朝吹亮二『まばゆいばかりの』(2)(思潮社、2010年08月20日発行)
と、書くとき朝吹は「空隙」を認識できている。しかし、
と書き直すとき、「空隙」(あわい)は、どこにあるかわからない。不明・不在である。もともと「さん」と固有名詞を省略した敬称だけの存在である「あなた」は不明・不在である。「どこ」というものは存在しない。ただ「さん」という敬称の、その私ではないものへの「思い」の、そのベクトルのなかに存在する。
方向と、運動、その総和としてのエネルギーのなかに存在するだけである。エネルギーには、もちろん「空隙」はない。だから、朝吹は、最初から「不可能」を書いているのである。「不可能」なことばの運動と、運動の方へ(?)駆り立てているのである。
ここから、ことばはどこへいくことができるか。どんな地平を切り開くことができる。
たぶん、松浦寿輝ならその地平と、さらにその向こうについて(つまり朝吹のことばが切り開く先について)、的確に表現できるだろうと思う。
私は、この詩集はとてもすばらしいものだと思うけれども、ていねいに朝吹のことばを追いかけてはいけない。つまずく。そのつまずきのことを書いておく。
「植物譜」という作品。その冒頭。
この尋常ではない美しさは「シモバシラ」、とくに「薄雪草」という非日常の、記憶のことばに起因している。朝吹は、そういうことばをつかうかもしれない。そういう光景を見るのかもしれない。朝吹には日常かもしれないが、私には日常ではない。
そこに、それこそ「朝吹」と「あなた」、空隙としての「さん」のようなものがあるのだけれど……。
そして、その「空隙」(日常と、非日常の切断面のようなもの)のなかにあるのは、その美しさは、「もの」ではなく、「ことば」である。それも「もの」が失った「ことば」である。「シモバシラ」はまだ「もの」でありうるが、「薄雪草」は「もの」でもなけれ「ことば」でもない。「もの」が失った「ことば」である。
私には、朝吹の詩は、「もの」が失った「ことば」を、「さん」のなに見つけ出し(そして、触れ)、その消えてしまった痕跡を追いかけているように見える。その失われた「ことば」を見る視力、そしてその消えてく「ことば」に触れる触覚の繊細さに、私はどきどきしてしまうが、一方でつまずいてしまう。
あ、それは最初から「ことば」であり、「もの」であったことはないのではないのか、と--こういう部分で感じてしまうのである。「地誌」「図譜」「記譜」。「もの」を記憶に定着させるための「誌」「譜」としての「ことば」。
そのとき、私は感じてしまうのだ。
たとえば「シモバシラ」。それは「シモバシラ」として存在したのか。「薄雪草」として、朝吹の「肉体」とかかわったのか。朝吹の肉体が最初に出会ったのは「シモバシラ」だったのか、「薄雪草」だったのか。そのことが、とても気になるのである。
朝吹の「肉体」が知っているのは「シモバシラ」であり、「薄雪草」は「肉体」ではなく、たとば「地誌」「図譜」「記譜」につらなる「他人の記憶(記憶のためのことば)」としてやってきたものではないのか。
そうであるなら、そこには最初から「空隙」(あわい)は存在する。
切断と接続と、その接点としての生成--そんなふうにして朝吹のことばをとらえるとき、切断に対する朝吹のかかわりかたが、「切断する」という朝吹からの働きかけを欠いたものではないのか、最初から「切断されている」のではないのか、ということが、ふと気にかかり、そこにつまずくのである。
切断する--そのとき、「もの」か「ことば」かどちらかわからないが、切断されるものは悲鳴を上げるだろう。肉体はその悲鳴を聞くだろう。その悲鳴は肉体を傷つけるだろう。--その悲しい体験が、私には朝吹のことばから感じられない。
切断はすでに存在する。過去、というか、記憶として存在していて、そこではもう「悲鳴」は乾いていて、肉体に触れてこない。肉体に反逆してこない。たとえば血のように絡みついてきて、朝吹に「殺人者(切断者?)」の刻印(証拠?)を残さない。朝吹は、ようするに、手を洗わなくていい。体を洗い清めなくてもいい。
「無罪」である。
「無罪」が完璧に保証されている「場」に立って、ことばを動かしている。
私の読み方は「誤読」を超えて、「いじわる」かもしれない。反省しなければ……と思うが、まあ、そんな反省とは無関係に、朝吹のことばは美しい。美しすぎるから、そしてその美しさは私の「いじわる」くらいでは傷つかないとわかっているから、私は、ついつい書いてしまう。
何はともあれ、2010年を代表する詩集であることは間違いない。(と、私は確信している。)私の感想など無視して、ぜひ、詩集を手にして、実際に読んでください。

ねえ、さん
あなたの空隙はそのまま私
の触れることのできるすべてなのです (「日録」)
と、書くとき朝吹は「空隙」を認識できている。しかし、
さん、私はいったい
どこのあわいにあなたを追いかけているのか
と書き直すとき、「空隙」(あわい)は、どこにあるかわからない。不明・不在である。もともと「さん」と固有名詞を省略した敬称だけの存在である「あなた」は不明・不在である。「どこ」というものは存在しない。ただ「さん」という敬称の、その私ではないものへの「思い」の、そのベクトルのなかに存在する。
方向と、運動、その総和としてのエネルギーのなかに存在するだけである。エネルギーには、もちろん「空隙」はない。だから、朝吹は、最初から「不可能」を書いているのである。「不可能」なことばの運動と、運動の方へ(?)駆り立てているのである。
ここから、ことばはどこへいくことができるか。どんな地平を切り開くことができる。
たぶん、松浦寿輝ならその地平と、さらにその向こうについて(つまり朝吹のことばが切り開く先について)、的確に表現できるだろうと思う。
私は、この詩集はとてもすばらしいものだと思うけれども、ていねいに朝吹のことばを追いかけてはいけない。つまずく。そのつまずきのことを書いておく。
「植物譜」という作品。その冒頭。
ない、あたらしい朝
なんて
光、あふれて青ざめる
何も
ない季節にも冬の朝という時間もあった冬の早朝の植物譜にはシモバシラが記憶されていてしかもこれは薄雪草ではないのだ
この尋常ではない美しさは「シモバシラ」、とくに「薄雪草」という非日常の、記憶のことばに起因している。朝吹は、そういうことばをつかうかもしれない。そういう光景を見るのかもしれない。朝吹には日常かもしれないが、私には日常ではない。
そこに、それこそ「朝吹」と「あなた」、空隙としての「さん」のようなものがあるのだけれど……。
そして、その「空隙」(日常と、非日常の切断面のようなもの)のなかにあるのは、その美しさは、「もの」ではなく、「ことば」である。それも「もの」が失った「ことば」である。「シモバシラ」はまだ「もの」でありうるが、「薄雪草」は「もの」でもなけれ「ことば」でもない。「もの」が失った「ことば」である。
私には、朝吹の詩は、「もの」が失った「ことば」を、「さん」のなに見つけ出し(そして、触れ)、その消えてしまった痕跡を追いかけているように見える。その失われた「ことば」を見る視力、そしてその消えてく「ことば」に触れる触覚の繊細さに、私はどきどきしてしまうが、一方でつまずいてしまう。
さんが笑いながら話すイタリアの思い出それは地誌だったり中世の図譜だったりリディア旋法の記譜だったりするのだが
あ、それは最初から「ことば」であり、「もの」であったことはないのではないのか、と--こういう部分で感じてしまうのである。「地誌」「図譜」「記譜」。「もの」を記憶に定着させるための「誌」「譜」としての「ことば」。
そのとき、私は感じてしまうのだ。
たとえば「シモバシラ」。それは「シモバシラ」として存在したのか。「薄雪草」として、朝吹の「肉体」とかかわったのか。朝吹の肉体が最初に出会ったのは「シモバシラ」だったのか、「薄雪草」だったのか。そのことが、とても気になるのである。
朝吹の「肉体」が知っているのは「シモバシラ」であり、「薄雪草」は「肉体」ではなく、たとば「地誌」「図譜」「記譜」につらなる「他人の記憶(記憶のためのことば)」としてやってきたものではないのか。
そうであるなら、そこには最初から「空隙」(あわい)は存在する。
切断と接続と、その接点としての生成--そんなふうにして朝吹のことばをとらえるとき、切断に対する朝吹のかかわりかたが、「切断する」という朝吹からの働きかけを欠いたものではないのか、最初から「切断されている」のではないのか、ということが、ふと気にかかり、そこにつまずくのである。
切断する--そのとき、「もの」か「ことば」かどちらかわからないが、切断されるものは悲鳴を上げるだろう。肉体はその悲鳴を聞くだろう。その悲鳴は肉体を傷つけるだろう。--その悲しい体験が、私には朝吹のことばから感じられない。
切断はすでに存在する。過去、というか、記憶として存在していて、そこではもう「悲鳴」は乾いていて、肉体に触れてこない。肉体に反逆してこない。たとえば血のように絡みついてきて、朝吹に「殺人者(切断者?)」の刻印(証拠?)を残さない。朝吹は、ようするに、手を洗わなくていい。体を洗い清めなくてもいい。
「無罪」である。
「無罪」が完璧に保証されている「場」に立って、ことばを動かしている。
私の読み方は「誤読」を超えて、「いじわる」かもしれない。反省しなければ……と思うが、まあ、そんな反省とは無関係に、朝吹のことばは美しい。美しすぎるから、そしてその美しさは私の「いじわる」くらいでは傷つかないとわかっているから、私は、ついつい書いてしまう。
何はともあれ、2010年を代表する詩集であることは間違いない。(と、私は確信している。)私の感想など無視して、ぜひ、詩集を手にして、実際に読んでください。
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