詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

池田清子「時代はあった」、永田アオ「朝食」、木谷明「~眠れるソファ~」、徳永孝「あなたに届けられるなら」、青柳俊哉「細れ粒」

2023-01-29 12:44:42 | 現代詩講座

池田清子「時代はあった」、永田アオ「朝食」、木谷明「~眠れるソファ~」、徳永孝「あなたに届けられるなら」、青柳俊哉「細れ粒」(朝日カルチャーセンター、2022年01月16日)

 受講生の作品。

時代はあった  池田清子

地方のまち中に育った

友達と山に分け入ったり
兄妹で磯遊びをした思い出はない

でも
時代は、あった

すきま風を知っている
火吹き竹で火を吹いた
近所の大人達がもちをついた
火鉢の中でもちを焼いた
裏庭ではチャボにみみず
おちょうずの水は
ひしゃくか 指先でチョン
あんよポイ

抱きしめたくなる、過去

 「時代」「過去」ということばが観念的ではないか、という指摘があった。「観念的」という意味では「地方」「まち」も観念といえるだろう。「思い出」も観念かもしれないが、それは,いったん脇においておく。
 たしかに「時代」は観念なのだが、その観念を「あった」と断定しておいて、四連目で具体的な「時代」の描写が始まる。「観念」が具体的に言い直される。この「言い直し」をスムーズにするためには「観念」からはじめる必要がある。
 観念は、何かを整理するときに必要だ。この詩では「過去」がそういう働きをしている。そして抒情詩の多くは、具体的なものをある観念で整理し直してみせるときに成立しているのだが、池田の四連目は観念的な整理にならずに、つまり、意味にならずに具体的なまま並列されている。それを象徴するのが「あんよポイ」である。だれも、その「意味」を理解できなかった。「あんよ」は「足」だと推測できるが、それがどうしたのか、だれもわからない。しかし「意味がわからなくても平気、記憶を語るときの音とリズムがいい」という指摘があった。この指摘につきる。
 どんなことばも意味(観念)を含んでしまうが、それを蹴散らしてことば(音)が動くとき、そこに何か楽しいものが生まれる。それが楽しい。
 最初に書いた「地方」「まち」「思い出」も観念であるというのは、そこに具体的なことが書かれていないからだ。抽象化された「意味」しかないからだ。その「意味」を「ない」と否定して、「ある(あった)」のは「時代」である、とさらに観念を強調する。そのあとで、その観念を「具体的」に語るというのは、たぶん、無意識にしたことだとは思うのだけれど、数学でマイナスとマイナスをかけるとプラスになるような効果がある。「ない」もの、「観念」が、「ある」にかわる。この「枠構造」もおもしろいと思う。
 ほんとうは「ない」ものが「ある」にかわる。その運動を支えるのが「ことば」である。というところから、今回の講座に集まった作品を読んでいく。

朝食  永田アオ

ボップアップのトースターは
トーストが好き
でもトーストは
トースターが嫌いで飛び上がってる

湯気を立てて
朝からブツブツ哲学を語る
コーヒー爺さんは
遠視が酷い

むかし
詩人が欲しいといった
春風で作ったゼリーを添えて
今日のささやかな朝を始める

 ことばにすることによって初めて存在するのは何か。「春風で作ったゼリー」が注目を集めた。(その詩人はだれですか? 立原道造です、というやりとりがあったが、特に「事実」に結びつける必要はないだろう。永田のつくりだしたことばと理解してもいいはずだ。)「コーヒー爺さん」と「遠視が酷い」も、ことばにしないと存在しない。
 私が最初に注目したのは一連目の「好き」「嫌い」ということばである。トーストも、トースターも「もの」であり、ものは感情を持っていない。擬人化されているのだが、ここにもことばにしないと存在しないものがあるといえる。
 すべては、ことばにしないと存在しない。
 「朝からブツブツ哲学を語る」ということばは「コーヒー爺さん」を修飾する。学校文法では「爺さん」に焦点をあてて、「爺さんが哲学を語る」と整理するかもしれないが、この二行は「コーヒーがブツブツ哲学を語る」とコーヒーを擬人化した方がおもしろいだろう。
 そういう世界の変化があるから、「春風で作ったゼリー」も、何か実在するもののように見えるくるし、だれかが作るのではなく春風そのものが春風のゼリーを作ると読むこともできる。そのあとの「ささやか」もことばがつれてきた「新しい世界」として輝く。「ささやかな朝」というのは、だれでもがつかうことばに見えるが、この詩では、それがしっかりと詩の最後をおさえている(落ち着かせている)のは、ことばによって「ある」をつくりだす運動がゆるぎないからだろう。

~眠れるソファ~  木谷 明

ねえこのソファ ちょうだい
そう言って 眠って 
持って行かない

帰って来るたび 眠って
やっぱりこのソファ ちょうだい
いいよ
と言っているのに


このソファがなくなったら
どうなるかな


つつみこまれるようだね って

座れば眠ってしまう

家族が座って そして眠った

いいよ 持っていってください

 「この詩は、見たもの、体験したことを書いている。写生している」という指摘があった。ことばにしなくても「ある」世界が前提になっている、その「ある」世界から別の世界へ行っていないという意味だと思うが。
 ほんとうに、ここに書かれていることは、すべて「ある」のか。
 娘かだれか明確に書いていないが、一緒に暮らしただれかが、「ソファをちょうだい」といい木谷が「いいよ」と答える。しかし、持っていかない。たしかに、そのことが、嘘を交えずに「ある」がままに書かれているのだろうが、ほんとうにすべてが「ある(あった)」のか。
 池田の詩を読んだとき、リズムが問題になったが、この詩でもリズムが重要である。リズムの中でも、行間がつくりだすリズムが大切である。「間(ま)」もまた、ことばがつくりだす「ある」なのである。
 後半の行をつめてしまうと、まったく違う詩になってしまう。その起点となる「と言っているのに」の「のに」という語尾、語尾が含むゆらぎも、ことばにしないと明らかにならないものを含んでいる。「のに」を書かなければ、つぎのことばは出てこない。だから「のに」にによって「行間」も「ある」ことができた、と言い直すこともできる。

ライブハウスから  徳永孝

Gue のアルバムジャケットの
シックな絣柄の模様

居酒屋の垂れ布のデザイン

らふのアルバムジャケットは
まっ黒な地に鮮やかな絵の具をたらしたよう

診察所の棚の上の小箱

あいみょんのファーストアルバムには
大きな卵焼

スーパーのお弁当箱にも容器いっぱいの長い卵焼

ライブハウスの閉じた音楽空間から
色や形が
街に世界に滲み出してきている

 最終連が徳永の言いたいことであり、それはことばにしないと存在しないもの(ことばが存在させた現実)ということになるのだが、これは、私の見方では「要約/整理/結論」である。「結論」は、詩の場合、ときどき、それまでの生き生きとあらわれていた世界を壊してしまう。
 詩の感想を語り合うとき、どうしても詩の世界を要約した後、それについての感想を言うことが多い。たとえば、この詩の場合なら、ミュージシャンのアルバムジャケットで見たもの、それに類似したものを街のなかで見かけ、あ、ミュージシャンの世界が街にあふれている(滲み出しいている)ということが、生き生きと鮮やかに書かれている、という具合。
 要約すると、安心してしまうが、それでは詩が死んでしまう。「生き生きと鮮やかに書かれている」と感じたのは、どのことばから? 私は、それを聞きたい。自分には思いつかないことばは何? それこそが、作者がことばにすることによって生まれてきたもの、「ある」になったもの。
 この詩では、たとえば「長い卵焼」である。その直前にある「大きな卵焼」は多くの人がつかう表現である。でも「長い」ということばと卵焼を結びつけることは、ふつうはしない。だいたい、「長い」って、どれくらいの長さ? 何センチ?
 「スーパーのお弁当箱にも容器いっぱいの長い卵焼」という一行を読んだら、その卵焼の大きさがわかる。目に浮かぶ。この一行で、この作品は詩になっている。しかし、最後の三行で、詩を壊してしまっている。
 もし、アルバムジャケットとの関係を明確にしたい(街に「滲み出している」をつたえたい)というのであれば、「居酒屋の垂れ布のデザインになった」「診察所の棚の上の小箱になった」「スーパーのお弁当箱にも容器いっぱいの長い卵焼になった」という具合にすれば伝わると思う。自分が見たものをことばにする、そのとき、すでに「ある」は起きている。事件は起きている。詩というの事実は生まれている。それを「整理/要約」しては、学校の国語の授業の先生の説明になってしまう。
 どうしても最終連の三行が必要ならば、最終連にではなく、最初に書いた方がいい。池田が「過去」と抽象的に書いた後、具体的に言い直しているように、「滲み出している」を最初に書いた後、それを具体的に言い直した方が「要約」に陥らずにすむ。

細れ粒  青柳俊哉

葦原は白く靡き 
  水辺を行く鳥の
    羽に雪がふる 

 細れ粒の肌触り 
   細れいく群青の波頭の移り
     ひとすじの薄日のさす岸に

  朝がふり 蒼穹を
    つきぬけていく透明な
      鳥かげ 葦の葉擦れの音に 

   舞い遊ぶ金色の水粒 
     幼いものの至福のように
       ちらちらきらめいて

 青柳の作品は、出発点には現実の風景があるかもしれないが、そこからどんどんことばを展開させていく。青柳自身「具体的なものを書いたのではなく、気持ちを書いている」という。つまり、すべてがことばによって「ある」になっていると言えるし、だからこそどのことばによって「ある」が生まれているかと見つめなおすのはむずかしいのだが。
 私が、これはいいなあ、と感じたのは「朝がふり」。この「ふる」の動詞のつかい方。ふつうは「朝がくる」(日が昇る)のような言い方をする。朝は、ふつうには地平線上というか水平線上というか、人間と同じ高さ(あるいは低いところ)からやってくる。しかし、青柳は「朝がふり」と書く。上から、突然襲ってくる感じだ。待っている余裕がない。
 そのあとの「蒼穹を/つきぬけていく透明な/鳥かげ 葦の葉擦れの音に」の「つきぬけていく」の主語は、学校文法では「鳥かげ」か「葦の葉擦れの音」になるのかもしれないが、私は朝が「蒼穹を/つきぬけて」降ってきて、世界が透明になったように錯覚する。
 私は青柳のことばを「誤読」しているかもしれない。しかし、詩とはもともと世界に対する「誤読」なのだから、私は作者の「意図」を気にしないのである。作者が言いあらわそうとしているものよりも、私が作者のことばをとおして見たもの(感じたもの)の方がおもしろいと感じれば、それを詩と呼ぶ。
 蒼穹(天)から啓示のように降ってくる朝、その透明な力、降ってくるものが透明であるだけではなく、世界を透明にしてしまう力、それが「降る」ととらえることば、精神の運動、そこに詩がある、と。

 


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