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詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

誰も書かなかった西脇順三郎(213 )

2011-04-27 09:16:33 | 詩集
 『禮記』のつづき。
 「《秋の歌》」を読むと、詩はことば、ことばからことばへの飛躍だということをあらためて思う。ことばにはことば自体の「肉体」というか「文脈」がある。その自然を突き破って「わざと」が入り込むと、ことばが「もの」のようにばらばらになって自己主張する。その瞬間が楽しい。

ゴッホの
百姓のあの靴の祭礼が来た
空も紫水晶の透明なナスの
悲しみの女のかすかなひらめきに
沈んでいるこの貴い瞬間の
野原の果てに
栗林が絶望をさけんでいる

 最初のゴッホの靴の絵は、有名な履きつぶされた靴である。「あの」ということばで説明してしまうところが西脇流である。そのあとの「祭礼」。これもまた独特である。「祭礼」そのものが「来た」というのではなく、その靴を(その絵を)「祝福」するというか、何かしらの豊かな気持ち(実感)で思い出す「とき」が来た、実感をもって思い出しているくらいの「意味」なのだろうけれど、その「意味」になるまえのことばを「祭礼」ということばを借りて代用してしまうとき、「祭礼」が「もの」のようにそこで動きだす。「意味」をつくりかえる。この「つくりかえ」の運動に引き出されて、ことばがさらに動きだす。
 「空も紫水晶の透明なナスの」という1行には、西脇の大好きな「紫のナス」(ナスの紫)が出てくるが、その間に「水晶の透明な」ということばが割り込んでくる。そうすると、ここに書かれているのが「ナス」なのか「(紫)水晶」なのか、一瞬、わからなくなる。この混乱・錯乱がことばを自由にする。「文脈」を解放する。
 ここから、ことばが「音」になる。

悲しみの女のかすかなひらめきに

 こんな1行は西脇が書くから1行として成立する。普通なら「意味」が過剰になり、センチメンタルになってしまう。けれど、西脇はこういうことばを「意味」として書かない。「音」として書いている。「か」なしみ、「か」す「か」な、か「な」しみ、かすか「な」。こんなふうに「音」がくりかえされると「かなしみ」と「かすかな」は同じことばの異種(?)という感じがしてくる。「かなしみ」と「かすか」は光の輝き方が違うだけのような感じがしてくる。だから、次の「ひらめき」がとても自然である。「ひらめき」という音のなかには「か行」と、かなしみの「み」に通じる母音「い」がひらめ「き」という形でゆらいでいる。いや「ひらめいている」。

またあの黒土にまみれて
永遠を憧れたカタツムリが死んでいる

 「黒土」にはゴッホの靴の反映がある。「永遠を憧れたカタツムリが死んでいる」の「カタツムリ」にどんな「文脈」が隠されているのか、私は知らないが、「文脈」とは無関係に、私は「音楽」を感じる。
 「あこがれた」「かたつむり」。「が」と「か」、「た」と「た」。キリギリスでも蛇でもカエルでもない。どうしても「カタツムリ」という「音」でないと、何かが違ってくる。そして次の「しんでいる」。この「ん」は「ぬ」の変形であるが、「む」とも「音」が響きあう。だからこそ、「カタツムリ」でなくてはいけないのだ。

青ざめた宇宙のかけらの石ころも
眼をつぶつて夏のころ
乞食が一度腰掛けたぬくみを
まだ夢みているのだ

 「青ざめた宇宙」は、前の行の「宇宙」と対応して「意味」をつくるかもしれない。「意味」を感じる。でも、この「意味」を「青ざめた」ということばで揺さぶるところがおもしろいし--こういう部分にはたしかに多くの人が言っているように「絵画的西脇」を感じる。「色」を呼吸してことばを動かしている西脇を感じる。また、この「青ざめた」は前にでてきた「紫水晶」(の透明)と呼びかけあってもいるだろう。
 ことばが「乱反射」している感じがする。
 そしてその「乱反射」のなかに、「宇宙のかけらの石ころ」という「哲学」を紛れ込ませること--石に宇宙のみるという「思想」を紛れ込ませる瞬間がおもしろい。「宇宙」という巨大なものと「石ころ」という小さなものが衝突する。スパークする。この「スパーク」があるから、「乞食」が生きてくる。
 「乞食」は「乞食」ではなく、「旅人」でもいいし、「百姓」でもいいし、「妊婦」でも、「ひとの体温のぬくみ」という点では変わらないのだが、「乞食」がいちばんびっくりする。驚きがある。「音」が乱暴で、その乱暴な力が、「ぬくみ」の静かな力と出会うとき、そこに「新鮮」があらわれる。
 すぐ前の行の「眼をつぶつて」は「つむつて」でも「意味」は同じだ。また、「ぶ」と「む」は似てもいるのだが、「つむつて」では「こじき」の濁音の強さに拮抗しえない。「つぶつて」という濁音が先にあるから「こじき」がまっすぐに動く。「音」が(そして、その「音」を出すときの声帯の解放感が)まっすぐにつながる。

 一方で高尚な「哲学」と日常の些細な(つまらない)現実存在(もの)が衝突して、精神を活性化させ、他方に、その活性化した動きに対応した「音」の響きがある。「音楽」がある。
 「意味」の衝突、そしてそこから始まる「哲学」(あるいは、詩学、文学)と並列して「音楽」が動いている。「音楽」があるから、「哲学」が重苦しくならない。「音楽」があるから、かっこいい。


西脇順三郎コレクション (1) 詩集1
西脇 順三郎
慶應義塾大学出版会

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