エドワード・ノートン監督「マザーレス・ブルックリン」(★★★)
監督 エドワード・ノートン 出演 エドワード・ノートン、ブルース・ウィリス、ググ・バサ=ロー、アレック・ボールドウィン、ウィレム・デフォー
エドワード・ノートンを初めて見たのは「真実の行方」。吃音の二重人格(殺人者)を演じているのだが、最後の最後の一瞬、どもらない。つまり、全部芝居だった、とわかる。この吃音から、普通のしゃべり方に変わる瞬間が、実にうまい。「はっ」とさせる。しかし、「はっ」としながらも、「あれっ、せりふのしゃべり方を間違えたのかな?(演技ミスかな?)」と思った次の瞬間にどんでん返しが始まる。
よく似たどんでん返しでは「ユージュアル・サスペクツ」がある。ケヴィン・スペイシーが、「犯人」なのに、おしゃべり障害者の演技で刑事の追及をかわしていく。最後に足を引きずっていたのに普通の歩き方に変わるのだが、それは「おまけ」で、「おしゃべり」(嘘)の自然な感じが、とてもいい。
私は英語は「字幕」が頼りだが、字幕を頼りにしながらも「声の調子」で引っ張られる役者がいる。エドワード・ノートンもケヴィン・スペイシーも、演技のなかで、もう一度演技するという二重構造のときに、とても生き生きとした味が出る。
で、今度の映画だが……。
そこには二重構造どころか、何重にも二重構造が入り子細工のようになっている。それが複雑すぎて、エドワード・ノートン自身の強靱な記憶力と、頭に浮かんだことばをおさえきれないという「言語」に関する二重構造が邪魔になっている。エドワード・ノートンの奇妙な病気が他人を警戒させるわけでも、また他人を同情させるわけでもない。つまり飾りになっている。こんな演技ができます、という「宣伝」になっている。
これは監督もできます、脚本も書けます、という「宣伝」にまで拡大し、ちょっと「味」が雑になっている。これは、演技に遊び(裏切り)がなくなっているという感じで、「人間」そのものの魅力が感じられない。
映画を見るのは(あるいは芝居を見るのは)、演技を見るだけじゃなくて、「地」も見たいからだね。どの役者もそうだが、「地」の出し方が乏しい。その分、映画としてはすっきりしているというか、簡潔な感じになっているが、つまらなくもある。
エドワード・ノートンもアレック・ボールドウィンも、妙に「甘い」ところがあり、それが「悪」をつつむところに「許せる」感じがあっておもしろいのに、「甘さ」を殺してしまうと「凡人」になってしまう。
ウィレム・デフォーは逆に「醜さ」のなかに純粋さを感じさせるところが魅力なのに、なんといえばいいのか、最初から純粋なんだというような主張をしてしまうので、これも「凡人」になってしまう。
難しいものだなあ、と思う。
この映画を支えているのは、1950年代という「風景」だろうなあ。私は1950年代のブルックリン(ニューヨーク)を知っているわけではないが、いまとは違う人間臭さがいいなあ、と思う。車が走っても、いまの映画のようにカーチェイスにならないし、地下鉄もなんとなくのんびりしている。これにジャズがマッチしている。大都会だけれど、つめたくない。人間臭い。これが、ストーリーにぴったりあっている。
エドワード・ノートンが「多芸」であることは、今回の映画でよくわかった。でも、次は役者に専念してほしい。
(2020年01月15日、t-joy 博多スクリーン10)
監督 エドワード・ノートン 出演 エドワード・ノートン、ブルース・ウィリス、ググ・バサ=ロー、アレック・ボールドウィン、ウィレム・デフォー
エドワード・ノートンを初めて見たのは「真実の行方」。吃音の二重人格(殺人者)を演じているのだが、最後の最後の一瞬、どもらない。つまり、全部芝居だった、とわかる。この吃音から、普通のしゃべり方に変わる瞬間が、実にうまい。「はっ」とさせる。しかし、「はっ」としながらも、「あれっ、せりふのしゃべり方を間違えたのかな?(演技ミスかな?)」と思った次の瞬間にどんでん返しが始まる。
よく似たどんでん返しでは「ユージュアル・サスペクツ」がある。ケヴィン・スペイシーが、「犯人」なのに、おしゃべり障害者の演技で刑事の追及をかわしていく。最後に足を引きずっていたのに普通の歩き方に変わるのだが、それは「おまけ」で、「おしゃべり」(嘘)の自然な感じが、とてもいい。
私は英語は「字幕」が頼りだが、字幕を頼りにしながらも「声の調子」で引っ張られる役者がいる。エドワード・ノートンもケヴィン・スペイシーも、演技のなかで、もう一度演技するという二重構造のときに、とても生き生きとした味が出る。
で、今度の映画だが……。
そこには二重構造どころか、何重にも二重構造が入り子細工のようになっている。それが複雑すぎて、エドワード・ノートン自身の強靱な記憶力と、頭に浮かんだことばをおさえきれないという「言語」に関する二重構造が邪魔になっている。エドワード・ノートンの奇妙な病気が他人を警戒させるわけでも、また他人を同情させるわけでもない。つまり飾りになっている。こんな演技ができます、という「宣伝」になっている。
これは監督もできます、脚本も書けます、という「宣伝」にまで拡大し、ちょっと「味」が雑になっている。これは、演技に遊び(裏切り)がなくなっているという感じで、「人間」そのものの魅力が感じられない。
映画を見るのは(あるいは芝居を見るのは)、演技を見るだけじゃなくて、「地」も見たいからだね。どの役者もそうだが、「地」の出し方が乏しい。その分、映画としてはすっきりしているというか、簡潔な感じになっているが、つまらなくもある。
エドワード・ノートンもアレック・ボールドウィンも、妙に「甘い」ところがあり、それが「悪」をつつむところに「許せる」感じがあっておもしろいのに、「甘さ」を殺してしまうと「凡人」になってしまう。
ウィレム・デフォーは逆に「醜さ」のなかに純粋さを感じさせるところが魅力なのに、なんといえばいいのか、最初から純粋なんだというような主張をしてしまうので、これも「凡人」になってしまう。
難しいものだなあ、と思う。
この映画を支えているのは、1950年代という「風景」だろうなあ。私は1950年代のブルックリン(ニューヨーク)を知っているわけではないが、いまとは違う人間臭さがいいなあ、と思う。車が走っても、いまの映画のようにカーチェイスにならないし、地下鉄もなんとなくのんびりしている。これにジャズがマッチしている。大都会だけれど、つめたくない。人間臭い。これが、ストーリーにぴったりあっている。
エドワード・ノートンが「多芸」であることは、今回の映画でよくわかった。でも、次は役者に専念してほしい。
(2020年01月15日、t-joy 博多スクリーン10)