田中郁子『雪物語』(2)(思潮社、2011年09月30日発行)
田中郁子の書いている「時間」と「世界」、「わたし」を超えて「わたしたち」となる「肉体」。その不思議さ。その深さ。その豊かさ。
詩集を読みながら、傍線をひいたところが何か所もある。その一部と、そのときふと思ったことがらを、ただ書き記してみる。
「私」と「女」は区別がない。「男」ははっきり区別されるはずだが、--つまり、そこにセックスが存在するのなら、セックスが可能であるためには「私」と「男」は別個の存在でなければならないはずだが、不思議なことに男をとおして「私」と「女」の区別がなくなる。そこには「セックス」という「こと」があるだけなのだ。
「私」は「男」であってもかまわない。
この詩には、馬も登場するが、その馬であってもかまわない。
何よりも「雪」が「私」であり、「女」であり、「男」であり、「馬」なのだ。
「雪」のふる日には、そういうことが起きるのだ。
いま引用した部分に先立って、次の部分のがある。
ここで書かれている「ようだった」は「想像」ではなく、まさしく「そのもの」なのだ。昨日の私の声なのだ。それは昨日の私なのだ。そんな具合に、時間を超えて、いや時間を超えるからこそ、その瞬間に、ひとりひとりの区別もかき消され、そこにもし区別があるとしても、それはただそれを思うとき浮かび上がってくる区別に過ぎない。「こと」を明確にするためにあらわれる「もの」(存在)にすぎない。「こと」のなかでひとは「私」になり「女」になり「男」になり「馬」になる。そして、「雪」にもなる。
この「昨日」とはいつのことか。きょうが10月29日なら、それは10月28日か。そうではない。はるか前のことである。何年も前のことである。けれど、思い起こすときそのあいだの「時間」は消えて「昨日」になる。
過去はいつでも「昨日」である--だけではなく、1秒前、いや、1秒前ですらなくて「いま」なのである。
同じ詩の別の部分。
「一つ前の世代」。それは年にすれば10年か20年か、あるいは 100年か、それがどのように数えられようとも「一つ」という「単位」にくくられてしまう。
田中の時間はいつでも「ひとつ」に、つまり「いま」に集約する。
「いま」は「過去」であり、「いま」のなかに「過去」があるから、「いま」は同時に「未来」である。つまり「永遠」なのだ。
「人が絶えた」ではなく「人語」と田中は書く。その「人」と「語」のあいだにあるものを田中は見ている。ひとは「語」と出会う。「語」のなかで「わたし」と「他者」が「ひとつ」になるということだろう。
もし、誰とも出会うことができなかったら「語」はどんなぐあいに変化する。
「こころ」を取り戻す。つぶやく。そのときの「こころ」とは「わたし」が「わたし」に出会うことによって生まれる。「孤独」である。
けれど、とても不思議なのは、田中がこうしてことばにするととき、「家」の「孤独」は消える。「私」の「孤独」も消える。「家の孤独(こころ)」と「私の孤独(こころ)」が出会い、「一つ」に「合わさって」、そこに「世界」が生まれる。
「くりかえしくりかえし」「向こうへ向こうへ」、さらに「向こうへ向こうへ」。田中は反復する。反復するとき、そこに必然的に「合う」が生まれる。くりかえすとき、その行為へ「複数」であるはずである。1回、2回、3回と「複数」であることが繰り返すことなのだが、それは「外形」のことであって、その行為の内側では、くりかえせばくりかかすほど、その行為が「ひとつ」になる。揺らぎのないものになる。
「向こうへ向こうへ」はもっと不思議だ。と向こうへ向こうへと遠ざかっていけばいくほど、それは「肉体」のなかの奥深く、とても「近い」どこかへ--つまり、けっして忘れることのできないところへ近づいていく。
まるで「焦点」のように「一つ」を通り越して「無」になるように。
田中の書いている「一つ」(合体)は「無」なのだ。
「無」をくぐりぬけるからこそ、その瞬間に、「わたし」は何にでも「なる」。「わたし」が「わたし」以外のものに「なる」ことを邪魔するものが何もない--その何もないが、「無」なのである。
「年月」と「思い出」はここでは同じことばとしてつかわれている。そして、その「年月」というのは、「保存」ということばがとてもおもしろいけれど、遠くにあるのではない。「いま/ここ」にある。
その「いま/ここ」にある「時間」によって、「いま/ここ」がゆっくりと過去へとときほぐされてゆく。ほどかれてゆく。そうして「いま/ここ」が「過去」と「一つ」になる。
--そう思ってみても、というか、その思いを超えて……。
「わたしを脱ぐ」の「わたし」がとても不思議で、とても魅力的だ。「わたし」とは「田中」? それとも「帽子」?
つきつめようとするとわからなくなる。
どっちでもいいのだ。あるいは、どっちでもあるのだ。
そう思ったときの、この瞬間の、不思議な愉悦。
私(谷内)が、「帽子」か「わたし(田中)」になってしまったような気持ちになる。 その詩のつづき、そして、最後。
この、どちらでもありうる「世界」の、愉悦。その美しさ。哀しさ。いとおしさ。
図鑑で「ヌスビトハギ」を調べる。そのことばを追う。「その間わたしは日常から抜け出していた」。抜け出して、どうしていたのか。そこに書かれている「ことば」、ことばの向こうにある「こと」と「一つ」になっていたのだ。
「遠い何か」と「一つ」になっていて、そして、そこからまた「日常」に戻ってくる。その往復と、繰り返し。
田中は、時間を往復する。世界を往復する。そして、複数の「いのち」になることで、田中自身の「いのち」を「一つ」にする。
田中郁子の書いている「時間」と「世界」、「わたし」を超えて「わたしたち」となる「肉体」。その不思議さ。その深さ。その豊かさ。
詩集を読みながら、傍線をひいたところが何か所もある。その一部と、そのときふと思ったことがらを、ただ書き記してみる。
降りやまぬ雪の日の遠い夢の中で 女は私の眠りをひたすらねむり 私はもう誰のものでもないない眠りをねむった
(「雪物語」)
「私」と「女」は区別がない。「男」ははっきり区別されるはずだが、--つまり、そこにセックスが存在するのなら、セックスが可能であるためには「私」と「男」は別個の存在でなければならないはずだが、不思議なことに男をとおして「私」と「女」の区別がなくなる。そこには「セックス」という「こと」があるだけなのだ。
「私」は「男」であってもかまわない。
この詩には、馬も登場するが、その馬であってもかまわない。
何よりも「雪」が「私」であり、「女」であり、「男」であり、「馬」なのだ。
「雪」のふる日には、そういうことが起きるのだ。
いま引用した部分に先立って、次の部分のがある。
女は瞬きもせずに一点を見つめてい 男は降る雪の中 杉山に出かけたが夕刻になっても帰らなかった 「あの人はまた白い馬に出会ったのだわ 訪ねてくる友人もなくさみしくて」 女の声はたった昨日の私の声のようだった
ここで書かれている「ようだった」は「想像」ではなく、まさしく「そのもの」なのだ。昨日の私の声なのだ。それは昨日の私なのだ。そんな具合に、時間を超えて、いや時間を超えるからこそ、その瞬間に、ひとりひとりの区別もかき消され、そこにもし区別があるとしても、それはただそれを思うとき浮かび上がってくる区別に過ぎない。「こと」を明確にするためにあらわれる「もの」(存在)にすぎない。「こと」のなかでひとは「私」になり「女」になり「男」になり「馬」になる。そして、「雪」にもなる。
いきなり糸きりばさみを投げつける
キンとタタミにはねかえる
それはたった昨日の断片
(「たどりつけば憶う」)
この「昨日」とはいつのことか。きょうが10月29日なら、それは10月28日か。そうではない。はるか前のことである。何年も前のことである。けれど、思い起こすときそのあいだの「時間」は消えて「昨日」になる。
過去はいつでも「昨日」である--だけではなく、1秒前、いや、1秒前ですらなくて「いま」なのである。
同じ詩の別の部分。
暗い山峡のきびしい林業の日々が板戸に残る
それはたった一つ前の世代のこと
「一つ前の世代」。それは年にすれば10年か20年か、あるいは 100年か、それがどのように数えられようとも「一つ」という「単位」にくくられてしまう。
田中の時間はいつでも「ひとつ」に、つまり「いま」に集約する。
「いま」は「過去」であり、「いま」のなかに「過去」があるから、「いま」は同時に「未来」である。つまり「永遠」なのだ。
人語が絶えた家ではどこかふしぎな音がする
しかし何年何十年とながく孤立すると
ふと詩文のこころを取り戻すことがあるのか
こっそりとささやきはじめている
(「風の家」)
「人が絶えた」ではなく「人語」と田中は書く。その「人」と「語」のあいだにあるものを田中は見ている。ひとは「語」と出会う。「語」のなかで「わたし」と「他者」が「ひとつ」になるということだろう。
もし、誰とも出会うことができなかったら「語」はどんなぐあいに変化する。
「こころ」を取り戻す。つぶやく。そのときの「こころ」とは「わたし」が「わたし」に出会うことによって生まれる。「孤独」である。
けれど、とても不思議なのは、田中がこうしてことばにするととき、「家」の「孤独」は消える。「私」の「孤独」も消える。「家の孤独(こころ)」と「私の孤独(こころ)」が出会い、「一つ」に「合わさって」、そこに「世界」が生まれる。
女はいつもうすい衣ひとつで出たり入ったり
くりかえしくりかえし 雪に混じって形を結ばない
雪の降る向こうへ向こうへ遠ざかっていく
わたしも向こうへ向こうへ体を移していくのだが
(「あれは向こうへ」)
「くりかえしくりかえし」「向こうへ向こうへ」、さらに「向こうへ向こうへ」。田中は反復する。反復するとき、そこに必然的に「合う」が生まれる。くりかえすとき、その行為へ「複数」であるはずである。1回、2回、3回と「複数」であることが繰り返すことなのだが、それは「外形」のことであって、その行為の内側では、くりかえせばくりかかすほど、その行為が「ひとつ」になる。揺らぎのないものになる。
「向こうへ向こうへ」はもっと不思議だ。と向こうへ向こうへと遠ざかっていけばいくほど、それは「肉体」のなかの奥深く、とても「近い」どこかへ--つまり、けっして忘れることのできないところへ近づいていく。
まるで「焦点」のように「一つ」を通り越して「無」になるように。
田中の書いている「一つ」(合体)は「無」なのだ。
「無」をくぐりぬけるからこそ、その瞬間に、「わたし」は何にでも「なる」。「わたし」が「わたし」以外のものに「なる」ことを邪魔するものが何もない--その何もないが、「無」なのである。
帽子がこんなに年月を保存するなんて
いつの間にかわたしを脱ぐなんて
(「萩の家」)
「年月」と「思い出」はここでは同じことばとしてつかわれている。そして、その「年月」というのは、「保存」ということばがとてもおもしろいけれど、遠くにあるのではない。「いま/ここ」にある。
その「いま/ここ」にある「時間」によって、「いま/ここ」がゆっくりと過去へとときほぐされてゆく。ほどかれてゆく。そうして「いま/ここ」が「過去」と「一つ」になる。
--そう思ってみても、というか、その思いを超えて……。
「わたしを脱ぐ」の「わたし」がとても不思議で、とても魅力的だ。「わたし」とは「田中」? それとも「帽子」?
つきつめようとするとわからなくなる。
どっちでもいいのだ。あるいは、どっちでもあるのだ。
そう思ったときの、この瞬間の、不思議な愉悦。
私(谷内)が、「帽子」か「わたし(田中)」になってしまったような気持ちになる。 その詩のつづき、そして、最後。
また 呼ばれているような気がしてふりむくと
若い母親が買ったばかりの帽子を着せたわたしを抱いて
オイデオイデをさせているのでした
それはバイバイだったのかも知れません
この、どちらでもありうる「世界」の、愉悦。その美しさ。哀しさ。いとおしさ。
その名は「盗人萩・盗賊室内に潜入し足音せぬよう蹠(アシウラ)を側だて其の外方をもって静か歩行する其の足跡が莢(サヤ)の形状相類するによる……」とある その間わたしは日常から抜け出していた
(「ヌスビトハギ」)
図鑑で「ヌスビトハギ」を調べる。そのことばを追う。「その間わたしは日常から抜け出していた」。抜け出して、どうしていたのか。そこに書かれている「ことば」、ことばの向こうにある「こと」と「一つ」になっていたのだ。
「遠い何か」と「一つ」になっていて、そして、そこからまた「日常」に戻ってくる。その往復と、繰り返し。
田中は、時間を往復する。世界を往復する。そして、複数の「いのち」になることで、田中自身の「いのち」を「一つ」にする。
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