* (たしかにぼくは過ぎ去つていつた)
ふりかえると
それぞれがあまりに遠い
「それぞれ」と複数なのが興味深い。
「ぼく」と「ひとり」であって「ひとり」ではない。それぞれのときと場所によって、そのときと場所の「ぼく」というものが存在する。
そして、それが複数であるからこそ「たしかに」ということばも必要なのだ。
「たしかに」は漢字で書き直せば「確かに」。「確認」なのである。
そして、その「確認」は「過ぎ去る」という動詞に焦点を当てているのではなく、そこには一行目には書かれていない「それぞれ」に焦点が当たっている。そのとき、その場所で、それぞれの「ぼく」があらわれ、過ぎ去る。それは「消えていく」。いなくなる。
あいまいな認識が、ことばを書くことで「たしかな」ものとなってあらわれてくる。
*
詩集『誤読』は、嵯峨信之の詩集『時刻表』を批評するという形式で書いたものです。
オンデマンドで販売しています。100ページ。1500円(送料250円)
『誤読』販売のページ
定価の下の「注文して製本する」のボタンを押すと購入の手続きが始まります。
私あてにメール(yachisyuso@gmail.com)でも受け付けています。(その場合は多少時間がかかります)
ふりかえると
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「それぞれ」と複数なのが興味深い。
「ぼく」と「ひとり」であって「ひとり」ではない。それぞれのときと場所によって、そのときと場所の「ぼく」というものが存在する。
そして、それが複数であるからこそ「たしかに」ということばも必要なのだ。
「たしかに」は漢字で書き直せば「確かに」。「確認」なのである。
そして、その「確認」は「過ぎ去る」という動詞に焦点を当てているのではなく、そこには一行目には書かれていない「それぞれ」に焦点が当たっている。そのとき、その場所で、それぞれの「ぼく」があらわれ、過ぎ去る。それは「消えていく」。いなくなる。
あいまいな認識が、ことばを書くことで「たしかな」ものとなってあらわれてくる。
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詩集『誤読』は、嵯峨信之の詩集『時刻表』を批評するという形式で書いたものです。
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