伊藤悠子『ろうそく町』(思潮社、2011年09月30日発行)
伊藤悠子『ろうそく町』の巻頭の作品「ろうそく町」。
この書き出しは魅力的だ。地図は現実があってはじめて有効なものだが、伊藤が描いている「ろうそく町」は、その現実を失っている。現実は存在せず、「記憶」が残っている。ひとが向き合うのは、いつも現実ではなく「記憶」なのかもしれない。
「ろうそく町」にはろうそく屋がたくさんある。
この後半にあらわれる「距離感」の揺らぎに引きつけられた。
店先にろうそくの明かりがつく。その瞬間「明るくなる」は当然のことだ。でも、それが「遠くなり」とはどういうことだろうか。ふつう、遠くにひとの暮らしの明かりが見えたら、ひとの暮らしに近づいた気がする。近くなった気がする。そうして安心する。けれど、伊藤は「遠くなり」と書いている。
この「遠く」は「視覚」の「遠い・近い」ではないのだ。「現実」の「距離」ではないのだ。明かりが見える「近さ」とは違う「距離」を伊藤は問題にしているだ。
それが「近い」と感じれば感じるほど、そこには近づいて行けない--という気持ちもひとは持つことがある。たとえば、その町(ふるさと)を捨ててきてしまったひとには、その町へ近づけば近づくほど、こころは重くなる。そこに行きたい気持ちとそこに行ってはいけないという気持ちがぶつかりあい、その衝突のなかで、いままで存在しなかった「遠さ」が生まれる。
犀星の詩の「ふるさとは遠きにありて思うもの」という感じに似ている。
遠く離れて思うとき、それはこころのなかではとても「近い」。つまり、切り離せない。けれど「近く」までくると、そこに「距離」を置きたい気持ちも生まれてくる。
「存在」を知ることで、逆に、こころが遠くなる。「肉眼」で「ろうそくの明かり」が見えたとき、「こころ」は「遠くなる」。
この「遠さ」は矛盾の形でしか存在しない「距離感」である。
それは、町までの「距離」ではなく、あくまでも「ここ」へと跳ね返ってくる。「ここにいる」という「いる」にも跳ね返ってくる。
「ここ」だけが存在する。「いる」だけが存在する。--だから「遠い」。
詩の最後は、次のように書かれる。
「思っているのです」--これは、単に「思う」のではないのかもしれない。「思う」というより「思い出す」。
「思い出しているのです」と言い換えた方がいいような気がする。
きっと伊藤は何度も何度も「ろうそく町」へ行こうと思ったはずである。だからこそ「もう」、そう思うだけではだめなのだ。行かなければならないのだ。--だが、このこともまた、何度も思ったことである。だから、ほんとうは、そう思ったことを思い出している。
ここには何重にもなった「思う」と「思い出す」がある。そのなかで、距離は「近く」と「遠く」がわかちがたいもの--まるで「夢」のように重なってしまう。
その重なりを、伊藤は「静けさ」と呼んでいる。
「意識」はもう、動揺はしない--それが「静かさ」だ。
「矛盾」--この美しい瞬間を、伊藤は「静かさ」でとらえる。「矛盾」のなかで、もう何度も闘いは繰り返されてきたのだ。それは、もう伊藤を揺さぶらない。その「静かさ」、そうした解決の仕方--これは、『道を 小道を』(ふらんす堂)依頼変わっていない伊藤の生き方である。「思想」であり「肉体」である。
「こさめふる」にも「矛盾」が出てくる。
意識--こころのなかでは「海がありそう」。でも、現実には「海からはとおい町」。海から「とおい」からこそ、海が「ありそう」、つまり「ある」と想像することが可能な町。実際に海が近ければ「ありそう」とは想像できない。思うことができない。そうして、海を思い出すこともできない。
伊藤はここでは「町」を思い出そうとして、実は、「海」を思い出している。海までの「距離」を思い出している。
「ろうそく町」でも同じように「ろうそく町」そのものを思い出しているふりをしながら、「ろうそく町」までの「距離」を思い出している。ろうそくをつけた瞬間を思い出すとき町は近づくが、そうやって近づくという現象は逆に「遠さ」をあぶりだす。
「こさめふる」では「海」を思い出すとき「町」が近づき、「町」を思い出すとき「海」が遠くなる。そういうことを書こうとすると、しかしことばは逆に
と矛盾した形になってしまう。
この矛盾は、ことばに伝染していく。
「小雨とも言えぬ」と「否定」であり、同時に「肯定」である。「言えぬ」自体は「否定」だか「とも」によってその「否定」があらかじめ「否定」される。数学のマイナスの数字にマイナスの数字を掛け合わせるとプラスになるような「矛盾」が伊藤の詩の奥深いところでことばを動かしている。
海と町は「遠い」。けれど、「町」は「海」と結びつくしかなく、「海」はまた「町」と結びつくしかない。その「遠い」けれども切り離すことのできない「距離」のなかに伊藤がいる。その切り離すことのできない結びつき、その強さが「静けさ」である。
伊藤は、いつも、いつまでも、静かである。
伊藤悠子『ろうそく町』の巻頭の作品「ろうそく町」。
ろうそく町に行こうと思います
ろうそく町は古い地図の中にあるはずなのですが
場所は確かめられません
名前だけが残っているのです
この書き出しは魅力的だ。地図は現実があってはじめて有効なものだが、伊藤が描いている「ろうそく町」は、その現実を失っている。現実は存在せず、「記憶」が残っている。ひとが向き合うのは、いつも現実ではなく「記憶」なのかもしれない。
「ろうそく町」にはろうそく屋がたくさんある。
暮れると
店先にろうそくを点します
よそも同様にしたのでしょう
町はその瞬間
明るくなり
遠くなり
わたしはやっぱりここにいて
この後半にあらわれる「距離感」の揺らぎに引きつけられた。
店先にろうそくの明かりがつく。その瞬間「明るくなる」は当然のことだ。でも、それが「遠くなり」とはどういうことだろうか。ふつう、遠くにひとの暮らしの明かりが見えたら、ひとの暮らしに近づいた気がする。近くなった気がする。そうして安心する。けれど、伊藤は「遠くなり」と書いている。
この「遠く」は「視覚」の「遠い・近い」ではないのだ。「現実」の「距離」ではないのだ。明かりが見える「近さ」とは違う「距離」を伊藤は問題にしているだ。
それが「近い」と感じれば感じるほど、そこには近づいて行けない--という気持ちもひとは持つことがある。たとえば、その町(ふるさと)を捨ててきてしまったひとには、その町へ近づけば近づくほど、こころは重くなる。そこに行きたい気持ちとそこに行ってはいけないという気持ちがぶつかりあい、その衝突のなかで、いままで存在しなかった「遠さ」が生まれる。
犀星の詩の「ふるさとは遠きにありて思うもの」という感じに似ている。
遠く離れて思うとき、それはこころのなかではとても「近い」。つまり、切り離せない。けれど「近く」までくると、そこに「距離」を置きたい気持ちも生まれてくる。
「存在」を知ることで、逆に、こころが遠くなる。「肉眼」で「ろうそくの明かり」が見えたとき、「こころ」は「遠くなる」。
この「遠さ」は矛盾の形でしか存在しない「距離感」である。
それは、町までの「距離」ではなく、あくまでも「ここ」へと跳ね返ってくる。「ここにいる」という「いる」にも跳ね返ってくる。
「ここ」だけが存在する。「いる」だけが存在する。--だから「遠い」。
詩の最後は、次のように書かれる。
明けがたのの夢のつらさに
もうろうそく町に行くほかはないと思っているのです
ろうそく町は静けさだけがたよりの町です
「思っているのです」--これは、単に「思う」のではないのかもしれない。「思う」というより「思い出す」。
「思い出しているのです」と言い換えた方がいいような気がする。
きっと伊藤は何度も何度も「ろうそく町」へ行こうと思ったはずである。だからこそ「もう」、そう思うだけではだめなのだ。行かなければならないのだ。--だが、このこともまた、何度も思ったことである。だから、ほんとうは、そう思ったことを思い出している。
ここには何重にもなった「思う」と「思い出す」がある。そのなかで、距離は「近く」と「遠く」がわかちがたいもの--まるで「夢」のように重なってしまう。
その重なりを、伊藤は「静けさ」と呼んでいる。
「意識」はもう、動揺はしない--それが「静かさ」だ。
「矛盾」--この美しい瞬間を、伊藤は「静かさ」でとらえる。「矛盾」のなかで、もう何度も闘いは繰り返されてきたのだ。それは、もう伊藤を揺さぶらない。その「静かさ」、そうした解決の仕方--これは、『道を 小道を』(ふらんす堂)依頼変わっていない伊藤の生き方である。「思想」であり「肉体」である。
「こさめふる」にも「矛盾」が出てくる。
あのまま
ゆるやかな坂道を下って行ったら
海がありそうな
海からはとおい町であった
意識--こころのなかでは「海がありそう」。でも、現実には「海からはとおい町」。海から「とおい」からこそ、海が「ありそう」、つまり「ある」と想像することが可能な町。実際に海が近ければ「ありそう」とは想像できない。思うことができない。そうして、海を思い出すこともできない。
伊藤はここでは「町」を思い出そうとして、実は、「海」を思い出している。海までの「距離」を思い出している。
「ろうそく町」でも同じように「ろうそく町」そのものを思い出しているふりをしながら、「ろうそく町」までの「距離」を思い出している。ろうそくをつけた瞬間を思い出すとき町は近づくが、そうやって近づくという現象は逆に「遠さ」をあぶりだす。
「こさめふる」では「海」を思い出すとき「町」が近づき、「町」を思い出すとき「海」が遠くなる。そういうことを書こうとすると、しかしことばは逆に
海がありそうな
海からはとおい町であった
と矛盾した形になってしまう。
この矛盾は、ことばに伝染していく。
小雨とも言えぬわずかな雨が降っていた
「小雨とも言えぬ」と「否定」であり、同時に「肯定」である。「言えぬ」自体は「否定」だか「とも」によってその「否定」があらかじめ「否定」される。数学のマイナスの数字にマイナスの数字を掛け合わせるとプラスになるような「矛盾」が伊藤の詩の奥深いところでことばを動かしている。
呼び止めるひとがいなかったら
あのまま歩きつづけて行っただろう
町は傍観さえもせず
ひろびろと果てがなく
果てには海があった
海と町は「遠い」。けれど、「町」は「海」と結びつくしかなく、「海」はまた「町」と結びつくしかない。その「遠い」けれども切り離すことのできない「距離」のなかに伊藤がいる。その切り離すことのできない結びつき、その強さが「静けさ」である。
伊藤は、いつも、いつまでも、静かである。
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