詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

新川和江『ブック・エンド』

2013-11-03 10:15:26 | 詩集
新川和江『ブック・エンド』(思潮社、2013年10月31日発行)

 新川和江『ブック・エンド』は新川和江と向き合って、その声を聞いている気持ちになる。私は新川和江とは会ったことがないのだけれど、目の前にどっしりした(失礼!)感じの女のからだを感じる。
 「空気入れ」というのは自転車に空気を入れる、の空気入れである。学校へ行く途中、自転車屋で空気を入れてもらう。そして、

ふたたびペダルを踏んで
わたしは学校へいそぎます
サドルから伝わってくる 固太りしたタイヤの
あの弾んだ感じを
体(からだ)は ずうっと覚えていました

 新川は、この詩に書いてあるように「体が覚えていること」を書いている。「体が覚えている」ということばだけなら、抽象的で誰でも書けるのだが、(私はいつも「肉体」が覚える、覚えている、と書くのだが……)、新川はきちんとその「覚えていること」を具体的に書いている。

固太りしたタイヤ

 この実感が「体」を明確にする。空気のいっぱい入ったタイヤの頼もしさ(安心感)が「固太り」ということばに凝縮している。固いものは強い。太ったものは丈夫だ。それを新川は手で触るだけではなく、自転車をこぐ、そして自転車から伝わってくる振動を体全体で受け止め、体全体で覚える。
 私はしょっちゅう「キーワード」ということばをつかう。無意識に挿入してしまう大事なもの。いつもは体になじんでいて、そのことばをつかい忘れる。省略してしまう。けれど、あるとき、どうしてもそれが必要になって書かずにはいられない。そういうことば。そこに「思想」が凝縮していることば。
 新川の場合、それは

体(からだ)

 である。
 先に引用した部分の「体は ずうっと覚えていました」は「体」を省略しても意味が通じる。
 また、「体」を「わたし」と言い換えても意味が通じる。
 これは、新川が「わたし」を「体(からだ)」として把握している。それを「思想」の根幹としていることのあかしである。「わたし」は「精神」ではなく、まず「体」なのだ。「わたし」が覚えるのではなく「体」が覚える。
 「体」というのは不思議なもので、たとえば道に倒れて誰かが腹をかかえて呻いている。そうすると、その倒れている体が「私のもの」ではないにもかかわらず、「痛い」ということがわかる。あ、このひとは腹が痛いのだとわかる。「体(肉体)」は、ひとそれぞれに独立してある。孤立している。それにもかかわらず、その断絶を飛び越して、その「肉体」のなかで起きていることが「わかる」。自分の「肉体」が覚えていることが、他人の「肉体」を見ることで、自分の「肉体」の内部で生まれてくる。「肉体」は自他の区別をなくして、融合してしまう。その「融合」をささえている(?)のが「肉体が覚えていること」なのである。--あ、これでは同義反復か……。

 「肉体」は自他を越えて、他者になってしまう。この感覚があるので、私は、詩を読みながら、「いま/ここ」にいないはずの新川をまるで目の前にいるように感じる。--と書くと、うーん、これも矛盾だなあ。
 道に倒れて呻いている人間を見ると、その人が腹が痛いのだと「わかる」。そのあり方とは逆向きのことが起きる。そこに書かれている「ことば(たとえば、痛い、ということば)」を読むと、それは単なることばなのに、ことばを越えて、そのことばを発したひとの「肉体」が「わかる」。そのとき、これはほんとうに矛盾としか言いようがないのだが、私は「痛い」が「わかる」のではなく、目の前に新川という「肉体」が存在するということが「わかる」。いや、実際には「いま/ここ」にはいなくて、新川は東京にいるのかもしれないけれど、その「空間」を無視して、ふいに新川が私の目の前に「肉体」そのものとして現われてくる。この感じが、とても気持ちがいい。安心感がある。


 この安心感、直接、「自分ではない肉体」を「自分の肉体」のように感じる瞬間--それが「固太り」したタイヤの「固太り」という感じ、新川が「体で覚えていました」という、そのことばに凝縮している。「固太り」と新川が書くとき、私も空気のつまったタイヤの感じを思い出し、同時に、その感じを「固太り」であると納得した瞬間、「私の肉体」は「私の肉体」であると同時に「新川の肉体」であって、そこに「区別はない」、つまり「融合している」。「ひとつ」になっている。--この「ひとつになる」がセックス。
 こういうときに「セックス」ということばを持ち出すと顰蹙を買うし、それをいやがる人がいるのだが……。でも、それはセックスだなあと思う。「ことばの肉体」が抱き合っている感じ。何もかも捨てて、直接ふれあう感じ。その「直接」だけがもたらす安心感。それが気持ちがいい。
 「肉体」が「ひとつになる」のがセックスであるように、ことばもある瞬間「ひとつになる」。「ことばの肉体」がセックスをする。その快感のなかで、私は新川という人間を心底信じてしまう。「いま/ここ」に新川がいる、と感じる。
 「肉体」と「精神」を混同している--と二元論を生きる人ならいうかもしれないが、私は二元論を信じていないので、それは混同ではなく、融合だと言うのである。

 脱線したのかな?

 詩にもどる。あるいは、「肉体」にもどる。
 「肉体」というのは、それぞれが一個である。連続していない。でも、道に倒れて呻いているひとをみて腹が痛いのが「わかる」ように、何か、肉体の断絶を越えて、他者になってしまう力を持っている。それは、「人間」だけではない。
 で、「はい、とへんじを」。

鳥だった日がある
ちいさな魚だったことも
遠い日のわたしの声に
はい、とへんじをする

 この詩の「鳥」「魚」は「鳥の肉体」「魚の肉体」という意味である。新川なら「鳥の体」「魚の体」と書くのだろうけれど……。いつか、遠い日(むかし)、新川は鳥が「わかった」、魚が「わかった」。それは鳥を「精神」ではなく「肉体」で「わかる」、「肉体」で「覚える」ということである。
 という書き方では、抽象的すぎるね。
 でも、そういうことは、あるのだ。
 そして、そういうことを書いているのが、「今、わたしの揺り椅子を……」。男の脳髄は新聞紙大の大きさ、女の脳髄はタブロイド版、という男からのからかいに対して、新川は妊娠したときのことを書き、反論(?)している。

小さないのちが胎内でかたちをなすにつれて
思いもしなかった大自然の風景が
わたしの中に生じてわたしを驚かせた
青麦の畑が広がり 雲雀(ひばり)が舞いあがった
海へ行こう 海へ行こう
川はうたいながら いそいそ野原を流れていった
ほとりでのどかに草を食む ホルスタインの群れ
太陽 月 星 天体たちの秩序ある運行
地球を丸ごと孕(はら)んだような充実感が
日々 わたしのおなかをせりあげていった

 新川は胎内に(肉体の内部に)、自然(海、川、麦畑、雲雀、野原、牛)を取り込んでいる。そのとき新川の「肉体」は「自然」と「ひとつ」になっている。融合している。そして、その融合は自然(地球)を越えて、宇宙とも「ひとつ」になる。新川の「肉体」はそういうことを「覚えている」。
 鳥だった、魚だった、というのは「ほんとう」なのである。それは「精神」が見た幻ではなく、「肉体」が「精神」を借りずに、直接つかみ取ったことなのである。「肉体」は直接世界を取り込み、世界になる。その「記憶(覚えていること)」が、新川のことばを通して、詩の中に噴出してくる。つまり、その瞬間、新川の「体(肉体)」がつややかな赤ん坊の裸のように、若い、ねたましいようなエネルギーに満ちた女の裸のように、目の前にあらわれてくる。



詩が生まれるとき
新川和江
みすず書房

コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 時里二郎『石目』(2) | トップ | 粕谷栄市『瑞兆』 »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。

詩集」カテゴリの最新記事