三木清「人生論ノート」の「仮説について」。
仮説とは何か。「本当かどうかわからない説」というのが18歳のイタリア人の「定義」だった。
ここから、「仮説」の反対のことばは何かを考える。どういうときに「仮説」ということばをつかうか。
コペルニクスは、地動説を唱えた。最初は「仮説」(コペルニクスは、信じていたが)。それが「事実(真理)」になるまでに、どういうことがあったか。「論理」が正しいと「証明」できたとき、「仮説」が「事実/真理」になる、というようなことを雑談で話し合った後、本文のなかに出てくる「証明」ということばに注目するようにして読み進める。
三木清の書いている「仮説」は科学的な「仮説」ではなく、「思想(まだ認められていない行動指針)」を「仮説」と呼ぶことで論を展開したもの。
つまり、三木清は「仮説」とはどういうものであるか、というよりも、「思想」とはどういうものであるかを、「常識」と対比させて語っている。
「思想」とは「信念」であり、それはときには危険である。他人にとって危険というよりも、本人にとって危険である。そのことをソクラテスを例に、さらりと書いている。ソクラテスが従容として死に就いたのは、彼が偉大な思想家だったからである、と。
この論理展開の仮定で、三木清の好きな形成、構想、創造ということばが出てくる。これを18歳のイタリア人が、的確に読み進める。
私がいちばん驚いたのは、途中に出てくる「自己自身」ということばを「自分自身」と読み違え、すぐに気づいて「自己自身」と読み直したこと。「自己自身」を「自分自身」と読み違えることができるのは、完全にネイティブのレベル。意味は同じだから。「最初の文字を見たら、次の文字を連想して読んでしまう」というのだが、それができるのがネイティブ。
さすがに、ソクラテスのところに出てきた「従容」は読めなかったが、これを正確に読むことができる日本人がどれくらいいるか。「従容」をつかって「例文」をつくれる日本人が何人いるか。