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詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

若竹千佐子「おらおらでひとりいぐも」

2018-02-12 12:21:04 | その他(音楽、小説etc)
若竹千佐子「おらおらでひとりいぐも」(「文藝春秋」2018年03月号)

 若竹千佐子「おらおらでひとりいぐも」は第158回芥川賞受賞作。はっきり覚えていないが、選考会の一回目の投票で受賞が決まった、と報道されていたと思う。えっ、そんなにおもしろいのか。でも、そうならなぜ一作ではなく二作同時受賞になったのだろう。そういう疑問がなかったわけではなかったが。
 そして、「文藝春秋」を手に取って、若竹千佐子「おらおらでひとりいぐも」よりも先に、石井遊佳「百年泥」が紹介されているのはなぜだろう、とまた疑問に思ったのだが。
 まあ、読み始めてみる。(括弧内のページは「文藝春秋」のページ。ルビは省略)

 あいやぁ、おらの頭このごろ、なんぼがおがしくなってきたんでねべが
 どうすっぺぇ、この先ひとりで、何如にすべがぁ     (408ページ)

 東北弁ではじまっている。
 これを、こう受けている。

 桃子さんはさっきから堰を切ったように身内から湧き上がる東北弁丸出しの声を聞きながらひとりお茶を啜っている。ズズ、ズズ。        (409ページ)

 お茶をすする音まで東北弁である。
 おもしろいかもしれない。
 だが、ひとりぐらしの、だらしない生活に鼠の出没を描いたあと、こういう文章がある。

 去年の秋、十六年一緒に住んだ老犬が身罷ってからというもの、屋根裏と言わず、床下と言わずけたたましい。ついに同一平面上に出没往来するところとなり、今日などはこうして明るいまっ昼間。先住民の桃子さんを気遣ってか遠慮がちではあるが、音を醸すことに確固たる信念がある、ように聞こえる。        (410ページ)

 読む気をなくしてしまった。
 小説を構成する「文体」は三つある。
 (1)最初に引用した東北弁
 (2)標準語(?)と東北弁がすっと融合する文体。二つ目のお茶をすする文章。
 (3)むりやり「文章語」にしたような気取った文体。三つ目の引用。
 
 (3)の文体がひどい。「老犬が身罷った」「音を醸す」。これは、何語だ? 「老犬が死んだ」「音を立てる」では、なぜいけないのだろう。
 東北弁では「死ぬ」ということばはあまりつかわず、「身罷る」というのがふつうなのか。「音を立てる」と言わすに「音を醸す」というのか。
 古いことばが生活に生きているということは、たしかにある。
 私の田舎では「歯茎」のことを「はじし」と言った。これは「歯+肉」である。「座る」は「ねまる」と、いまでも言う。「ねばる(動かない)」くらいが語源か。「ねまる」は九州では「腐る」になるが、これも「動かない、役に立たない」という感じでつながっているかもしれない。
 もし、東北の人が「死ぬ」よりも「みまかる」と言う方が「親身」に聞こえるのなら、それは「親身」な文体のなかで書かれないと、「実感」として伝わってこない。お茶をすする「ズズ、ズズ」のような感じで、何か「凝縮した肉体」といっしょに動いていないと、何を言っているかわからない。
 読めば、確かに「身罷る」か、「死んだのだ」とわかる。しかし、「耳」は一瞬、「音」を聞き逃す。「声」になっていないからだ。
 「屋根裏」「床下」はいいが、「同一平面上」というようなことを、東北のひとは暮らしの中で「言う」か。つまり「声」にするか。「先住民」も同じである。こんなことばを「声」にして「会話」が成り立っているとは、私には想像できない。
 こんな文章は「嘘」である。「嘘」が露骨に出ると小説はおもしろくない。
 同じ文章のつづきに、こうある。

人の気配の途絶えたこの家で、音は何であれ貴重である。最初は迷惑千万厭っていたが、今となればむしろ音が途絶え部屋中がしんと静まり返るのを恐れた。(410ページ)

 「厭って」は「いとって」と読ませる。ルビがついている。この「厭って」(厭う)は「いやに思う」と「声」として入ってくる。「いや」と「いとう」のなかに「音」が交錯し、それがそのまま「感情の意味」として「肉体」に響いてくる。
 「厭う」というのは「気取っている」が、それが「肉体の古い層」というか「肉体」の奥を揺さぶるように動くので、あ、東北ではこういうのか、と納得できる。
 でも「同一平面上」とか「先住民」とか、とても東北の人か言うとは思えないし、「身罷る」とか「醸す」とか、犬や猫を描写するのに使うとも思えない。
 いやあな感じがする。

 夫が死んだあと、ジャズを聴きながら踊る場面がある。

 おまけに頭の中では
 オラダバオメダ、オメダバオラダ、オラダバオメダ、オメダバオラダ、オラダバオメダ、
 際限なく内から外から、音というか声というか、重低音でせめぎあい重なり合って、まるでジャズのセッションのよう。     (411ページ)

 「音」と「声」。その区別がつかなくなる。「音」が「声」という「肉体」そのもの、「いのち」になる。「いのち」が「肉体」の奥から噴出してくる。それが桃子さんを動かす。
 これが、たぶん、この作品のテーマである。「東北弁」の「音/声」そのものが「肉体」として動く。それが「標準語」を突き破り、新しい「文体の可能性」を切り開いていく。
 で、そういうことが「わかる」からこそ、気取った「標準語文体」、東北弁と無関係な「ことば/音」が気になってしようがない。
 「ことば」が「声」になっていない。「意味」でしかない部分がある。

 亭主に死なれた当座は周造が視界から消えたということより、周造の声がどこを探してもどこからも聞こえないということの方がよほど応えたのだった。(457ページ)

 というような部分を読むと「声(音)」が重要なテーマだとわかる。「声(音)」こそが「肉体」だと感じていることもよくわかる。そういうことを書きたいのだと、わかる。わかるからこそ、「意味」が「標準語」でもつかわないような「気取った」音として動いている部分が、嘘っぽいのである。
 460ページから461ページにかけて出てくる「桃子さんはつくづく意味を探したい人なのだ。」「桃子さんは戦いたい人間であった。」「桃子さんという人は人一倍愛を乞う人間だった。」というような「説明(解説)」にもうんざりした。

 東京へ出てきて働く。「わたし」と言おうとすると「一呼吸」おいてしまう。そういう「声」に関するおもしろい部分もあるのだが、気取った標準語が邪魔しすぎている。全体がとても長くていらいらする。全体を三分の一、できれば四分の一に削り込めば、もっとすっきりとした強い作品になると思う。「嘘」をばっさり削除すれば、読みごたえのある作品になると思うが、いまのままではひどすぎる。



 一か所、疑問に思ったことがある。「食べらさる」という「東北弁」に対する「解釈」である。一膳目のごはんを食べて、さて次にどうしようかと思案し、「食べらさる」と言って二膳目を食べ始める。

食べらさるとは国語的に正しい言い方なのだろうかと考えてしまう。食べらさる、桃子さんが考える受け身使役自発、この三態微妙に混淆して使われていて、敢えて言えば、桃子さんをして自然に食べしめる、とでもいうような、どうしても背後に桃子さんならざる者の存在を感じてしまう言葉の使い方なのだ。(471ページ)

 「受け身/使役/自発」というよりも、これは「敬語」なのではないのか。自分ではないだれか、それこそ延々とつづいている「いのち」そのものが二膳目を「食べられる」。桃子さんが食べるように見えて、実際は「いのち」そのものが「食べる」。その「いのち」への畏怖が「敬語」として動いているのではないのだろうか。「食べらっしゃる」の「しゃ」が「さ」になったのではないのか。
 (だれかが話す(しゃべる)ことを、私の田舎では「しゃべらっしゃる」というときがある。「話される」「お話しされる」だね。「しゃ」が言いにくくて「さ」になることもあるような気がする。これは、私の「耳」の体験。)
 ことば(声)には、そういう遠くつづいている「いのち」へのつながりがある。「声」をとおして、ひとは「いのち」になる。
 そんなことを思いながら読んだので(随所に、そういう部分を感じたので)、気取った標準語には、ちょっとむかむかしてしまった。「声」と「いのち」のことを書きながら、作者が別のことば(気取った標準語)で、それをたたきこわしている。

 どうも、この一作が芥川賞では弱すぎる。だから、大急ぎで二作受賞になるように先行をやりなおしたんだろうなあ、とも思った。



 少し脱線して書いておけば、東北弁で書かれたものとしては、新井高子編著『東北おんば訳 石川啄木のうた』(未來社)がはるかにおもしろい。ことば(意味)を「声(東北弁)」にかえすとき、その奥から「肉体」そのものがぐいっとあらわれてくる。
 この小説を読むくらいなら『東北おんば訳』を読んだ方が楽しい。ことばと声、肉体の関係がよくわかる。
 またことばは生活というならば、東峰夫の『オキナワの少年』(芥川賞)の方が傑作である。オキナワ英語とでも言うべきものが「声」としてしっかり書かれていた。


*


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目次

瀬尾育生「ベテルにて」2  閻連科『硬きこと水のごとし』8
田原「小説家 閻連科に」12  谷川俊太郎「詩の鳥」17
江代充「想起」21  井坂洋子「キューピー」27
堤美代「尾っぽ」32  伊藤浩子「帰心」37
伊武トーマ「反時代的ラブソング」42  喜多昭夫『いとしい一日』47
アタオル・ベフラモール「ある朝、馴染みの街に入る時」51
吉田修「養石」、大西美千代「途中下車」55  壱岐梢『一粒の』59
金堀則夫『ひの土』62  福田知子『あけやらぬ みずのゆめ』67
岡野絵里子「Winterning」74  池田瑛子「坂」、田島安江「ミミへの旅」 78
田代田「ヒト」84  植村初子『SONG BOOK』90
小川三郎「帰路」94  岩佐なを「色鉛筆」98
柄谷行人『意味という病』105  藤井晴美『電波、異臭、工学の枝』111
瀬尾育生「マージナル」116  宗近真一郎「「去勢」不全における消音、あるいは、揺動の行方」122
森口みや「余暇」129
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2016年の「象徴としての務め」メッセージにこめられた天皇の真意と、安倍政権の攻防を描く。
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問い合わせ先 yachisyuso@gmail.com
おらおらでひとりいぐも 第158回芥川賞受賞
クリエーター情報なし
河出書房新社

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