。なかから液体(脂、水分)がにじんでくると、熱に反応して「じゅうじゅう」と音を立てる。この詩の主役(?)は、その音に反応している。車をブーブー、犬をワンワン、猫をニャーニャーという「音」で把握するように、バーベキューを「じゅうじゅう」という音でつかみとっている。
 その幼い子(たぶん)にとって、その「じゅうじゅう」という音のいきいきした漢字は「きんぎょ」という音の確かさに似ているのかもしれない。逆に言えば、「きんぎょ」という音は「金魚」ではないものを指しているかもしれない。「きんぎょ」という音の確かさ、音の手応えは「そうじゃそうじゃ」に似ている。同じ音を繰り返す「にこにこ」「まま」もその類かもしれない。その幼い子のまわりにいるひとたち(おじちゃん、おにいちゃん、まま)は、それを理解して、「ことばの意味」ではなく、「声の調子(音のなかに動いているこどもの感情)」に「そうじゃそうじゃ」といい、「にこにこ」する。
 この「にこにこ」が、この詩では、とても重要。「じゅうじゅう」が実際に聞こえる「音」をなぞったものなのに対し(ブーブー、ワンワン、ニャーニャーも同じ)、「にこにこ」はどんなに耳を澄ましても聞こえない「音」である。「音」ではない「音」である。「音を超える音」。声にしなければ、存在しない音。
 詩というものが、ことばにしなければ存在しなかった感情を明らかにするものだとすれば、ここには同じように、ことば(声/音)にしなければ存在しなかったものが、ことば(音)として書かれている。「にこにこ」は誰もが知っていることばである。しかし、それは「音」として存在しないのに、私たちが「音」を通して受け入れている何かである。
 そうしたもの、それに類する何かが、この詩のなかで動いている。「きんぎょ」という音を出発点にして、「じゅうじゅう」という音をとおって、さらに自由に動いていく。
 私は、とりあえず、そういう「説明」をここに書いているが、緒加は、そういう「説明」をしない。ただ、「音」を動かして見せる。「音」「声」のなかにこそ、「辞書に書かれていることばの定義(意味)」を超える大切なものがあると知っている。そして、それを「形」にしようとしている。
 この一篇だけではわかりにくいが、緒加の詩には、独自の「音楽」がある。「音学」ではなく、「音の楽しさ」がある。音を説明すれば「音楽」ではなく「音学」になってしまう。「数学」とか「科学」とかに似たもの、あるいは「文学」もそうかもしれない。「学」にしないで、音を楽しみ、音楽に肉体をあわせれば(音楽に合わせて肉体を動かせば)、緒加の世界へ入っていけるだろう。

 緒加たかよは、朝日カルチャーセンター(福岡)の「現代詩講座(谷川俊太郎の世界)」の受講生。第一詩集「彼女は待たずに先に行く」(書肆侃侃房)は、講座で書いた作品を編んだもの。

 

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