林芙美子「歴史」(「現代詩手帖」2014年04月号)
林芙美子「歴史」を読みながら、とても不思議な気持ちになった。「未収録詩篇」の一篇である。
書いてあることばは全部わかる。情景もそのまま思い浮かぶ。「夏の雲よ もうお前はかなり遠くまで行つてしまつた」というのは美しい行だなあ、と思う。
思うのだが。
さて、このとき私が思い浮かべている情景というものはどういうものだろう。遠いところ、目に見える空のいちばん遠く、たとえば水平線の方向とか山の端っことか、そういうところに夏の雲が見えるのか--違うなあ。この行を読むとき、私には夏の雲は見えない。そこには存在しない。ただ澄みきった青い空がある。大げさに言うと、「無」がある。夏の雲という興奮が去ってしまって、無がある。
存在しないから「遠くへ行つてしまつた」と思う。想像する。見ているのではなく、想像している世界--それが、詩、ということになる。
読み返してみると、すべてが「想像」なのだとわかる。「写生」ではなく、「現実」ではなく、頭の中で構成された世界だとわかる。
私は、「悠々と来たり 悠々と去りゆく 夏の雲よ」というものを見たことがない。夏の雲というと「入道雲」がすぐに思い浮かぶ。それがむくむく沸き上がるのを見たことはある。その沸き上がる漢字を「来る」と言い換えることには違和感はない。けれど、それは「悠々」かなあ。私は、言わないなあ。そして、それは「悠々と去りゆく」というのとも違うなあ。でん、と居すわっている。入道雲は「流れて」はゆかない。「私達に様々なおもひを植ゑるて」ということはあっても、「流れてゆく」とはつながらない。
もし「流れてゆく」とすれば、それは目の前の空を流れていくのではなく、「様々なおもひ」のなかを流れていく。意識のなかを流れてゆく。去ってゆく。
「刈草の愉しいすえた匂ひ」をかいだときに、「雁のさゞざき」を聞いたときに--つまり、目ではなく、ほかの感覚器官が新しい何か(雲以外のものにふれたとき)、言い換えると夏の雲がそこにないと認識したときに、「夏の雲が去りゆく」。
これは、おもしろいなあ。
ほんとうに、そうだなあ。
「秋の新しい雲が流れて来ようと してゐる」という行は、秋の雲がそこにはまだ存在していないと語っている。存在するのは「刈草の愉しいすえた匂ひ/雁のさゞざき」であって、秋の雲ではない。
存在しないものが、存在するものと交錯しながら動いている。その「動き」が見えるのだ。「動き」を肉体が感じるのだ。
これは、とても観念的なことばの運動だ。繰り返しになるが「写生」のことばではない。書かれていることばがあまりにもわかりやすいので、実際の夏の雲(入道雲)や秋の雲(うろこ雲、鰯雲、--どう違う?)を思い浮かべ、「去りゆく」「流れる」「遠くまで行ってしまう」というようなことばに刺戟されてセンチメンタルな気分にそまるが、そのセンチメンタルというのは、とても観念的なものだ。
「思想」「観念」というあからさまに観念的なことばが、この世界が観念そのものであると語っている。さらに「白い虹」がそれを補う。「白い虹」って見たことある? 私は虹色(七色)の虹しか知らないし、それがはっきり七色かといわれると五色くらいしかわからないのだけれど、みんなが七色と言っているので、ついついそれにあわせて七色と言うだけである。
自分の目に見えないことでも、ことばにできてしまうし、ことばにしてしまうと、それに思考をあわせてしまう。いや、肉体をねじまげてしまう。虹は、七色に見える、と肉体を説得してしまう。--これは、私だけの癖なのかもしれないけれど。
で、詩にもどると。
あ、そうか、「歴史」か……と「タイトル」にぶつかる。林は最初から夏の雲、秋の雲という「日本の風景」を描いているわけではないのだ。そういう意識はないのだ。季節の変化ではなく、「歴史」を見ている。
大雑把に言ってしまうと、季節の変化というのは「期間」が短い。日本では1年で季節が一巡する。ところが「歴史」というのは「期間」が長い。1年で繰り返される(一巡してきたと勘違いする)ことも起きるかもしれないが、もっと長い十年、二十年、あるいは百年という単位で何かが交錯し、そういうことに出合うと「歴史は繰り返す」というようなことを実感する。
林は、そういう「長い時間」を見ている。「時間の流れ」、事件の関連を見ている--ということが、ふっとわかる。
そういう感じで、時間を感じる瞬間が、たしかにあるなあ、とも思う。
林芙美子「歴史」を読みながら、とても不思議な気持ちになった。「未収録詩篇」の一篇である。
悠々と来たり 悠々と去りゆく 夏の雲よ
私達に様々なおもひを植ゑるて流れてゆく夏の雲よ
疲労と成熟と そして再び
秋の新しい雲が流れて来ようと してゐる
刈草の愉しいすえた匂ひ
雁のさゞざき
夏の雲よ もうお前はかなり遠くまで行つてしまつた
入道雲 うろこ雲 鰯雲
悠々と彼方へ去つてゆく
思想を残して 観念を残して
白い虹の向うへ (「あらくれ」一九三八年十月)
書いてあることばは全部わかる。情景もそのまま思い浮かぶ。「夏の雲よ もうお前はかなり遠くまで行つてしまつた」というのは美しい行だなあ、と思う。
思うのだが。
さて、このとき私が思い浮かべている情景というものはどういうものだろう。遠いところ、目に見える空のいちばん遠く、たとえば水平線の方向とか山の端っことか、そういうところに夏の雲が見えるのか--違うなあ。この行を読むとき、私には夏の雲は見えない。そこには存在しない。ただ澄みきった青い空がある。大げさに言うと、「無」がある。夏の雲という興奮が去ってしまって、無がある。
存在しないから「遠くへ行つてしまつた」と思う。想像する。見ているのではなく、想像している世界--それが、詩、ということになる。
読み返してみると、すべてが「想像」なのだとわかる。「写生」ではなく、「現実」ではなく、頭の中で構成された世界だとわかる。
私は、「悠々と来たり 悠々と去りゆく 夏の雲よ」というものを見たことがない。夏の雲というと「入道雲」がすぐに思い浮かぶ。それがむくむく沸き上がるのを見たことはある。その沸き上がる漢字を「来る」と言い換えることには違和感はない。けれど、それは「悠々」かなあ。私は、言わないなあ。そして、それは「悠々と去りゆく」というのとも違うなあ。でん、と居すわっている。入道雲は「流れて」はゆかない。「私達に様々なおもひを植ゑるて」ということはあっても、「流れてゆく」とはつながらない。
もし「流れてゆく」とすれば、それは目の前の空を流れていくのではなく、「様々なおもひ」のなかを流れていく。意識のなかを流れてゆく。去ってゆく。
「刈草の愉しいすえた匂ひ」をかいだときに、「雁のさゞざき」を聞いたときに--つまり、目ではなく、ほかの感覚器官が新しい何か(雲以外のものにふれたとき)、言い換えると夏の雲がそこにないと認識したときに、「夏の雲が去りゆく」。
これは、おもしろいなあ。
ほんとうに、そうだなあ。
「秋の新しい雲が流れて来ようと してゐる」という行は、秋の雲がそこにはまだ存在していないと語っている。存在するのは「刈草の愉しいすえた匂ひ/雁のさゞざき」であって、秋の雲ではない。
存在しないものが、存在するものと交錯しながら動いている。その「動き」が見えるのだ。「動き」を肉体が感じるのだ。
これは、とても観念的なことばの運動だ。繰り返しになるが「写生」のことばではない。書かれていることばがあまりにもわかりやすいので、実際の夏の雲(入道雲)や秋の雲(うろこ雲、鰯雲、--どう違う?)を思い浮かべ、「去りゆく」「流れる」「遠くまで行ってしまう」というようなことばに刺戟されてセンチメンタルな気分にそまるが、そのセンチメンタルというのは、とても観念的なものだ。
思想を残して 観念を残して
白い虹の向うへ
「思想」「観念」というあからさまに観念的なことばが、この世界が観念そのものであると語っている。さらに「白い虹」がそれを補う。「白い虹」って見たことある? 私は虹色(七色)の虹しか知らないし、それがはっきり七色かといわれると五色くらいしかわからないのだけれど、みんなが七色と言っているので、ついついそれにあわせて七色と言うだけである。
自分の目に見えないことでも、ことばにできてしまうし、ことばにしてしまうと、それに思考をあわせてしまう。いや、肉体をねじまげてしまう。虹は、七色に見える、と肉体を説得してしまう。--これは、私だけの癖なのかもしれないけれど。
で、詩にもどると。
あ、そうか、「歴史」か……と「タイトル」にぶつかる。林は最初から夏の雲、秋の雲という「日本の風景」を描いているわけではないのだ。そういう意識はないのだ。季節の変化ではなく、「歴史」を見ている。
大雑把に言ってしまうと、季節の変化というのは「期間」が短い。日本では1年で季節が一巡する。ところが「歴史」というのは「期間」が長い。1年で繰り返される(一巡してきたと勘違いする)ことも起きるかもしれないが、もっと長い十年、二十年、あるいは百年という単位で何かが交錯し、そういうことに出合うと「歴史は繰り返す」というようなことを実感する。
林は、そういう「長い時間」を見ている。「時間の流れ」、事件の関連を見ている--ということが、ふっとわかる。
そういう感じで、時間を感じる瞬間が、たしかにあるなあ、とも思う。
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