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詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

峯澤典子『ひかりの途上で』

2013-09-11 10:53:13 | 詩集
峯澤典子『ひかりの途上で』(七月堂、2013年08月20日発行)

 峯澤典子『ひかりの途上で』は、ことばがていねいに動く。たとえば「初冬」。

寝台そばの
枯れかけた野菊を
わたしの…、と呼ぶと
花はもうそこにはいなかった
わたしの、と告げたのも
もはやわたしではなく 薄い霧の声
窓の外では
刈り残された花首が耐えられる分だけ
風が冷たくなっていた
けれど野には まだ何も訪れてはいない

 ここに何が書いてあるか。ここだけでは、わからない。そして、ここだけではわからなということは、実は前後を読んでもわからないということである。わからなくてもストーリーはつくれるから(ストーリーを捏造してそれなりになっとくできるから)、わかろうがわかるまいが関係はない--と書くと峯澤のことばに対して失礼かもしれないけれど……。
 けれど、ことばというのはストーリーに従属するものではないから、ストーリーはわきにおいておいていい。「意味」はあとから形になるまでうっちゃっておけばいい。
 ストーリーはわからないが、それでも「花(野菊)」と「わたし」のことばにならなかった何かがそこにあることがわかる。「…」としか書くことのできなかったもの(こと)がそこにあり、その「…」のなかにあるものに近づいていく感じはわかる。ことばが、その「…」を大事に追っている。
 そういう「ていねい」な動きと、その果てに、我慢できなくなってあらわれる「花首」という強いことば。「…」は「花首」そのものではないが、「花首」につながる何かなのだ。意識がそれをつないでいる--と書いてしまうと、都合のいい解説になるのだが、私は「意識」といわずに、「ことばの肉体」(ことば自身の運動)と呼んでいる。ことばのなかにはことばの肉体があり、それがていねいに動くことで作者(峯澤)を乗り越えて(峯澤からはみだして)、瞬間的に遠くにあることばをつかんでしまう。これをインスピレーションと呼ぶこともできるのだけれど、そういう瞬間に、詩がある。
「…」から「花首」に、ことばが変わる瞬間--それは峯澤には制御できないなにごとかである。だから、それを私は詩と呼び、「ことばの肉体」に還元して、つかみとりたいと思う。

 「袋」という作品はストーリーとことばのていねいさがとてもしっかりかみあった、わかりやすい作品である。ある外国の学生寮。そこでは学生たちが窓の外にビニール袋をぶら下げている。

部屋まで案内してくれた学生が言った
各階の共用の台所には冷蔵庫もあるが
バターやミルクなどは 密かに誰かにつかわれやすい
だから 共用を避けるひとは
ああやって自分の窓の外に下げ
冷たい空気に当てておくのだと

 そういう「習慣」を聞いたあと、峯澤は駅の売店でかった水やオレンジを袋から出すと、

からの袋を
外の格子に結びつけると
たやすく風になびいた

それから
マットレスがむき出しになったベッドのうえに
荷物をひとつひとつ解いていった
窓の外の
誰とも共有していないこころが
どこかに飛んでゆこうとする音を聞きながら

 その土地の「習慣」をていねいにことばでととのえ直しながら動くことば。そのことばが、最後に「共用」から「共有」に変わる。そしてそのとき「バターやミルク」といった「もの」は「こころ」に変わっている。
 「もの」と「こころ」が不思議な具合にすれ違い、まじりあう。
 その瞬間の、「ことばの肉体」の不思議な力。
 これはことばを乱暴に動かすときには生まれない力である。しずかに、ゆっくり、「ことばの肉体」の内部の筋肉や骨や神経を解放しながら動かすとき、ふいにその奥から肉体の外まで噴出してくる力である。
 「誰とも共有していない心」「どこかに飛んでゆこうとしている」ということばは、哀しみとセンチメンタルを誘うけれど(抒情を誘うけれど--そして、それは抒情でもいいのだろうけれど)、そういうストーリーに逃げ込まずに、「共用」「共有」ということばのなかで動く連絡にことばのすべてをあずけてみると、
 うーん、
 峯澤の「肉体」に触れたような気持ちになる。
 私のものではない「肉体」がそこにある、と気づき、どきどきするのである。

 「運ばれた花」は花屋の店先で見かけた薔薇を次のように描写する。

器から大きくこぼれ
手折られた苦しみの形を
乱暴に 解いてくれる風を待っていた

 このことばの動きが、公園で見かけた男の姿と重なる。そのまま公園で見かけた男を描写することばの運動になっていく。「ことばの肉体」はひとつだから、どうしても同じように動くしかないのである。マラソンランナーはいつでもマラソンランナーとして走るのであって、突然走り高跳びの助走のようにしては走らない。そんな具合に「肉体」は動かない。
 で、

少し波打った白髪まじりの髪と痩せた首筋
湿った長い手足を
雨上がりの匂いにさらし
手折られた姿で 風を聞いていた

 「手折られた」と「風」はそのまま繰り返される。反芻される。そのとき、もちろんことばはそっくりに見えて、ほんとうは微妙に違っているのだけど。
 違っているからこそ、ことばは、その違いを感じながら、次のように変化する。

視線を合わせるのも そらすのも
こうして花に姿を重ねるのも、不遜、と知りながら
目はなぜ瞬時に識別するのか
底に満ちる孤独を
底が深ければ深いほど
見つめたあとは すべもなく離れるしかないというのに

 「孤独」。この使い古された「詩語」が、しっかりした肉体であらわれてくる。センチメンタルな抒情(既製の、流通抒情)をおしのけて、静かにたたずむ。
 これはすべて、峯澤のことばが「ていねい」に動くからである。「ていねい」な動きの力である。




詩集 水版画
峯澤 典子
ふらんす堂

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