杉谷昭人『十年ののちに』(鉱脈社、2020年06月19日発行)
杉谷昭人『十年ののちに』は、口蹄疫から十年たった宮崎県のことを書いている。いや、2010年からの十年を書いている。
「農場跡」という作品。
とんでもない話を聞いた
子牛が一頭生まれたというのだ
この村では四年前に口蹄疫が発生し
三千頭もの牛がガスで殺処分されて
うち一頭の雌牛が埋却ぎわに出産して
ある農夫がその子牛をこっそり隠した
獣医師の眼をかすめて育ったその牛が
今朝がた新しいこどもを産んだという
あってはならないはずのことだが
その噂を信じたいとみなが思っている
ただ子牛を見た人はまだ誰もいない
村じゅうひそひそ声が流れているだけ
「あってはならないはずのことだが/その噂を信じたいとみなが思っている」の二行がとても切ない。切実だ。
牛は売るために育てている。牛は食べるために育てている。それでも育てるということは愛をそそぐことである。どうしても、つながりができる。そのつながりは、けっして忘れることができない。
だから、新しく飼いはじめた牛のなかに、かつて飼っていた牛の姿を見ることがあるだろうし、子牛が生まれれば、かつて飼っていた牛が子牛を産んだときのことも思い出すだろう。
「信じたい」は子牛の存在を信じたいと同時に、これからも牛と一緒に生きていく人生を信じるということでもある。ひとの生き方は、そんなに簡単には変えられない。一度牛を愛してしまうと(牛と一緒に生きる生活を愛してしまうと)、それを貫きたいと思う。そして、苦しくてもそういう道をふたたび歩きはじめるひとを、ひとは頼りにする。
菅は「自助・共助・公助と絆」と言ったが、「自助・共助」は言われなくても、生きている人間はそれを実行している。問題は、「自助」をひとがいつでも実践できるだけの「公助」をどれだけ用意できるかなのである。
あ、余分なことを書いたが、「ただ子牛を見た人はまだ誰もいない/村じゅうひそひそ声が流れているだけ」という二行も美しい。まるで夢の中で見た夢のよう。その子牛がほんとうにいるなら、どんなにうれしいだろう。
「畜魂祭」は口蹄疫のとき処分した牛をなぐさめるためのもの。その会場で「蝦蟇口」を拾う。そこから詩ははじまっている。その後半部分。
この町が口蹄疫に襲われたのは四年前のことだった
三十万頭からの牛と豚がガスで殺処分されて
農場に掘った大きな穴につぎつぎと埋却されて
その上に菜種やコスモスの種子が撒かれた
〈畜魂碑〉と刻まれた一本の石碑も建った
生活のない土地が生まれて
記憶を作り出しようもない毎日がやってきて
わたしたちは慣れない仕事についた
道路工事 小荷物の配送 コンビニの店員
きょうはみんなが帰ってくるはずの日なのだ
畜魂祭のざわめきとともに拾った蝦蟇口を手にしたまま
わたしは いやわたしたちは何かをじっと待ちつづける
一年ぶりにあの髭面に会えるかもしれぬ
牛小屋の干し草の匂いが嗅げるかもしれぬ
足下の小石の蔭から一本の牧草が生えてくるかもしれぬ
「生活のない土地が生まれて/記憶を作り出しようもない毎日がやってきて」の二行が、やはり強い。
「生活」と「記憶」は同義語である。
「記憶」のない土地が生まれて
「生活」を作り出しようもない毎日がやってきて
と言い直せば、杉谷の書いていることがよくわかる。どんな土地でも「記憶」を持っている。そこで何をしたか。そこが牧草地ならば、農家のひとは、どこにどの草が生えているか、その草を食べたのはどの牛か。そんなことまで「記憶」している。その「記憶」はことばの記憶ではなく、肉体でそのまま覚えていることだ。忘れることができない「事実」の積み重ねだ。
その土地で、ひとは「あした」を生きる。「あした」を生み出していく。もちろん「過去」があり、「いま」があるのだが、作り出していくのは「あした」である。ある日突然、その「あした」を奪い去られれる。「未来」をつくりだせなくなる。
そのときから、「生活」は「いま」を生きる形をとりながら、いつも「過去」を生きる。思い出を生きることになってしまう。もちろん、それではいけないということはわかるが、「道路工事 小荷物の配送 コンビニの店員」の何をしていたとしても、思い出してしまうのは牛を育てたことだろう。
みんなもう一度牛を育てたいと思っている。杉谷には牛を育てた「体験」がないかもしれないが、その杉谷も牛を育てたいと感じている。牛を育てるは「自助」の問題ではなく、杉谷にとっては「共助」の問題なのだ。だからこそ、書くのだ。「足下の小石の蔭から一本の牧草が生えてくるかもしれぬ」と。杉谷は、牛を育てている。そして、牧草を育てている。それが杉谷の町で「生きる」ということである。
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