「ピカソ、その芸術と素顔」(みぞえ画廊、福岡市中央区、2017年04月04日)
「ピカソ、その芸術と素顔」はみぞえ画廊のリニューアルオープン記念で開かれてる。絵は「静物」と「男の顔」の2点。あとはロベルト・オテロの撮影したピカソの写真。
絵は、私は「男の顔」が好き。ピカソの作品には、なんといってもスピードがある。見るスピードが、他の画家よりもはるかに速い。速く対象をとらえてしまう。だから速く描ける。その速さのなかに、「対象が好き」という感情があふれている。「対象が好き」という気持ちが強くあふれている。「好きだから、描いた。ほら、見て」という子供の感覚。
と、抽象的なことを書いてもしようがないか。
「男の顔」では帽子のまわりの塗り残し(キャンパスの白が残っている)が鮮やかで美しい。太い太陽の光の輪郭のよう。反射のように。この太い塗り残しと、髭の、色を塗ったあとを引っかいてキャンバスの白を引き出す感じが呼応している。髭のもじゃもじゃが細い光を反射している。(髭の中の白髪、と見ることもできる)レンブラントなら、その光を繊細に、ていねいに描くだろう。光の変化を描くだろう。けれどピカソは一気に、乱暴に、あっと言う間に描いている。そこに「いのち」がある。単に光の変化(反射)というよりも、「肉体」のなかからあふれてくるエネルギーの発する力がある。そう思うと、帽子のまわりの白い光も、単に太陽の光というよりも、この男が全身で発しているオーラのようなものかもしれない。
顔の描き方というか、目、鼻、口の形が、またおもしろい。目は、どう見たって女の性器である。男が女の裸を見て(特に性器を見て)興奮している。だから、目が女の性器の形になる。目の周りの睫毛は、トイレの落書きの陰毛そのものである。瞳孔は、クリトリス。いいなあ。この、あからさまな欲望。もう、目はセックスをしてしまっている。鼻の穴も膨らみ、女の匂いをぞんぶんに吸い込んでしまっている。口からは舌が出てきそうだ。あらゆる穴という穴をなめつくしたように、唇は腫れている。
「静物」は何を描いているのだろう。中央のノートは本のようでもあるし、楽譜のようでもある。楽譜と思ってしまうのは、全体に「音楽」があふれているからだ。左に燭台があり、右にはカクテルグラス? 何よりも美しいのはバックに描かれている夜空の星。ピカソの視線のスピードは星の光よりも速いから、星が放出する光を「形」としてとらえてしまう。ピカソは星が放出している光の、その放射する光線の一本一本が見えてしまうのだ。私は目が悪くて、いまは夜空を見てもほとんど星をとらえることができないが、あ、昔、こういう星を見たことがあるなあ、と思い出してしまう。「肉体」のなかにある、若くて健康な力を思い出させてくれる。
写真を見ると、ピカソは「被写体」としても、とても魅力的であることがわかる。特に気に入ったのが、描いたばかりの絵を私人に見せているもの。男が女に襲いかかっている、スケベな絵。がき大将が優等生に「ほら」と見せている感じ。あるいは先生に「ほら」と突き出して、困らせている感じ。もっと真剣なのかもしれないけれど、私は、「無邪気」を感じる。「純粋」を感じる。
アンティーブのピカソ美術館での写真もある。あ、ここへ行った、去年はアンティーブとバローリスへピカソを見に行ったのだということを思い出したりもする。画家(作家)の生きていた場所(作品の舞台)を知ることは、作品を理解するために必要なこととは決して思わないが、そういう場所へ行ってみると、「気持ち」がかってに動くというのがおもしろい。ここにピカソがいたんだ、と思うと、何かピカソに会っているような気持ちになる。「錯覚」なんだけれど、錯覚は楽しい。
ピカソは着ているものもおしゃれだ。さすがに金があるだけあって、いいものを着ているということが写真からもわかる。セーターやシャツも、あ、これがほしいと思ったりする。そんななかにあって、白いブリーフにTシャツの写真もあったりする。思わず、じーっと見てしまう。変な趣味?
ジャクリーンと一緒の写真もある。ジャクリーンを見ながら、あ、見たことがある、と思う。「絵に似ている」と思う。そう思って当然なのだろうけれど、ピカソの人物はデフォルメされているから、この「似ている」は、ある意味で不思議。
で、どこが似ているか、と考えたとき、やっぱり「スピード」ということばが思い当たる。ジャクリーンのなかで動いている感情が顔に出てくるまでのスピード。感情が顔を動かしている。その感情の放出を、「静物」の星の光の放射のように、くっきりと、目に見えるように描いているからなのだと思う。「輪郭(形)」が似ているのではない。「似顔絵」ではない。顔のなかで動いている感情の動き、その強さが、絵とそっくりなのだ。絵がジャクリーンに似ているというよりも、ジャクリーンが絵に似ていると言った方が正確かもしれないとさえ思う。写真よりも絵の方がジャクリーンにそっくり、と「実物」を知らないのに、そんな奇妙なことを思ったりする。
2017年04月01日-04月16日の期間中、無料。ぜひ、どうぞ。客がいないので(?)、貸し切り状態でこころゆくまで見ることができます。
「ピカソ、その芸術と素顔」はみぞえ画廊のリニューアルオープン記念で開かれてる。絵は「静物」と「男の顔」の2点。あとはロベルト・オテロの撮影したピカソの写真。
絵は、私は「男の顔」が好き。ピカソの作品には、なんといってもスピードがある。見るスピードが、他の画家よりもはるかに速い。速く対象をとらえてしまう。だから速く描ける。その速さのなかに、「対象が好き」という感情があふれている。「対象が好き」という気持ちが強くあふれている。「好きだから、描いた。ほら、見て」という子供の感覚。
と、抽象的なことを書いてもしようがないか。
「男の顔」では帽子のまわりの塗り残し(キャンパスの白が残っている)が鮮やかで美しい。太い太陽の光の輪郭のよう。反射のように。この太い塗り残しと、髭の、色を塗ったあとを引っかいてキャンバスの白を引き出す感じが呼応している。髭のもじゃもじゃが細い光を反射している。(髭の中の白髪、と見ることもできる)レンブラントなら、その光を繊細に、ていねいに描くだろう。光の変化を描くだろう。けれどピカソは一気に、乱暴に、あっと言う間に描いている。そこに「いのち」がある。単に光の変化(反射)というよりも、「肉体」のなかからあふれてくるエネルギーの発する力がある。そう思うと、帽子のまわりの白い光も、単に太陽の光というよりも、この男が全身で発しているオーラのようなものかもしれない。
顔の描き方というか、目、鼻、口の形が、またおもしろい。目は、どう見たって女の性器である。男が女の裸を見て(特に性器を見て)興奮している。だから、目が女の性器の形になる。目の周りの睫毛は、トイレの落書きの陰毛そのものである。瞳孔は、クリトリス。いいなあ。この、あからさまな欲望。もう、目はセックスをしてしまっている。鼻の穴も膨らみ、女の匂いをぞんぶんに吸い込んでしまっている。口からは舌が出てきそうだ。あらゆる穴という穴をなめつくしたように、唇は腫れている。
「静物」は何を描いているのだろう。中央のノートは本のようでもあるし、楽譜のようでもある。楽譜と思ってしまうのは、全体に「音楽」があふれているからだ。左に燭台があり、右にはカクテルグラス? 何よりも美しいのはバックに描かれている夜空の星。ピカソの視線のスピードは星の光よりも速いから、星が放出する光を「形」としてとらえてしまう。ピカソは星が放出している光の、その放射する光線の一本一本が見えてしまうのだ。私は目が悪くて、いまは夜空を見てもほとんど星をとらえることができないが、あ、昔、こういう星を見たことがあるなあ、と思い出してしまう。「肉体」のなかにある、若くて健康な力を思い出させてくれる。
写真を見ると、ピカソは「被写体」としても、とても魅力的であることがわかる。特に気に入ったのが、描いたばかりの絵を私人に見せているもの。男が女に襲いかかっている、スケベな絵。がき大将が優等生に「ほら」と見せている感じ。あるいは先生に「ほら」と突き出して、困らせている感じ。もっと真剣なのかもしれないけれど、私は、「無邪気」を感じる。「純粋」を感じる。
アンティーブのピカソ美術館での写真もある。あ、ここへ行った、去年はアンティーブとバローリスへピカソを見に行ったのだということを思い出したりもする。画家(作家)の生きていた場所(作品の舞台)を知ることは、作品を理解するために必要なこととは決して思わないが、そういう場所へ行ってみると、「気持ち」がかってに動くというのがおもしろい。ここにピカソがいたんだ、と思うと、何かピカソに会っているような気持ちになる。「錯覚」なんだけれど、錯覚は楽しい。
ピカソは着ているものもおしゃれだ。さすがに金があるだけあって、いいものを着ているということが写真からもわかる。セーターやシャツも、あ、これがほしいと思ったりする。そんななかにあって、白いブリーフにTシャツの写真もあったりする。思わず、じーっと見てしまう。変な趣味?
ジャクリーンと一緒の写真もある。ジャクリーンを見ながら、あ、見たことがある、と思う。「絵に似ている」と思う。そう思って当然なのだろうけれど、ピカソの人物はデフォルメされているから、この「似ている」は、ある意味で不思議。
で、どこが似ているか、と考えたとき、やっぱり「スピード」ということばが思い当たる。ジャクリーンのなかで動いている感情が顔に出てくるまでのスピード。感情が顔を動かしている。その感情の放出を、「静物」の星の光の放射のように、くっきりと、目に見えるように描いているからなのだと思う。「輪郭(形)」が似ているのではない。「似顔絵」ではない。顔のなかで動いている感情の動き、その強さが、絵とそっくりなのだ。絵がジャクリーンに似ているというよりも、ジャクリーンが絵に似ていると言った方が正確かもしれないとさえ思う。写真よりも絵の方がジャクリーンにそっくり、と「実物」を知らないのに、そんな奇妙なことを思ったりする。
2017年04月01日-04月16日の期間中、無料。ぜひ、どうぞ。客がいないので(?)、貸し切り状態でこころゆくまで見ることができます。