高埜圭『ここはいつも冬』( 100人の詩人・ 100冊の詩集)(土曜美術社出版販売、2016年11月26日発行)
高埜圭『ここはいつも冬』は、目の悪い私にはとても読みづらい。灰色の紙に朱色(金赤かな? 灰色のせいで朱色に近く見えるのかな?)で印刷されている。「挫折模様」の最終行「視線の先にはキリストが微笑んでいる」まで読んで、あとは読むのをあきらめた。巻頭の「青幻」には刺戟を受けたので、もっと読みたいと思ったのだが目がついていかない。
その「青幻」。
「定義されることばは非情にすぎない」が「反問」であるかどうか、わからない。何に対する「反問」なのか、わからない。ある断定(定義)と、「反問」。「問い」という「反論」があるのだろうが、先行する「こと」がわからない。わからないまま「我々の関係は風化する」と断定される。「関係」が「事実」として突然あらわれる。しかもその「関係」は「風化する」という形で否定されていく。「風化する」という動詞が、そこで起きている「こと(事実)」になる。
「存在」が否定されるとき、残されるのは、ことばのリズム。強い。リズムが「論理」であると主張しているように感じられる。
言い直しなのか、補足(付け加え)なのか、これもわからないまま、ことばはリズムを守ってつづいていく。
「漢字熟語」は「意味」を強引に呼び込む。「表意文字」が重なり「意味」が増幅する。ただし、わかるのは「意味」が過剰に増えているということだけであり、「意味」そのものは、私にはわからない。
「意味」の増え方のリズムが「一定」している。「安定」している、と感じる。このリズムに酔ってしまう。
リズムが高じて、「視つめる(視力/視覚)」でとらえられていたものが、「破裂音」と聴覚へ直結する。この飛躍に詩の強さがある。ここが、自然体の中でいちばん美しい。
私は「音読」はしないから、漢字熟語「視覚」のリズムに酔うと言い換えることができる。それが「視覚」のリズムだからこそ、私は、この本を読みづらいとも感じる。
このリズムがこのままつづくとおもしろい。「視覚」から「聴覚」へ飛躍した「肉体」が、さらに暴走し、輝くとすばらしいと思う。
けれど、違ってきてしまう。
一行の中で「カオス」ということばが繰り返される。それまでの、先行することばを内側から突き破っていくリズムが崩れ、循環してしまう。カタカナの登場も漢語のリズムを「視覚」で破壊する。つまずかせる。
繰り返しそのものについてならば、これまでにもあった。「関係」ということば、「我々の関係」はすでに繰り返されている。しかし、これは「テーマ」なので繰り返されるのはしかたがない面がある。
このリズムの破綻は、その後、突然「意味」に変わってしまう。音楽を拒み、「意味」の重力へと傾いていく。
「点→線→平面→立体」というのが算数(数学)の「経済学」だが、それは「ウェーブ」というルビが持ち込む「意味」と一緒にずらされる。「ずれ」というのか「差異」というのか、私は知らないけれど、そういうものをとおして「関係の風化」が語られなおす。そして、「予定調和」のように、ことばが変転し、運動がおさまっていく。
「意味の重力」はとても強い。
これは「カオス」の繰り返しと、その直後の2行「いつまでも平面であり/いつまでも線(ウェーブ)であり」(……である)が引き起こしたものである。
ことばの表記の変化と一緒に「動詞」の「形」が違ってきてしまった。「動詞」が「動き」から「状態」へと固定化され始めたのである。平面に「なる」、線に「なる」という「動き」を含んだものではなくなった。
弛緩したリズムを書朝敵に具体化するのが「除去(する)」を「のぞく」と読ませるところにあらわれている。
終わりの方の「極めて」「窮めて」の書き分け、「差異(ずれ)」をさらに細分化するものであり、「白星雲」というような「宇宙」が出てきても、コップの中の水のみだれのようにしか感じられない。
書き出しの七行の、動詞が動詞がぶつかり合い、先行する動詞を次の動詞が突き破っていく烈しさが、そのままつづけば楽しいと思う。灰色と金赤の色の衝突も一瞬の内に過ぎ去る感じになるかもしれない。固定化が始まり動きがゆるくなると、目の悪い私には「金赤」と「灰色」の衝突しか見えなくなる。どうにもつらいものがある。
高埜圭『ここはいつも冬』は、目の悪い私にはとても読みづらい。灰色の紙に朱色(金赤かな? 灰色のせいで朱色に近く見えるのかな?)で印刷されている。「挫折模様」の最終行「視線の先にはキリストが微笑んでいる」まで読んで、あとは読むのをあきらめた。巻頭の「青幻」には刺戟を受けたので、もっと読みたいと思ったのだが目がついていかない。
その「青幻」。
定義されることばは非情にすぎない
という反問の中で我々の関係は風化する
「定義されることばは非情にすぎない」が「反問」であるかどうか、わからない。何に対する「反問」なのか、わからない。ある断定(定義)と、「反問」。「問い」という「反論」があるのだろうが、先行する「こと」がわからない。わからないまま「我々の関係は風化する」と断定される。「関係」が「事実」として突然あらわれる。しかもその「関係」は「風化する」という形で否定されていく。「風化する」という動詞が、そこで起きている「こと(事実)」になる。
「存在」が否定されるとき、残されるのは、ことばのリズム。強い。リズムが「論理」であると主張しているように感じられる。
言い直しなのか、補足(付け加え)なのか、これもわからないまま、ことばはリズムを守ってつづいていく。
機能の逆転かもしれない
我々の関係に浸透するしか
視つめることのできない偏光に在る
ひとつから派生した幻想に語られる可能性は
無為の証明と訣別の破裂音でしかない
「漢字熟語」は「意味」を強引に呼び込む。「表意文字」が重なり「意味」が増幅する。ただし、わかるのは「意味」が過剰に増えているということだけであり、「意味」そのものは、私にはわからない。
「意味」の増え方のリズムが「一定」している。「安定」している、と感じる。このリズムに酔ってしまう。
リズムが高じて、「視つめる(視力/視覚)」でとらえられていたものが、「破裂音」と聴覚へ直結する。この飛躍に詩の強さがある。ここが、自然体の中でいちばん美しい。
私は「音読」はしないから、漢字熟語「視覚」のリズムに酔うと言い換えることができる。それが「視覚」のリズムだからこそ、私は、この本を読みづらいとも感じる。
このリズムがこのままつづくとおもしろい。「視覚」から「聴覚」へ飛躍した「肉体」が、さらに暴走し、輝くとすばらしいと思う。
けれど、違ってきてしまう。
カオスから取り出す点(ピリオド)はカオスに還るだろうか
一行の中で「カオス」ということばが繰り返される。それまでの、先行することばを内側から突き破っていくリズムが崩れ、循環してしまう。カタカナの登場も漢語のリズムを「視覚」で破壊する。つまずかせる。
繰り返しそのものについてならば、これまでにもあった。「関係」ということば、「我々の関係」はすでに繰り返されている。しかし、これは「テーマ」なので繰り返されるのはしかたがない面がある。
このリズムの破綻は、その後、突然「意味」に変わってしまう。音楽を拒み、「意味」の重力へと傾いていく。
いつまでも平面であり
いつまでも線(ウェーブ)であり
立体構成のない我々の関係の風化は冷却する
「点→線→平面→立体」というのが算数(数学)の「経済学」だが、それは「ウェーブ」というルビが持ち込む「意味」と一緒にずらされる。「ずれ」というのか「差異」というのか、私は知らないけれど、そういうものをとおして「関係の風化」が語られなおす。そして、「予定調和」のように、ことばが変転し、運動がおさまっていく。
「意味の重力」はとても強い。
訣別がもたらした風化は冷却により除去(のぞ)かれ
我々の関係の成立条件は
影と砂の国の彼方
息吹くほほえみのうちに
極めて遠く
窮めて近い
白星雲を超えて在る
これは「カオス」の繰り返しと、その直後の2行「いつまでも平面であり/いつまでも線(ウェーブ)であり」(……である)が引き起こしたものである。
ことばの表記の変化と一緒に「動詞」の「形」が違ってきてしまった。「動詞」が「動き」から「状態」へと固定化され始めたのである。平面に「なる」、線に「なる」という「動き」を含んだものではなくなった。
弛緩したリズムを書朝敵に具体化するのが「除去(する)」を「のぞく」と読ませるところにあらわれている。
終わりの方の「極めて」「窮めて」の書き分け、「差異(ずれ)」をさらに細分化するものであり、「白星雲」というような「宇宙」が出てきても、コップの中の水のみだれのようにしか感じられない。
書き出しの七行の、動詞が動詞がぶつかり合い、先行する動詞を次の動詞が突き破っていく烈しさが、そのままつづけば楽しいと思う。灰色と金赤の色の衝突も一瞬の内に過ぎ去る感じになるかもしれない。固定化が始まり動きがゆるくなると、目の悪い私には「金赤」と「灰色」の衝突しか見えなくなる。どうにもつらいものがある。
![]() | ここはいつも冬 |
クリエーター情報なし | |
土曜美術社出版販売 |