フランシス・フォード・コッポラル監督「ゴッドファーザー」(★★★★★)
監督 フランシス・フォード・コッポラ 出演 マーロン・ブランド、アル・パチーノ、ジェームズ・カーン、ロバート・デュバル、ダイアン・キートン
語り尽くされた作品。私も何度か感想を書いた。もう書くこともないのだけれど、スクリーンで見る機会はもうないだろうから、少しだけ書いておく。
とても手際のいい作品。いくつものエピソードがとても自然に組み合わさっていて、なおかつ、それぞれのシーンでの人物の描き方がしっかりしている。ストーリーの要素として動いているというよりも、そこに人間がいる感じがする。
今回特に感じたのがダイアン・キートンの出てくるシーン。アル・パチーノと一緒に、アル・パチーノの妹(姉?)の結婚式へやってくる。幼稚園だか、小学校の先生なので、「ゴッドファーザー」一家の雰囲気になじめない。その「違和感」をさりげなく、しかし、しっかりとスクリーンに定着させている。カメラアングル、フレームのとり方に力がある。浮いていない。結婚式の片隅で、そこだけ違った世界になっている。アル・パチーノは状況がわかっているから、いわば「秘密」を隠す感じの演技をしている。ダイアン・キートンはアル・パチーノにあれこれ質問をする。ダイアン・キートンが「攻め」の演技、アル・パチーノが「受け」の演技ということになるのかもしれないが、ダイアン・キートンが演じると逆になる。「秘密」というか「違和感」に気づきながら、アル・パチーノに声をかけるのだが、それが「受け」になっている。質問攻めなのだが、答えが返ってくるのを受け止めるという印象が強い。アル・パチーノの「苦悩」が引き立つ。
一家の秘密を知り、さらにアル・パチーノが雲隠れしたことを知る。そのアル・パチーノの行方をたずねてくるシーンも好きだなあ。ロバート・デュバルが相手をし、「手紙を受け取ると、どこにいるか知っていることになるから受け取れない」と言われて、書いた手紙をそのままもって帰る。このときの、「組織対個人」というと大げさになるかもしれないが、「個人」の悲しみのようなものが、ふっとのぞく。アル・パチーノの妹の悲しみ、絶望の表現と比較すると、「個人」という感じがわかると思う。アル・パチーノの妹は夫の浮気に苦しんでいるが、彼女には「一家」がある。けれど、ダイアン・キートンには「家族」がない。「家族」になるはずのアル・パチーノは、どこかに隠れたままだ。もう一人の主要な女性、アル・パチーノが逃亡した先のシチリアの娘と比較しても同じことが言える。彼女にも「一家」がいて、さらに親類もいるのに、ダイアン・キートンは一人。「個人」としてアル・パチーノ「個人」に向き合っている。その「線の細さ」、なんとかつながりを引き寄せようとする感じが、情報を求めてロバート・デュバをたずねていく短いシーンにも、しっかりと表現されている。この時のフレームというか、全体の構造も好きだなあ。
アル・パチーノがシチリアから帰って来て、幼稚園で目をあわせるシーン。公園を歩くシーンもいい。
何よりも、ラストシーン。アル・パチーノが「ゴッド・ファーザー」になる瞬間を隣の部屋から見てしまうシーンもいいなあ。ダイアン・キートンは「一家」にはなれない。アル・パチーノと一緒に生きるけれど、「一家」にはなれず「個人」として生きている感じがとても象徴的に表現されている。ダイアン・キートンが頼りにするのは、最初から最後まで、彼女自身の、「個人」の感覚だ。「個人」であるからこそ、苦しい。「一家」にはなれない悲しさがある。
そして奇妙なことだが、この「個人」でしかないことの苦悩、絶望が、もしかすると「ゴッド・ファーザー」という「組織」を生み出していく要素だったかもしれないとも思えてくる。マーロン・ブランドが「ゴッド・ファーザー」になれたのは、アメリカに移住してきて(移民としてやってきて)、「個人」であることを知らされた結果、「個人」の限界をのりこえようとして手に入れたのが「組織」だったかもしれないとも感じさせる。こういう見方はロマンチックすぎるだろうけれど、ロバート・デ・ニーロが若い日のマーロン・ブランドを演じた「パート2」を思い出してしまうのである。ほんとうに求めているのは「組織」ではなく「個人と個人」のつながり。それが「集団と個人」に変わってしまうとき、ひとは、それとどう向き合うか。
「ゴッド・ファーザー」はいわば「男の映画」だけれど、そこに差し挟まれた「女」の部分が、とても切なく感じられる。
こういう感想になってしまうのは、ひとつには公開当初衝撃的だった殺しのシーン(暴力シーン)がいまは「ありきたり」になってしまって、そこに目が向かなくなっているからかもしれない。首を絞められた男が車のフロントガラスを蹴り破ってしまうシーン、そのガラスの割れ方など夢に見るほど美しく、あのシーンをもう一度見に行きたいと思ったくらいだったけれど。ジェームズ・カーンの車が高速道路の入口で蜂の巣になるシーン。アル・パチーノがレストランで二人を銃殺するシーン。いまでも、ほんとうに大好きだけれど。
(午前十時の映画祭、中洲大洋スクリーン3、2019年05月18日)
監督 フランシス・フォード・コッポラ 出演 マーロン・ブランド、アル・パチーノ、ジェームズ・カーン、ロバート・デュバル、ダイアン・キートン
語り尽くされた作品。私も何度か感想を書いた。もう書くこともないのだけれど、スクリーンで見る機会はもうないだろうから、少しだけ書いておく。
とても手際のいい作品。いくつものエピソードがとても自然に組み合わさっていて、なおかつ、それぞれのシーンでの人物の描き方がしっかりしている。ストーリーの要素として動いているというよりも、そこに人間がいる感じがする。
今回特に感じたのがダイアン・キートンの出てくるシーン。アル・パチーノと一緒に、アル・パチーノの妹(姉?)の結婚式へやってくる。幼稚園だか、小学校の先生なので、「ゴッドファーザー」一家の雰囲気になじめない。その「違和感」をさりげなく、しかし、しっかりとスクリーンに定着させている。カメラアングル、フレームのとり方に力がある。浮いていない。結婚式の片隅で、そこだけ違った世界になっている。アル・パチーノは状況がわかっているから、いわば「秘密」を隠す感じの演技をしている。ダイアン・キートンはアル・パチーノにあれこれ質問をする。ダイアン・キートンが「攻め」の演技、アル・パチーノが「受け」の演技ということになるのかもしれないが、ダイアン・キートンが演じると逆になる。「秘密」というか「違和感」に気づきながら、アル・パチーノに声をかけるのだが、それが「受け」になっている。質問攻めなのだが、答えが返ってくるのを受け止めるという印象が強い。アル・パチーノの「苦悩」が引き立つ。
一家の秘密を知り、さらにアル・パチーノが雲隠れしたことを知る。そのアル・パチーノの行方をたずねてくるシーンも好きだなあ。ロバート・デュバルが相手をし、「手紙を受け取ると、どこにいるか知っていることになるから受け取れない」と言われて、書いた手紙をそのままもって帰る。このときの、「組織対個人」というと大げさになるかもしれないが、「個人」の悲しみのようなものが、ふっとのぞく。アル・パチーノの妹の悲しみ、絶望の表現と比較すると、「個人」という感じがわかると思う。アル・パチーノの妹は夫の浮気に苦しんでいるが、彼女には「一家」がある。けれど、ダイアン・キートンには「家族」がない。「家族」になるはずのアル・パチーノは、どこかに隠れたままだ。もう一人の主要な女性、アル・パチーノが逃亡した先のシチリアの娘と比較しても同じことが言える。彼女にも「一家」がいて、さらに親類もいるのに、ダイアン・キートンは一人。「個人」としてアル・パチーノ「個人」に向き合っている。その「線の細さ」、なんとかつながりを引き寄せようとする感じが、情報を求めてロバート・デュバをたずねていく短いシーンにも、しっかりと表現されている。この時のフレームというか、全体の構造も好きだなあ。
アル・パチーノがシチリアから帰って来て、幼稚園で目をあわせるシーン。公園を歩くシーンもいい。
何よりも、ラストシーン。アル・パチーノが「ゴッド・ファーザー」になる瞬間を隣の部屋から見てしまうシーンもいいなあ。ダイアン・キートンは「一家」にはなれない。アル・パチーノと一緒に生きるけれど、「一家」にはなれず「個人」として生きている感じがとても象徴的に表現されている。ダイアン・キートンが頼りにするのは、最初から最後まで、彼女自身の、「個人」の感覚だ。「個人」であるからこそ、苦しい。「一家」にはなれない悲しさがある。
そして奇妙なことだが、この「個人」でしかないことの苦悩、絶望が、もしかすると「ゴッド・ファーザー」という「組織」を生み出していく要素だったかもしれないとも思えてくる。マーロン・ブランドが「ゴッド・ファーザー」になれたのは、アメリカに移住してきて(移民としてやってきて)、「個人」であることを知らされた結果、「個人」の限界をのりこえようとして手に入れたのが「組織」だったかもしれないとも感じさせる。こういう見方はロマンチックすぎるだろうけれど、ロバート・デ・ニーロが若い日のマーロン・ブランドを演じた「パート2」を思い出してしまうのである。ほんとうに求めているのは「組織」ではなく「個人と個人」のつながり。それが「集団と個人」に変わってしまうとき、ひとは、それとどう向き合うか。
「ゴッド・ファーザー」はいわば「男の映画」だけれど、そこに差し挟まれた「女」の部分が、とても切なく感じられる。
こういう感想になってしまうのは、ひとつには公開当初衝撃的だった殺しのシーン(暴力シーン)がいまは「ありきたり」になってしまって、そこに目が向かなくなっているからかもしれない。首を絞められた男が車のフロントガラスを蹴り破ってしまうシーン、そのガラスの割れ方など夢に見るほど美しく、あのシーンをもう一度見に行きたいと思ったくらいだったけれど。ジェームズ・カーンの車が高速道路の入口で蜂の巣になるシーン。アル・パチーノがレストランで二人を銃殺するシーン。いまでも、ほんとうに大好きだけれど。
(午前十時の映画祭、中洲大洋スクリーン3、2019年05月18日)
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