高橋睦郎『永遠まで』(6)(思潮社、2009年07月25日発行)
生と死、死と生の入れ替わり。そのことは、何度も小夜子が経験することである。服飾学校(?)で小夜子がつかみとった思想、高橋は小夜子となって生きなおす。
小夜子は古典の中のことばを生きなおす。それを遠い国の古いことばではなく、小夜子自身の子供時代の、なつかしい遊びのときの声として生きなおす。そうすることで、ふたたび、「お墓の住人」と出会うのだ。
教室でのモデル体験は、小夜子にとっては、ままごと遊びの反復であった。ひとが認めない「遊び」ではなく、ひとに認められる「遊び」。ひとに認められて、その「遊び」ま遊び」ではなく、現実になる。「幻」ではなく「事実」になる。「遊び」として無意識におこなっていたこと、本能としてやっていたことが「永遠」につながる「真実」になる。「思想」になる。
死者になることを小夜子は学ぶ。死者として生きることを小夜子は学ぶ。そのことに「抵抗はなかった」。そう書くことで、高橋は、死者となって、死者を生きなおす小夜子を肯定する。
高橋の夢は、いつでも、そうなのかもしれない。
小夜子をとおして語っている夢こそ、高橋の、永遠の夢なのだろう。
死者たちの永遠の夢、かなえられなかった夢を生きなおす。生きなおすことで、その思想をもう一度、ことばとして浮かび上がらせる。そのことばを、高橋の「死」を超えて、読者に引き渡す。そこに「永遠」というものが見えてくる。
「死んだ人と生きている人に/本当は差がないということ」。それは、死者と生者に区別がないということ。生と死に区別がないということ。
逆の視点から、見つめなおすこともできる。
体がない、顔がない--を逆の視点から見つめなおすこともできる。体は、顔は、いつ「存在」しうるのか。「ある」という状態になるのか。
「着る」「粧う」。そのふたつの運動をとうして体は生まれ、顔は生まれる。着る、粧うという行動をとおして体と顔が生まれてくる。着る、粧うは体を、顔をつくることなのだ。
ここから、高橋の詩の世界までは、もう違いがない。「差」がない。
小夜子が着て、粧って、体と顔をつくったように、高橋は、ことばを人に着せる、ことばで人を粧うことで、ことばの運動の中に人間を誕生させる。
この詩自体が、そういう運動をしている。高橋のことばが、小夜子の体をつりく、顔を作る。高橋のことばのなかで、小夜子が生まれ変わる。
ことばを動かしながら、高橋は死者・小夜子とともに歩くのである。小夜子がステージを歩くとき、「お墓のあいだ」を歩いていると感じたように、高橋はことばで小夜子を描き出しながら、小夜子の人生の一瞬詩一瞬、小夜子という時間を歩いているのである。お墓のあいだではなく、時と時の間としての「時間」を。
生と死、死と生の入れ替わり。そのことは、何度も小夜子が経験することである。服飾学校(?)で小夜子がつかみとった思想、高橋は小夜子となって生きなおす。
古い門 新しい階段
布を裁ち ミシンを踏む学校
教科書で指名され 立ち上がり
読まされて 忘れられない一節
「化粧術は死者をよみがえらせ
衣裳術は蘇生者を立ちあがらせる」
それは 遠い古代の死んだ国の谺
いいえ お墓の中からの
なつかしい声
小夜子は古典の中のことばを生きなおす。それを遠い国の古いことばではなく、小夜子自身の子供時代の、なつかしい遊びのときの声として生きなおす。そうすることで、ふたたび、「お墓の住人」と出会うのだ。
教室でのモデル体験は、小夜子にとっては、ままごと遊びの反復であった。ひとが認めない「遊び」ではなく、ひとに認められる「遊び」。ひとに認められて、その「遊び」ま遊び」ではなく、現実になる。「幻」ではなく「事実」になる。「遊び」として無意識におこなっていたこと、本能としてやっていたことが「永遠」につながる「真実」になる。「思想」になる。
教室の発表会で人台にさせられた
人台とは代わりに着ること
代わりに着ることに抵抗はなかった
小さいときからずうっと
顔のない 体のないお客たちの
代わりに着ていたから それは
体のない人の代わりに
体を持つこと
顔のない人の代わりに
顔をもってあげること
死者になることを小夜子は学ぶ。死者として生きることを小夜子は学ぶ。そのことに「抵抗はなかった」。そう書くことで、高橋は、死者となって、死者を生きなおす小夜子を肯定する。
高橋の夢は、いつでも、そうなのかもしれない。
小夜子をとおして語っている夢こそ、高橋の、永遠の夢なのだろう。
死者たちの永遠の夢、かなえられなかった夢を生きなおす。生きなおすことで、その思想をもう一度、ことばとして浮かび上がらせる。そのことばを、高橋の「死」を超えて、読者に引き渡す。そこに「永遠」というものが見えてくる。
たんねんに粧って
かろやかに着て
細長いステージを行き戻り
私が知ったことは
死んだ人と生きている人に
本当は差がないということ
生きている彼女たちにも
本当は体がない 顔がない
だから 代わりに粧い
代わりに着る者が要る
自分がいま お墓のあいだを
歩いていると 私は思った
「死んだ人と生きている人に/本当は差がないということ」。それは、死者と生者に区別がないということ。生と死に区別がないということ。
逆の視点から、見つめなおすこともできる。
体がない、顔がない--を逆の視点から見つめなおすこともできる。体は、顔は、いつ「存在」しうるのか。「ある」という状態になるのか。
「着る」「粧う」。そのふたつの運動をとうして体は生まれ、顔は生まれる。着る、粧うという行動をとおして体と顔が生まれてくる。着る、粧うは体を、顔をつくることなのだ。
ここから、高橋の詩の世界までは、もう違いがない。「差」がない。
小夜子が着て、粧って、体と顔をつくったように、高橋は、ことばを人に着せる、ことばで人を粧うことで、ことばの運動の中に人間を誕生させる。
この詩自体が、そういう運動をしている。高橋のことばが、小夜子の体をつりく、顔を作る。高橋のことばのなかで、小夜子が生まれ変わる。
ことばを動かしながら、高橋は死者・小夜子とともに歩くのである。小夜子がステージを歩くとき、「お墓のあいだ」を歩いていると感じたように、高橋はことばで小夜子を描き出しながら、小夜子の人生の一瞬詩一瞬、小夜子という時間を歩いているのである。お墓のあいだではなく、時と時の間としての「時間」を。
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