「偽善」ということばは、どの国のことばでもありそうである。しかし、ことばがあるからといって、その意味がぴったりとあうとは限らない。きょうイタリアの18歳と読んだ「偽善について」は、そのことを考えさせられた。事前に書いた「偽善について」の作文で、そのことに気づいたので、ゆっくり読み始めた。
書き出しの文章は、特にむずかしい問題を含んでいる。
「人間は生れつき嘘吐きである」、とラ・ブリュエールはいった。「真理は単純であり、そして人間はけばけばしいことを、飾り立てることをを好む。真理は人間に属しない、それはいはば出来上って、そのあらゆる完全性において、天から来る。そして人間は自分自身の作品、作り事とお伽噺のほか愛しない。」
三木清が訳した文章だと思うが、二回目に出てくる「そして」が複雑である。
最初に出てくる「そして」は「順接」というか、ふつうの「そして」であり、なくても自然に読むことができる。しかし、二回目の「そして」は「順接」とは言えない。
「接続詞」のつかい方には一定の決まりがあるが、厳密ではない。なくても意味が通じる。一回目の「そして」はなくても意味が通じるだろう。二回目の「そして」は、ないとなんとなく読みにくい。直前が句点「。」で切れていることもあるが、「話題」というか「主語」がまったく変わってしまうからである。「主語」の連続性が感じられない。だから、それを「接続詞」をつかうことで連続させている。
「そして」は一般的に「順接」である。そして、「順接」のとき、あるいは「並列」のときは、実は、省略してもそんなに不自然には感じない。一回目の「そして」はその類である。「真理は単純であり、人間はけばけばしいことを、飾り立てることをを好む」にしてしまうと、主語が変わるので少し読みにくいが、なくても「意味がわからない」というひとは少ないだろう。
「飾り立てることをを好む。真理は人間に属しない」には接続詞がないが、おぎなうとすれば「そして」がいちばん最初の候補になるだろうか。前の文章が「真理は単純であり」を引き継いでおり、主語が変わらないので「そして」が省略されたのである。ここでは、「そして」以外の接続詞をつかうとすれば「また」かもしれない。「また」は並列だが、ここでは少し論理が転換するというか、論理が少し飛躍するので、何かしらの「逆接」めいた働きもするだろう。
そうした文章(意識)の流れを受けての、二回目の「そして」。
ここで、私はイタリアの18歳に質問した。「もし、ほかの接続詞をつかうとしたら、なにをつかう?」
「しかし、をつかう」
いやあ、びっくりしたなあ。
「しかるに」ということばもあるが、いまはあまりつかわない。つかうなら、「しかし」がいちばん落ち着くだろう。「真理は天から来る。しかし、人間はその真理を愛さない。その真理よりも、自分自身がつくりだした作品(作り事)しか愛さない」と読むと、「論理」がすっきりする。
「論理」をどうやって把握するか(正確に順を織ってとらえるか)ということと接続詞は緊密な関係にあるのだが、もう、教えることない、という段階。
質問も、非常に鋭い。この書き出しの最後の文章についてであった。
真理は人間の仕事ではない。それは出来上って、そのあらゆる完全性において、人間とは関係なく、そこにあるものである。
この「そこにある」の「そこ」とはどこか?
答えられます? これはフランス語の「il y a」の「y 」、 スペイン語の「hay 」の「y 」、英語の「there is」の「there 」のようなものである。特定の「場」ではなく、頭のなかに浮かぶ「ある」という動詞をささえるための「そこ」としか呼べないものなのである。
「そこ」とはどこか、と問うたとき、18歳のイタリア人は、日本語の、具体的なものとは対応していない何かに触れていて、それを言語化することを要求している。こういうことは、少しくらい勉強しただけでは質問できない。何かわからないことはない? どこがわからないか、わからない、という段階ではなく、わかることと、わからないことを明確に意識できる。
だから、接続詞「そして」も、自分なら「しかし」をつかうと言えるのだ。
この「偽善について」には、「偽悪」ということばも出てくる。こうした考え方(概念)はイタリア語にはないようだが、三木清が「偽悪家深い人間ではない」の「深い」ということばを手がかりに、きちんと定義することができた。