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詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

入沢康夫と「誤読」(メモ11)

2007-05-02 22:16:35 | 詩集
 入沢康夫『ランゲルハンス氏の島』(1962年)。
 架空の島。そこでは奇妙なことが起きる。ありえないことが起きる。
 「3」。
 「僕」はドドの絵を見つける。「広辞苑」によると1681年に絶滅したといわれる鳥だ。インド洋モーリシアス島にいたという。そうすると、「エンゲルハンス氏の島」とは「モーリシアス島」になるのだが、こうした「事実」は、ここに書かれていることが「事実」ではないということを明らかにするためのものにすぎない。
 入沢はこの作品では「事実」など書いていない。「膵島」が「島」ではないように、ここでは「誤読」が書かれているのだ。
 「3」の後半。

「ここにはこの鳥がいまでも棲んでいるのですか?」「あら、鳥ですって。これはお父さまの肖像よ。だいいち、これさかさまになっているわ」少女は額をおき直してくれたのだが、それはやはりドドの絵のさかさまになったものとしか思えなかった。

 人によって「事実」が違う(立場が違えば「事実」が違って見える)ということはありうる。それはそうだが、「人間」が「鳥」に見えたり、「鳥」が「人間」に見えたりするようなことは、「立場」の違いだけでは説明できない。
 そして、入沢は、ここでは「説明」などしない。少女が嘘をついているのか、「僕」が絵を正確に認識できないのか。そして、その理由はどこにあるのか、というようなことは説明はしない。
 人は、たとえばこの「3」の少女と僕のように、こんな奇妙な会話ができるのだ、どんな奇妙なことばも会話になってしまうのだ--ということを入沢は明らかにするだけだ。なぜ会話が成り立つのか。
 「誤読」するからだ。
 人は、相手が何か言ったとき、そのことばは何かをつたえようとしていると勘違いする。何かつたえようとしていると思い込もうとする。嘘なら嘘で、その嘘の背後に何かがあると思い込もうとする。
 そして、そういう真理は読者にもあるのだ。
 入沢が書いていることば。それは架空の舞台の、架空の人物の会話だが、そのことばを読んだとき、読者は、その背後になるかがあると思い込む。その何かを知りたいと思う。何もなくても何かがあると「誤読」したがる。
 入沢のことばは、そういう「誤読」したがる読者の心理・真理をひっぱって動いてゆく。「誤読」したくない人には、入沢のことばは単なる「でまかせ」ということになるだろう。



 「5」の後半にとてもおもしろい部分がある。

「あの、海へ出るにはどの道をゆくんでしょう」「海ですって?」薬屋の主人はあっけにとられた顔をするが、すぐに僕が他処者であることに気がついて、「歩いては絶対にこの街の外へは出れません。何でもよいからとにかく乗り物に乗ってこの街の外へ出れば、海はすぐそこです」「なぜ歩いては出れないのです」「多分構造上の問題だと思いますよ」とこの老店主は平然として言う。

 「構造上の問題」。入沢は「構造」というものに関心がある。「詩」の「構造」。「ことば」の「構造」。「論理」の「構造」。そして、「誤読」の「構造」。
 歩いては街から出ることができないのに、乗り物に乗れば出ることができる。そういうことは「現実」にはありえない。しかし、ことばでなら、そういうことを言うことができる。書くこともできる。ことばは「でたらめ」(現実にはありえないこと)を言うこともできるし、書くこともできる。そして、その「でたらめ」を引き受けて、さらに「ことば」をつづけることもできる。(入沢の作品は、まだまだつづいてゆく)。
 なぜだろう。
 私たちは「ことば」をとおして、何か、いま、ここにはないことに触れたいという欲望があるのかもしれない。いま、ここにある「真実」ではなく、いま、ここにないものに触れたいという欲望があるのかもしれない。
 そして、その欲望は「真実」に触れたときに、その「真実」ではなく、別のものを欲するということもあるかもしれない。「真実」ではなく「誤読」したい、「誤読」することで、「真実」を超えたものをつかみとりたいのかもしれない。

 そういう精神の「構造」というものがあるかもしれない。

 この「5」の部分は、「構造」ということばを使いたいがために書かれた部分のように思える。「誤読」には「誤読」の「構造」がある。
 「構造」とは平面構造ということばがないわけではないが、なにかしら「立体」を感じさせる。そこには立体的な広がりがある。「誤読」もまた立体的な広がりかもしれない。



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