5 永遠
永遠とは
多くの時間のなかを流れるひとすじの時間だ
この書き出しの二行は、ある意味で「矛盾」しているように思える。「永遠」とは「時間」を超越したもの。「普通の時間」は「流れる」(過ぎ去る)だろうが、「永遠」は変化しないはずである。変化しないからこそ「永遠」というのだと思う。
では、この二行は間違っているのか。
そうとも言えない。この二行のなかに「変化しない」ものがある。それは「ひとすじの時間だ」という表現のなかの「ひとつ(ひとすじ)」である。
そこだけに別離がある
そこだけに物憂さがある
そこに 失つたものから匂いが帰つてくる
そこに 手を離れた温かい記憶が止どまつている
「そこだけ」の「だけ」は「ひとつ」に通じる。「ひとすじ」の「ひとつ」が「だけ」ということばで反芻されている。
おもしろいのは「時間」を「場」をあらわす「そこ」という形であらわしていることだ。「場」は「流れない」。「そこ」と呼ぶとき、「流れるひとすじの時間」の「流れる」が瞬間的に消える。
矛盾。しかし、この矛盾こそが詩である。
矛盾は「失つたものから/帰つてくる」「手を離れた(失つた)/止どまつている」という矛盾した動詞の結びつきで強調されている。
「永遠」というと「完全」なものを想像するが、「完全」は矛盾を矛盾のまま、修正せずに受け入れるということか。
6 *(その話は夕凪の日のところで終つた)
その話は夕凪の日のところで終つた
戯れるにはすでに遠ざかりすぎていた
書き出しの「その話は夕凪の日のところで終つた」は、やはり「区切り」がある。「終つた」という動詞が、ひとつのことに区切りをつける。
主語は「その話」だが「その日」が「終つた」とも読み替えることができるだろう。「夕凪の日」に「終つた」のだ。
この作品でも「時間(灯)」が「ところ」という「場」をあらわすことばで指し示されている。「場」は「遠ざかる」という「距離」を示すことばで引き継がれる。
嵯峨は視覚(空間認識)を基本とした詩人なのかもしれない。
そして深い谷間がみえるところまでくると
そこにわずかな空地を見つけてぼくは身を横たえる
「ところ」ということばが繰り返される。「そこ」という「場」が示され、さらに「空地」という「場」に言い直される。
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