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詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

粕谷栄市『遠い川』(8)

2010-11-23 23:59:59 | 詩集
粕谷栄市『遠い川』(8)(思潮社、2010年10月30日発行)

 「夢」は「日常を超えてやってくる、特別の時間」である。そういうとき、「日常」とは何か。「日常」ということばはよくつかうが、定義は難しい。あまりにも「日常」にからみつきすぎていて、「定義」しようとする意識が持てない。
 その定義が不能な「日常」と「夢」についてあれこれ思っていると「丙午」という詩に出会う。

 若し、おれが、その丙午の歳、午の日、午の刻に生ま
れていたら、おれは、太鼓の午の皮を張る職人になる。
 水飲み百姓の子沢山の家に生まれたおれは、十二歳か
ら、太鼓作りの親方について、撥棒で打たれながら、何
年もそのやり方を習う。二十四歳で、やっと一人前の太
鼓作り、それも、専ら太鼓の皮を張る職人になる。
 それからは、毎日、そのことばかりに明け暮れる。つ
まり、おれは、殺された午の皮を剥いでは、板に釘で打
ちつけ、干して、鞣して、さらに、それを裁って、太鼓
に張る仕事を、朝から晩まで、やるわけだ。

 ここには「日常」が出てくる。定義されている。「毎日、そのことばかりに明け暮れる。」つまり、日々繰り返されることが「日常」である。しかして、その日々繰り返されることが「日常」である、という定義には、とても変なところがある。
 いま引用した部分だけでははっきりしないというか、読み落としてしまうかもしれないが、次の部分に逆照射(?)されるようにして読み返すと、引用部分の「日常」がとても変であることがわかる。
 そして、この逆照射することばのなかに「夢」も出てくる。
 --ここから、「日常」と「夢」と、「日常の超越」との関係が少し見えてくるかもしれない。

 しかし、おれは、その丙午の歳、午の日、午の刻に生
まれなかった。だから、おれは、午の皮の太鼓とは、全
く、縁のない歳月を生きている。
 代わりに、色町の顔色の悪い女ばかりに関わる年月を
過ごすようになっただけだ。あげくに、おれはその一人
を殺し、薄ら寒い春の夜明け、薄ら寒い刑房で、幾度と
なく、午の皮を剥いでいる自分の夢を見ている。

 繰り返されるものが「日常」という定義を、太鼓の皮張り職人の暮らしから引き出したが、その「日常」は現実の「日常」ではなかった。「若し、おれが、」という書き出しを注意深く読んでいれば、太鼓の皮張り職人の生活は「仮定」のものであることがわかるといえばわかるのだが、そういう「仮定」のものであっても、そこに「日常」はあり得る--ある、と錯覚できる。論理として。実際に繰り返されていなくても、繰り返されていると仮定すれば、その仮定が「日常」になる。
 もし、日常が、仮定であってもかまわないとしたら、では、その「日常を超えてやってくる、特別な時間」とは何だろう。何を超えてやってくるのだろうか。
 どんな日常も、そのこととは全く関係ない時間を生きながら日常として定義できるということは、どういうことだろう。しかも、その定義となった日常が「夢」で見られたものだとしたら、その日常と夢との関係は?

 たぶん冷静な読者ろら、私のような、こんなばかげた混乱に陥らないだろう。冷静な読者なら、ここに書かれている「日常」とは色町のいざこざで人を殺してしまって刑房にいるという暮らし、何もすることがない(?)男の暮らしが「日常」である。そして、「おれ」が太鼓の皮張り職人になっている、そして午の皮を剥いでいるという「夢」を見ているのである、と言うだろう。

 たしかにそれはそうなのだが、でも、そのとき、その「夢」のなかでの「日常」とはいったい何? 「日常を超えてやってくる、特別の時間」をやってくる「特別な時間」がまた「日常」という枠をもってしまうのはなぜ? 刑房のなかでの日常を超えてやってくる、特別な時間が、太鼓の皮張り職人という主語をもっているにしても、そこにまた同じように日々の繰り返しという日常があらわれるのはなぜ? 特別な時間の「特別」というのは、いったい、どこにある? 「特別」の定義は? 「特別」を支える根拠は?
 何か、わからなくなるなあ。
 それに「若し、おれが、」という書き出しで始まっているけれど、この「若し」が仮定の仮定だとしたら? つまり、ほんとうに太鼓の皮張り職人なのだけれど、仮定として「人殺し」の「おれ」を想定し、その「仮定のおれ」が「もし、おれが、」と仮定してことばを動かしているのだとしたら?
 太鼓の皮張り職人の方が「現実」であり、「人殺しのおれ」が一種の「夢」だとしたら?
 どちらが「日常」で、どちらが「夢」と、どうやって区別できるだろうか。
 かろうじての「根拠」というものは、次の部分にあるのかもしれない。

(この世に、午などという生きものが、その皮を張った太鼓
などというものが、本当に存在するのだろうか。)

 「午」は「馬」ではない。「午」は干支であり、方角であり、時刻である。それが「生きもの」ではないことはたしかである。「午の皮」というものが現実にないとすれば、太鼓張り職人の方が非現実、つまり「夢」ということになる。
 けれども、それでいいのかな?
 「非現実」は「日常」ではないだろう。しかし、非現実が「夢」とはいえるのかな?

 そんなことを思いながら読むと、最後の部分がとても不思議なことばに見える。そこから広がるイメージが--うーん、ことばを超えて動いていく。

 どこかで、でたらめな賽ころが転がって、その丙午の
歳、午の日、午の刻、結局、おれは、この世から消され
るのだと、そのとき、淋しく考えているのだ。

 「そのとき」というのは「午の皮を剥いでいる自分の夢を見ている」ときである。一方で、午の皮を剥いでいる自分の「夢」を見て、他方でこの世から消されるのだと「考え」ている。
 「夢」と「考え」は、どう違う?
 あ、そんなややこしいことは考えずに、簡単に書いてしまうと、私はこの最後の部分で、この世から消されるとき、「おれ」は「午」になっているのではないか、と思ってしまうのだ。想像してしまうのだ。「午」がある日、殺される。その午は皮を剥がれ、太鼓の皮になる。その午の皮を太鼓に張っているのが「おれ」だ。いや、おれは、おれが死んで「太鼓の皮になる午」そのものになることを夢見ているのだ……。「午」として殺される「おれ」をほんとうは「考えている」。
 こんなことは書いてないのだが、私は感じてしまう。考えてしまう。

 そのとき、思うのだ。「夢」は「日常を超えてやってくる、特別の時間」ならば、いま、こうして粕谷の詩を読むという「日常」を超えてやってくる、特別な時間、特別な「誤読」--それこそ、「夢」かもしれない。
 「日常を超えてやってくる、特別の時間」というものはないのかもしれない。あるのは、日常を超えてやってこさせる、特別の時間(誤読)なのかもしれない。人は何か「いま」「ここ」にないもを「やってこさせる」ことができる。呼び込むことができる。つくりだすことができる。
 ただし、その「やってこさせる」には何か人間の「意思」を超えたものが働く瞬間があり、そのために「やってくる」としか言えないのかもしれない。
 いや、それは「やってくる」ものに違いないのだけれど、ただ待っていても「やってくる」ということはない。「やってこさせよう」として何かをするときはじめて「やってくる」ものなのだ。そこには何かしらの「呼びかけあい」があるのだ。
 「丙午」に書かれているのは、その「呼びかけあい」かもしれない。



 この詩には一か所、「誤植」がある。詩の11行目(28ページ)。

 そう言ってしまえば、簡単だが、例えば、どんな牛の
皮を、どんな日に、どこに向けて干せばよいか。どんな
太鼓を、どんな鋲で止めるか、いろいろ苦労がある。

 「牛(うし)」とここだけ「午(うま)」ではない。だが、ほんとうに誤植? この一文字の「牛」のせいで「午」が実在の動物に--牛に見える、というのではなく、なんといえばいいのだろう、この詩自体が大いなる「誤植」のように見えてくる。
 ただし、ここで言う「誤植」は我田引水になるけれど、私がいつもいう「誤植」。
 わざとする「誤植」。「午」を実在させるために「牛」をまぎれこませるのだ。あえて、間違えることで、その間違いの先にある何かをつかみたいのだ。
 そういう無意識が、ここには隠れていないだろうか。



続・粕谷栄市詩集 (現代詩文庫)
粕谷 栄市
思潮社


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