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詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

朽葉充『聖域』

2023-01-24 10:28:55 | 詩集

 

朽葉充『聖域』(澪標、2023年01月10日発行)

 朽葉充にとって『聖域』とは、ジャズと本とアルコールである。煙草、コーヒーも含まれるかもしれないが、何と言うか、これはある年代の「定型」である、と私は感じてしまう。その「定型」から、どれだけ逸脱して、ジャズ、本、アルコールそのものになれるか。反動のようにして、労働と大衆酒場(?=居酒屋の前進?)も書かれているのだが、それはそれで「定型」になってしまう。
 それがもっとも簡潔な形で「結晶」しているのが、「漂流」。

JAZZは
野良犬のように淋しい男のための音楽
ビクター・レコードのロゴ・マークのように
飼い馴らされた従順な犬ではなく
ゴミ箱をあさる犬でもなく
一匹のやせこけた狼の末裔よ
お前 俺よ!
吠えることも忘れ 牙をむくこともなく
ただ夜の街を 今日も漂流する

 「お前 俺よ!」が、その「定型」の基本である。「お前」を「俺」と思い込む。区別がつかなくなる。JAZZを例に言えば、表現された「完成形」を自己と同一視する。マイルスにしてもコルトレーンにしても、彼らの「音」は個別の存在であり、個別の到達点である。それは、聞く人間にとっての「理想」かもしれないが、それに陶酔し、自己同一視しても、それは聞いている人間が自分の精神を何かに到達させたということとは違うのである。「同化」という錯覚があるだけだ。
 私は先に「逸脱」ということばを書いたが、「定型」と「逸脱」の違いは、「同化」か「拒絶」かの違いである。
 朽葉はつぎつぎと「文学」に「同化」していく。「定型」を利用して「同化」していく。だから、ある意味では「詩」に到達しているように見える。この「漂流」は、その典型であるだろう。
 清水哲男が生きていたら百点をつけるかもしれないなあ、と思ったりする。
 百点をとる作品を書くことはむずかしいかもしれない。しかし、百点をつけることは、とても簡単である。「定型」をものさしにし、それにあっている、と言えばいいだけだからである。「漂流」に百点をつけても、多くのひとは文句を言わないだろう。だからこそ、私は「批判」を書いておきたい。

 「ブルー・ブラッド」も、とてもすっきりした作品である。タイトルは忘れたが、ガルシア・マルケスに同工異曲の「換骨奪胎作品」がある。男と女は、逆であるが、何よりも違うのは、死んでいく人間が主人公ではなく、生きつづける人間が主人公である。
 「敗北=詩/抒情/青春」は、あまりにも「定型」過ぎる。もう「文学」ではない。イコールにならないもの、「同化」できないものが重要なのだ。朽葉は、社会に同化できないいのちを書いたのかもしれないが、その「社会に同化できない/敗北者」を描くことが「抒情文学の定型」そのものなのである。それは現代の「悲劇」にはなれない。

 


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