村永美和子はことばが好きである。特に新しいことばが。「朝 目が開くと」(『家 と ことば』待望社、1980年01月15日発行)は、そのことを端的に語っている。
朝のきらきらしたことば--と思って読んでいく。そして、わたしは実は2連目でつまずく。「色の ひだが こまやかだ」までは、ともかく新しいことばが好き、という喜びがあふれている。その次の2行である。
ほとばしることば--という印象が急に変わる。「粘りつく」と書いたあと、「勢いに合わず」とわざわざ書いている。そして、この「合わず」がたぶん村永の詩の特徴である。
多くの人は、ことばを「合わせる」。朝なら、朝日、新しい光。冷たい空気。新鮮さ。ところが、村永は「合わせない」。別なことばを借りていえば「ずらす」。
それは実は1連目から始まっている。ことばがあふれてくる。村永の肉体から、ことば自身の力で噴出してくる。それは新鮮な躍動だ--と思いたいが、よくよく読むと、ちょっと変である。つまり、ちょっと「ずれ」ている。
「喉に迫り上がってくる」はことばの勢いを強烈に表現している。あ、ことばがあふれてくるんだという印象を呼び覚ます。しかし、「歯磨きのにおいをかいだだけで」はどうだろう。「歯磨き」は新鮮な匂いがする。歯磨きをしたあと、口のなかはさっぱりする。これも新鮮さを含んでいる。しかし、それが「歯の隙間から 漏れてきそうに」とつづくと、ちょっと違った印象も生まれてくる。磨かれた歯のあいだから漏れてくることばは清潔で新鮮そうだけれど、考えようによっては、歯磨きをしているときにふいに襲ってくる嘔吐に似ていないだろうか?
どこかに「毒」がある。どこかに「毒」を感じさせる。「毒」があるからこそ、新鮮に響いてもくる。「肉体」の奥を刺激する。
2連目の、
も、よく読むと奇妙に「ずれ」がある。「日常」と「合わない」(合わず)部分がある。なぜ、コップの水? 勢いよくあふれるのは水道の水では? 蛇口からあふれる水ではないのか。それとも、コップに受け止めている水道の水ということだろうか。--そうだとしても、少し「ずれ」ている。ことばの動きに「ひねり」がある。
ことばを「ひねる」「ずらす」--そうすることで、日常にある隙間を拡大して見せる。間接の動きをぎくしゃくさせて、いままでなかった動きを呼び込む。つまり、意識をめざめさせる。
村永のことばの特徴はそこにある。
これは入浴する詩だが、「ふくらみかけていた ことば」という抽象に、突然「さら湯」(だれもつかっていない風呂のお湯、いちばん降風呂の湯、のことだろう)をかける。この「さら湯」という日常にどっぷりつかっていることばと抽象の出会い。これは、とんでもない「ずれ」である。「さら湯」ということばは入浴という状況をとりはらったところでは、え? いま、なんていったの?と問い返されるに違いないことばである。
こんなことばが、こんなふうに出会う。その「ずれ」が、私の意識のなかにある何かを目覚めさせる。新鮮な何かを呼び覚ます。
テーブルも皿も「日常」である。ところが、ことばをテーブルの上におくということは「日常」ではない。それはきわめて抽象的な表現であり、だれもテーブルの上に置かれたことばなど知らない。本だとか、活字が印刷された新聞だとかは、あくまで本、新聞であって、ことばそのものではない。
2連目の「?」にもびっくりする。
このマークは知っている。何をあらわすかも知っている。知らない人はいないだろう。でも、これは何? ことばをテーブルの上に置いたときの音?
村永は、奇妙に「ずれ」をつくりだし、「日常」に「合わない」(合わず)を引き込むのである。そして、その隙間でことばを動かすのである。
朝 目が開くと
もう 今日のことばが 喉に迫り上がっている
洗面所の歯磨きのにおいをかいだだけで
歯の隙間から 漏れてきそうに
コップの新しい水と いっしょに
勢いよく 噴き出す
明け方 衣替えしたらしい今朝のことばの着衣は
色の ひだが こまやかだ
白い陶器に 粘りつく光沢を見せ
その勢いに合わず ゆっくり ゆっくりと
わたしが三十年かかっても
組合わせられなかった この模様の重なり!
昼下がりの頃 出せるかもしれない
乾いた真昼のカンバスに のせられるかもしれない
姿を消す この色の渦巻きを……
朝のきらきらしたことば--と思って読んでいく。そして、わたしは実は2連目でつまずく。「色の ひだが こまやかだ」までは、ともかく新しいことばが好き、という喜びがあふれている。その次の2行である。
白い陶器に 粘りつく光沢を見せ
その勢いに合わず ゆっくり ゆっくりと
ほとばしることば--という印象が急に変わる。「粘りつく」と書いたあと、「勢いに合わず」とわざわざ書いている。そして、この「合わず」がたぶん村永の詩の特徴である。
多くの人は、ことばを「合わせる」。朝なら、朝日、新しい光。冷たい空気。新鮮さ。ところが、村永は「合わせない」。別なことばを借りていえば「ずらす」。
それは実は1連目から始まっている。ことばがあふれてくる。村永の肉体から、ことば自身の力で噴出してくる。それは新鮮な躍動だ--と思いたいが、よくよく読むと、ちょっと変である。つまり、ちょっと「ずれ」ている。
「喉に迫り上がってくる」はことばの勢いを強烈に表現している。あ、ことばがあふれてくるんだという印象を呼び覚ます。しかし、「歯磨きのにおいをかいだだけで」はどうだろう。「歯磨き」は新鮮な匂いがする。歯磨きをしたあと、口のなかはさっぱりする。これも新鮮さを含んでいる。しかし、それが「歯の隙間から 漏れてきそうに」とつづくと、ちょっと違った印象も生まれてくる。磨かれた歯のあいだから漏れてくることばは清潔で新鮮そうだけれど、考えようによっては、歯磨きをしているときにふいに襲ってくる嘔吐に似ていないだろうか?
どこかに「毒」がある。どこかに「毒」を感じさせる。「毒」があるからこそ、新鮮に響いてもくる。「肉体」の奥を刺激する。
2連目の、
コップの新しい水と いっしょに
勢いよく 噴き出す
も、よく読むと奇妙に「ずれ」がある。「日常」と「合わない」(合わず)部分がある。なぜ、コップの水? 勢いよくあふれるのは水道の水では? 蛇口からあふれる水ではないのか。それとも、コップに受け止めている水道の水ということだろうか。--そうだとしても、少し「ずれ」ている。ことばの動きに「ひねり」がある。
ことばを「ひねる」「ずらす」--そうすることで、日常にある隙間を拡大して見せる。間接の動きをぎくしゃくさせて、いままでなかった動きを呼び込む。つまり、意識をめざめさせる。
村永のことばの特徴はそこにある。
ふくらみかけていた ことばに
さら湯をかけたら
どちらも 球状になって…… (「ふくらみかけていた ことばに」)
これは入浴する詩だが、「ふくらみかけていた ことば」という抽象に、突然「さら湯」(だれもつかっていない風呂のお湯、いちばん降風呂の湯、のことだろう)をかける。この「さら湯」という日常にどっぷりつかっていることばと抽象の出会い。これは、とんでもない「ずれ」である。「さら湯」ということばは入浴という状況をとりはらったところでは、え? いま、なんていったの?と問い返されるに違いないことばである。
こんなことばが、こんなふうに出会う。その「ずれ」が、私の意識のなかにある何かを目覚めさせる。新鮮な何かを呼び覚ます。
テーブルの 上に
ことばを 置く
?
皿を置いたような
音がする (「テーブルの 上に」)
テーブルも皿も「日常」である。ところが、ことばをテーブルの上におくということは「日常」ではない。それはきわめて抽象的な表現であり、だれもテーブルの上に置かれたことばなど知らない。本だとか、活字が印刷された新聞だとかは、あくまで本、新聞であって、ことばそのものではない。
2連目の「?」にもびっくりする。
このマークは知っている。何をあらわすかも知っている。知らない人はいないだろう。でも、これは何? ことばをテーブルの上に置いたときの音?
村永は、奇妙に「ずれ」をつくりだし、「日常」に「合わない」(合わず)を引き込むのである。そして、その隙間でことばを動かすのである。
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