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詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

リッツォス「ジェスチャー(1969-70)」より(2)中井久夫訳

2009-01-13 00:35:24 | リッツォス(中井久夫訳)
少なくとも風が    リッツォス(中井久夫訳)

夜。食堂。シャンデリアに止まった蠅。
盆に止まった蠅。パンに止まった蠅。コップに止まった蠅。
老人はがつがつ食べる。他の皿をそっと盗み見る。
テーブル・クロスは白い。まっ白である。通りを吹き過ぎる風は
街灯を吹く風である。ああ、風。ひゅうひゅうと唸り、きらきらと光る長い筒よ。
壁にこっそり挿しこまれた筒。卓子の下の、大きな寝台の発条の間の筒。
舐める蠅と紙ナプキンと眠りを通ってすぎる風。おお、風だな、と老人は言った。
老人は匙を置いた。立ち去った。われらは夜っぴて彼の帰りを待った。
時折り、小さな氷のキューブを
枕元に置く水差しに落とし込みながら--。



 5行目の風の比喩が美しい。

ひゅうひゅうと唸り、きらきらと光る長い筒よ。

 風そのものが「筒」である。「筒」はいたるところにある。壁の中に、卓子の下に、そして寝台の発条の間にも。寝台のスプリングを「筒」とたとえたとは、とてもおもしろい。完全な「筒」の形をしていなくても「筒」なのである。中に空洞があれば、中を何かが通り過ぎることができれば、「筒」なのである。
 そうであるなら、人間は、どうであろうか。人間もまたひとつの「筒」ではないのか。人間の体の中を、食べ物が通り過ぎていく。そして、それは蠅も同じことである。生きている物はみんな「筒」を体の内に持っている。
 そして。
 風が「筒」の形で通り過ぎるなら、人間も、その「筒」のまま、風になることができる。風になって、どこかへ行ってしまうことができる。
 そうなのだ。老人は、そのことに気がついた。そして、立ち去ったのである。風になって。

 まだ「筒」の自覚のない人間が、老人の帰りを待っている。帰るはずのない、人間を待っている。「水差し」に氷を落としながら。「水差し」と「筒」の違いは、「水差し」には入り口はあるが出口がない。「水差し」は不完全な「筒」なのである。
 それは、ある意味では、生きている人間の不完全さを象徴しているかもしれない。




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