監督・脚本 犬童一心 出演 広末涼子、中谷美紀、木村多江、西島秀俊、鹿賀丈史
どこで撮影したのだろうか、雪の金沢は美しく撮れていた。一瞬の映像だけだが、そこだけがこの映画のいいところであった。
あとは、まったくだめ。映画になっていない。
小説は、これこれのことは実はこうでした--という説明があってもいい。読者はページをめくり直して、その伏線、その細部をもう一度読み返すことができる。けれど、映画、あるいは芝居では、実はこうでした、というのは「反則」である。実はこうでしたという説明のすべてがいけないわけではないが、その実はこうでしたということがらは、役者がスクリーンに映ったときから存在していなくてはならない。「過去」を背負っていなければならない。
この映画には3人の女が登場する。
広末涼子がまったくなってない。広末の役どころは他の2人と比べると「過去」を背負っていない。不幸がない。だからこそ、重要である。「過去」のない女がなぜ男に執着するか。大恋愛の末に結ばれた結婚ではない。見合いで、なんとなくひかれて結婚して、新婚1週間。その女が、行方不明になった男を探しにひとりで金沢へ行く。そうした行動に駆り立てる「過去」、男を愛しているという気持ちがどのシーンからもまったくあふれて来ない。男との見合いや、温泉でのキスシーンのことではない。そのシーンも感情が希薄だが、男がいなくなってからがもっとひどい。男がいないことによって、その「空白」に向かってあふれだすものがないとこの映画は成立しないのに、広末は単にストーリーの狂言回しになっている。いや、狂言回しにさえなっていないというべきかもしれない。
クライマックス(?)で末広が事件の全容を推理するシーンなど、単なる種明かしである。中谷美紀と木村多江の演技を殺してしまっている。(そこに演技というものがあると大目にみてのことだが……。)それに、もうひとりの重要人物、鹿賀丈史の「自殺」への推理(?)というか、種明かしは放り出したまま。だれかを愛する、愛することで自分が自分でなくなってもいい、というような「過去」がないから、そこでおこなわれていることは、全部、末広の「私って、純真だから、ね、かわいいでしょ」に終わってしまっている。私は一度も広末を「かわいい」とか「美人」と思ったことはないけれど……。だからこそ、その演技にぞっとするのかもしれないが。
この映画を無残にしているもうひとつの要素に、発音がある。舞台は金沢。能登。そこでは「が行」は「鼻濁音」である。木村多江はかろうじてイントネーションは再現していたが、やはり鼻濁音でつまずいている。他の役者たちも、そろって鼻濁音を発音しない。一生懸命、金沢、能登のイントネーションをまねてはいるけれど、とても耳障りだ。不自然だ。いっそう方言などまじえずに、標準語(?)で台詞を言えばいいのである。
映画にしろ、芝居にしろ、ことばで大事なのは「意味」ではなく、「音」そのものである。「音」が肉体にしみついているかどうかである。「喉」から声がでているかどうかではなく、たとえば目付き、たとえば指先から声が聞こえるかどうかである。そういうとき、「まね」によって作り上げた声は、ほんとうに「他人」とかさなっていないと、少しのずれからどんどん亀裂がはいっていって、肉体そのものをも壊してしまう。音と肉体が分離して、そこにストーリーだけが「活字」のように浮かび上がり、肝心の「芝居」(役者の肉体)が消えてしまう。
どこで撮影したのだろうか、雪の金沢は美しく撮れていた。一瞬の映像だけだが、そこだけがこの映画のいいところであった。
あとは、まったくだめ。映画になっていない。
小説は、これこれのことは実はこうでした--という説明があってもいい。読者はページをめくり直して、その伏線、その細部をもう一度読み返すことができる。けれど、映画、あるいは芝居では、実はこうでした、というのは「反則」である。実はこうでしたという説明のすべてがいけないわけではないが、その実はこうでしたということがらは、役者がスクリーンに映ったときから存在していなくてはならない。「過去」を背負っていなければならない。
この映画には3人の女が登場する。
広末涼子がまったくなってない。広末の役どころは他の2人と比べると「過去」を背負っていない。不幸がない。だからこそ、重要である。「過去」のない女がなぜ男に執着するか。大恋愛の末に結ばれた結婚ではない。見合いで、なんとなくひかれて結婚して、新婚1週間。その女が、行方不明になった男を探しにひとりで金沢へ行く。そうした行動に駆り立てる「過去」、男を愛しているという気持ちがどのシーンからもまったくあふれて来ない。男との見合いや、温泉でのキスシーンのことではない。そのシーンも感情が希薄だが、男がいなくなってからがもっとひどい。男がいないことによって、その「空白」に向かってあふれだすものがないとこの映画は成立しないのに、広末は単にストーリーの狂言回しになっている。いや、狂言回しにさえなっていないというべきかもしれない。
クライマックス(?)で末広が事件の全容を推理するシーンなど、単なる種明かしである。中谷美紀と木村多江の演技を殺してしまっている。(そこに演技というものがあると大目にみてのことだが……。)それに、もうひとりの重要人物、鹿賀丈史の「自殺」への推理(?)というか、種明かしは放り出したまま。だれかを愛する、愛することで自分が自分でなくなってもいい、というような「過去」がないから、そこでおこなわれていることは、全部、末広の「私って、純真だから、ね、かわいいでしょ」に終わってしまっている。私は一度も広末を「かわいい」とか「美人」と思ったことはないけれど……。だからこそ、その演技にぞっとするのかもしれないが。
この映画を無残にしているもうひとつの要素に、発音がある。舞台は金沢。能登。そこでは「が行」は「鼻濁音」である。木村多江はかろうじてイントネーションは再現していたが、やはり鼻濁音でつまずいている。他の役者たちも、そろって鼻濁音を発音しない。一生懸命、金沢、能登のイントネーションをまねてはいるけれど、とても耳障りだ。不自然だ。いっそう方言などまじえずに、標準語(?)で台詞を言えばいいのである。
映画にしろ、芝居にしろ、ことばで大事なのは「意味」ではなく、「音」そのものである。「音」が肉体にしみついているかどうかである。「喉」から声がでているかどうかではなく、たとえば目付き、たとえば指先から声が聞こえるかどうかである。そういうとき、「まね」によって作り上げた声は、ほんとうに「他人」とかさなっていないと、少しのずれからどんどん亀裂がはいっていって、肉体そのものをも壊してしまう。音と肉体が分離して、そこにストーリーだけが「活字」のように浮かび上がり、肝心の「芝居」(役者の肉体)が消えてしまう。
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