詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

海東セラ『ドールハウス』

2021-01-05 09:54:51 | 詩集

海東セラ『ドールハウス』(思潮社、2020年11月30日発行)

 海東セラ『ドールハウス』は、まだ途中まで読んだだけだが、ことばは「家」の内部を動き回る。動き回りながら、家の中に「ことばの家」をつくる。とてもおもしろいと思う。ただ、私は目が悪いので、この詩集のような小さな文字を読むのは骨が折れる。何よりも、目そのものが、くじけてしまう。
 巻頭の「下廻り階段」の後半に、こういう部分がある。


            せまくて急で手摺りも滑り止め
もなく、ひとりがたまに足を滑らせて見うしない、下から
3段目の弧をえがいた段板で止まると、意識は遅れて降っ
てきます。いったいどうして? ほかに落ちるひとはいな
いのですから、もういちど巻きもどしてみなければわかり
ません。


 この部分は、ことばの運動が「おもしろい」わけではないが、海東のこの詩集を「自己解説」しているような感じがする。「もういちど巻きもどしてみなければわかりません」と海東は書くのだが、そのことばに従って、いままで読んできたことを「もういちど」巻きもどしてみる。「巻きもどす」も特徴的なことばだが、それを強調するのが「もういちど」である。
 「ことば」は一度では何が起きたのかわからない。ときに「いったいどうして」という「理由(自分が納得できる理由)」がわからない。一度読んだ部分を「もういちど」読み直す。すると、先に読んだことばが描いていた世界に重なるようにして、もうひとつの世界が見えてくる。それはより正確に見ることなのか、それとも新しい錯覚の世界へ深く入り込んでいくことなのか。
 これを海東は、読者とは違って、「書く」という行為で実行している。
 作品は、いま、ここに「一篇」の形として存在する。しかし、それは「一回」書かれたものではなく、「もういちど」書かれたものなのだ。
 言い直すと、この詩集は「家」を書いているのではなく、「家を書く」ということを書いているのである。「書く」ということはどういうことかが問われているのである。
 「ドールハウス」というのは、私はよく知らないが、私の知っている限りで言えば、小さな家のおもちゃである。その家にはたとえば食器棚があり、食器棚のなかには小さなコーヒーカップがあり、テーブルの上にはできたばかりの玉子焼きまである。ミニチュアの世界。それは「家」ではなく「家」というものがどういうものであるかを「生活」をふくめて語り直したものである。「ドールハウス」をつくった人の「見ている家」である。
 「ドールハウス」は「ことば」でできているわけではないが、海東の『ドールハウス』は「ことば」でできている。いや、「書く」という「ことばの運動」でできている。そういうことを明らかにするのが「もういちど巻きもどしてみなければわかりません」ということばなのである。これが、この詩集の「キーセンテンス」であり、そのキーセンテンスの中のさらに「キーワード」が「もういちど」なのである。「もういちど」はなくても「意味」は同じ。しかし、「もういちど」は海東にとって、どうしても書かずにはいられなかった「肉体になってしまった思想」なのである。
 「もういちど」巻きもどす、最初からみなおす、そういうとき、何が見えるか。「デッドスペース」という作品が象徴的である。「デッドスペース」が見えてくるのである。つかわれていなかったもの(見落としていたもの)がそこに存在することが見えてくる。そして、それを発見した途端に、それを使いたくなってしまう。それは、自分のなかにある「欲望」の発見かもしれない。「デッドスペース」を「デッドスペース」のままにしておけない。「もういちど」使い方を考え直してみる。
 でも、ことばにとって「デッドスペース」とは何?
 海東は、とてもおもしろい「書き方」をしている。「ことば」を選んでいる。


だんだんと上ってゆく階段の裏側が階段下の小部屋にあら
わになり、剥きだしになったその部分は、ふいに現れて消
える鳥の後ろ姿に似て、支えられてあるのか吊られてある
のか、解けない謎があるとしたら階段の自立についてです
けれど、どことなくリズムのようであり詩のようであり、
こうして2階の精神性は日ごと夜ごと漂いつつ形成される
一方で、階段下の余白はすぐ動線や陽当たりの事情をまぬ
がれ得ぬものとなり、(略)


 「デッドスペース」は「余白」であり、そこを何かが占有するとき(そこが何かにつかわれるとき)、それは「支えられてあるのか」「吊られてあるのか」どちらとも定義することができる。つまり、「ことば」が存在を決定するということが起きる。存在が「ことば」を決定するのではなく、「ことば」が存在を決定し、その瞬間に「デッドスペース」は「生きたスペース」となる。
 この「ことば」の力。これを海東は「精神(性)」と呼んでいる。「デッドスペース」は二階へつづく階段の下(一階の小部屋)にある。その「デッドスペース」を「生きた空間」にした瞬間に、二階の部屋の何が変わるか。「物理的」には何も変わらない。「デッドスペースを生かした」という「意識(精神)」の動きだけがかわる。それは何も「二階の部屋」に限定されるものではないが、どこかに限定しようとすれば二階の部屋である、というのが海東の「思想=精神」なのである。
 「精神(性)」は、およそ「ドールハウス」というおもちゃには似つかわしくないと、私は思っているが、そうではない、と海東は言うだろう。そして、その「そうではない」という主張がつぎの部分で「暴走」する。二階ではなく、「階段下の小部屋」では「精神性」と呼ばれなかったもうひとつの「精神(性)」がのたうちまわり、その空間を「もういちど」デッドスペースにしてしまう。しかもそのときのデッドスペースはつかわれない空間ではなく、もうつかえない空間という「デッドスペース」にかわっていく。
 「ことば」はいつでも「二重の意味」をもっている。「二重」を生きている。そういうことろふ踏み込んで行く。この「暴走」こそが、詩であり、「ことば」の欲望であり、また「いのち」の欲望というものだろう。


  階段のその部位に頭をぶつけてしまうとき、余剰のう
れしさより削られた空間への無念がもたげることこそが、
潜在する階段の犠牲性といえますが、気にとめられること
なく棚は吊られ、(略)

            余白だった場所が部屋のすべて
におよぶ、これら渾沌は住まうひとらの表象とおぼえるべ
きで、余剰の生かし方は殺し方であることを、埋もれても
埋もれずに中空をよぎる階段は示唆するのかもしれず、(略)


 「余剰」「潜在」「犠牲(性)」「渾沌」「表象」「示唆」。突然、増え始めた感じ熟語が、なんとも楽しい。漢字熟語が「精神(性)」であるというつもりはないが、「精神」ということばに誘い出されて、こうしたことばが動いていると私は思った。
 こういう「ことば」は、「もういちど」何かを語り直したときに、意識を整えるものとして動き始めるのだと私は感じている。そして、読み直してみれば、こういう「ことば」は、最初に引用した「下廻り階段」にも「意識」という表現であらわれている。「ドールハウス」というおもちゃを、おもちゃではない、精神なのだという思想で「もういちど」語り直したもの、「現実の素材」と「精神のことば」が拮抗しながら、「家」を「ことばの家」として建築しているのが、この詩集なのだと思った。








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