田口三舩『能泉寺ヶ原』(榛名まほろば出版、2016年08月11日発行)
田口三舩『能泉寺ヶ原』の「花いちりん揺れた朝」は、こんな具合に始まる。
四行目の「清々しい」と書きたい気持ちはわかるけれど、そう書いてしまうと「詩」を狙っているようで、私なんかはおもしろくない。おもしろくない、と書きながらこの連を引用したのは「鎌の素振りなどしながら」が具体的で、こっちの方が「詩」なんだよなあ、と言いたかったからである。
草刈りというのは、私は長いあいだしていないが、あれはけっこう大変で、草刈り前に鎌をどう動かすか、「素振り(すぶり)」をしてみるのは、体にとっていいことだ。事故を防げる。「腕を確かめ合い」というのは、「いや、そうじゃない、こうだよ」と教えあっているのだろう。なんだが、そこにいるひとが見るえるようでうれしい。
この二連目も散文的だけれど具体的。
途中を省略するが、そのあと、こんなことがある。
あ、いいなあ。「書かれる」ことによって、いままでことばにならなかったことが「見える事実=詩」になった。花を残した人の「肉体」のなかでうごいていたものが「論理的」に浮かび上がり、ゆるぎのないものになった。
ここで詩は終わってもいいのだが、田口はこのあともう一連書いている。
ここでまた文体は詩から散文にもどるのだけれど、私は最後の「めでたく」に思わず棒線をひき、そこから線を伸ばして余白に☆マークを書き込んだ。これについて書きたいと思ったのだ。
この「めでたく」は「詩」のことばではない。詩のことばではない、というのは「清々しく」というような、何かを修飾するために追加されたことばではない、ということ。
二連目に出てきた「歳はとりたくねえもんだ」とか「来年の草刈りはもう無理だよ」ということばと同じように、そのとき誰かからもらされた「実感」のことばである。「よかったなあ」という「安心」のことばである。
それは、無意識のうちに、老人クラブの人たちの「肉体」のなかに動いていたことばなのだ。ちゃんと刈れるかなあ、ちゃんと刈れたなあ。めでたいことだなあ。
肉体の奥で生きていたことばが、ふっと開放されて表に出てくる。
それは一輪だけ残された花のように目を引く。
田口の詩には、この詩の最終連を除いたような作品が多い。ある情景を「論理」でととのえ、そこから「意味」を引き出すという感じのものが。
それはそれでいいけれど、私は、そのあとに追加されたもの、ふっと肉体の奥からあふれてきた「ことば」の方が好き。「自然」がある。そういうことばは、「新しい論理」ではなく、むしろ逆である。むかしからある「実感」。「肉体」のなかにいきつづけている「思い」。それが、ふっと思い出されて、ことばになっている。
それが、詩の最初の部分、鎌の素振りとか、草刈りをしながらのぼやきと結びつき、世界を立体的にしている。とても「強い」ものを感じる。「自然」の強さ、「生きている」強さを感じさせる。
田口三舩『能泉寺ヶ原』の「花いちりん揺れた朝」は、こんな具合に始まる。
老人クラブの会員一同 うち揃って
鎌の素振りなどしながら腕を確かめ合い
恒例の堤防の草刈りである
ちょっと清々しい一日のはじまり
四行目の「清々しい」と書きたい気持ちはわかるけれど、そう書いてしまうと「詩」を狙っているようで、私なんかはおもしろくない。おもしろくない、と書きながらこの連を引用したのは「鎌の素振りなどしながら」が具体的で、こっちの方が「詩」なんだよなあ、と言いたかったからである。
草刈りというのは、私は長いあいだしていないが、あれはけっこう大変で、草刈り前に鎌をどう動かすか、「素振り(すぶり)」をしてみるのは、体にとっていいことだ。事故を防げる。「腕を確かめ合い」というのは、「いや、そうじゃない、こうだよ」と教えあっているのだろう。なんだが、そこにいるひとが見るえるようでうれしい。
しばらくすると
歳はとりたくねえもんだとぼやいたり
来年の草刈りはもう無理だよなどと
あちこちから心細げな声しきり
この二連目も散文的だけれど具体的。
途中を省略するが、そのあと、こんなことがある。
とその時
刈り込んだ草の間から
澄みきった空の色を映した花がいちりん
首をもたげて朝の風に揺れている
ぼやきながら誰かが
鎌をちょっと手加減して
この澄みわたった空の色の花に
イノチのひとかけらを吹きかけたのだ
あ、いいなあ。「書かれる」ことによって、いままでことばにならなかったことが「見える事実=詩」になった。花を残した人の「肉体」のなかでうごいていたものが「論理的」に浮かび上がり、ゆるぎのないものになった。
ここで詩は終わってもいいのだが、田口はこのあともう一連書いている。
老人クラブの会員一同 来年の方を見やり
ひときわ明るくわっはっはと笑って
今年の草刈りは無事にそして
めでたく終わったのだ
ここでまた文体は詩から散文にもどるのだけれど、私は最後の「めでたく」に思わず棒線をひき、そこから線を伸ばして余白に☆マークを書き込んだ。これについて書きたいと思ったのだ。
この「めでたく」は「詩」のことばではない。詩のことばではない、というのは「清々しく」というような、何かを修飾するために追加されたことばではない、ということ。
二連目に出てきた「歳はとりたくねえもんだ」とか「来年の草刈りはもう無理だよ」ということばと同じように、そのとき誰かからもらされた「実感」のことばである。「よかったなあ」という「安心」のことばである。
それは、無意識のうちに、老人クラブの人たちの「肉体」のなかに動いていたことばなのだ。ちゃんと刈れるかなあ、ちゃんと刈れたなあ。めでたいことだなあ。
肉体の奥で生きていたことばが、ふっと開放されて表に出てくる。
それは一輪だけ残された花のように目を引く。
田口の詩には、この詩の最終連を除いたような作品が多い。ある情景を「論理」でととのえ、そこから「意味」を引き出すという感じのものが。
それはそれでいいけれど、私は、そのあとに追加されたもの、ふっと肉体の奥からあふれてきた「ことば」の方が好き。「自然」がある。そういうことばは、「新しい論理」ではなく、むしろ逆である。むかしからある「実感」。「肉体」のなかにいきつづけている「思い」。それが、ふっと思い出されて、ことばになっている。
それが、詩の最初の部分、鎌の素振りとか、草刈りをしながらのぼやきと結びつき、世界を立体的にしている。とても「強い」ものを感じる。「自然」の強さ、「生きている」強さを感じさせる。