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詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

春名純子『猫座まで』

2007-07-16 11:41:46 | 詩集
 春名純子『猫座まで』(編集工房ノア、2007年07月25日発行)
 ことばが既存の詩に流れてしまう部分がある。たとえば「十二月のイルミネーション」の書き出し。

海沿いの街のカフェはたそがれて

 それぞれのことばが、すでに何度も何度も多くの作品に登場している。春名のことばはそうしたことばに頼りすぎているかもしれない。きっと多くの人に受け入れられ語られることばの響きに安心するのだろう。
 こういうところに「詩」はすでに存在しない。それでもそういうことばを潜り抜けることは大切なことなのだ、と私は思う。人が潜り抜けたことばを全部潜り抜けてみること。それはある意味ではことばを鍛えることになる。響き、リズムが自然に身につく。
 春名のことばには多くのことばを潜り抜けてきた響き、リズムがある。その響き、リズムの果てに、突然、そうした響き、リズムの繰り返しだけがとらえることのできる世界があらわれる。
 「水底」。その全行。

魚でも
心に人が住む時は
幾重ともない水の輪を
吐いて潜むに違いない

人だって
心が湖になる時は
青い光に棲みながら
そんな魚に会えるだろう

魚の知らない幸せや
人の落としたかなしみの
青く漂う水底に
沈んでわたしは水を見る

 「魚」「水」「人」「かなしみ」。そうしたものの関係をきちんと説明することは難しい。ことばとことばを結ぶ深い深い何かがあるのだけれど、それを説明することはむずかしい。それにもかかわらず、このことばにふれると、春名が魚のように水底にいる、水底から世界をみつめていることがわかる。そして、その水底というのは「人の落としたかなしみ」が漂っているのだが、それは透明なものだということもわかる。透明ゆえに、春名はかなしいけれど、そのかなしみにたえていけるのだ(たえているのだ)ということが納得できる。
 春名のことばの響き、リズムは、日本語が積み重ねてきた響き、リズムと通い合いながら、そのことばの奥にある「かなしみ」と一体になっている。
 人がつかいつづけてきたことばには、そうした不思議な力がある。その力に春名は身をあずけている。あずけて安心している。そういうやすらぎのようなものがある。
 「かわせみ」のていねいな描写。そして、最後の

太陽が爪先を光らせて
水の上に降り立つ

 という輝き。新しいことは書いてないかもしれない。しかし、それは「古い」ということでもない。いまも確かに「ある」、「ありつづけている」存在のひとつの形式である。それをきちんと書くということは大切なことだ。
 「五月の町」の次の1行も大好きだ。

誰かの会話に わらびが混じる

 ふいに侵入してくる「生活」。それをしっかりと受け止める生活、暮らしの確かさがある。ことばの響き、リズムが生活を踏み外していないという安心感がある。
 ことばは、こんなふうにして一人一人の中で確実に支えられている、というなつかしさのようなものにひかれた。



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