監督 ビリー・ワイルダー 出演 タイロン・パワー、マレーネ・ディートリッヒ、チャールズ・ロートン
私は「結末は言わないで」という映画が好きになれない。苦手だ。なぜ、言ってはだめ? 映画ってストーリーじゃないでしょ? 私はどんな推理物でも、犯人が分かっていても、全然気にならない。むしろ面倒くさい「謎解き」に頭を使わなくてもいいから、「犯人」を聞いていた方が楽に見られる。悩むのは自分の問題だけで十分――と思う。
で、この映画。
「結末は言わないで」と断っているけれど、チャールズ・ロートンが自分で「どうもおかしい」と自分で言ってしまっているのだから、言うも言わないも、どうでもいいじゃない? 力点は、ストーリーそのものというより、ストーリーの周辺の人物の描き方に置かれている。(だから、「結末」なんて、どうでもいいじゃないか、とよけいに思う。)
紋切り型かもしれないけれど、チャールズ・ロートンの「人間味」の描き方がていねいだねえ。葉巻が吸いたい。でも、止められている。看護婦がそばにいる。病み上がりなので殺人事件の弁護人なんか、したくない。――のだけれど、依頼に来た人の胸のポケットに葉巻があるのを見て、「それじゃ、お話をうかがいましょう」と事務室へひっぱりこむ。葉巻をねだる。それから、肝心のマッチがないことを知り、タイロン・パワーも事務室に引っ張り込む。直接話を聞くという名目で・・・。このあたりのリズムがなかなか楽しい。
そして、この一種の「正直」丸出しのチャールズ・ロートンと曲者のタイロン・パワーが関係してくるのだから、これはもう、タイロン・パワーが犯人に決まっているのだけれど、まあ、私なんかは、気づかなかったふりをしてそのまま映画を見ているのだけれど。
それから、「正直」というより、色男ぶりを利用して女に近づいてゆくタイロン・パワーの「甘さ」――それを見ながら、なるほどねえ、女はこうやって「甘さ」で誘うんだなあと感心する。(チャールズ・ロートンは看護婦に手を焼かせ「ほんとうに、面倒みてやらないと大変なんだから」と「甘やかせる」楽しみを与えるのとは逆だね。)
そのタイロン・パワーの「甘さ」に、マレーネ・ディートリッヒの「硬質」が出会って、あらあら、あんな気位の高そうな(ほほ骨が高いだけ?)の女も、やはり「甘さ」にひかれるんだなあ。もしかすると、タイロン・パワーが私(マレーネ・ディートリッヒ)の中に、誰も知らない「甘さ」があって、それが共鳴しているのかしら、と勘違いするのかなあ。
最後まで映画を見ていくと、まあ、マレーネ・ディートリッヒの女の「甘さ」が、「正直」として噴出してくる――これは確かにおもしろいなあ。そしてこの瞬間、理論的に見えたチャールズ・ロートンの「甘さ」も初めて浮かび上がる。チャールズ・ロートン自身は、どこかで自分の詰めが「甘い」と感じていたけれど、最後にそれを知るという構造だけれど。
で。そのおもしろさって、「結末」を知っていた方が、くっきりわかるんじゃないのかなあ。ストーリーに気を取られていたら、3人の「正直」と「甘さ」のぶつかり合いが見えないんじゃないかなあ。なぜ、「結末」を言ってはいけないのかな?
監督も役者も、苦労したのは「ストーリー」ではなく、「肉付け」でしょ?
「ストーリー」は小説で、すでにわかっていたのでは?
私は「結末は言わないで」という映画が好きになれない。苦手だ。なぜ、言ってはだめ? 映画ってストーリーじゃないでしょ? 私はどんな推理物でも、犯人が分かっていても、全然気にならない。むしろ面倒くさい「謎解き」に頭を使わなくてもいいから、「犯人」を聞いていた方が楽に見られる。悩むのは自分の問題だけで十分――と思う。
で、この映画。
「結末は言わないで」と断っているけれど、チャールズ・ロートンが自分で「どうもおかしい」と自分で言ってしまっているのだから、言うも言わないも、どうでもいいじゃない? 力点は、ストーリーそのものというより、ストーリーの周辺の人物の描き方に置かれている。(だから、「結末」なんて、どうでもいいじゃないか、とよけいに思う。)
紋切り型かもしれないけれど、チャールズ・ロートンの「人間味」の描き方がていねいだねえ。葉巻が吸いたい。でも、止められている。看護婦がそばにいる。病み上がりなので殺人事件の弁護人なんか、したくない。――のだけれど、依頼に来た人の胸のポケットに葉巻があるのを見て、「それじゃ、お話をうかがいましょう」と事務室へひっぱりこむ。葉巻をねだる。それから、肝心のマッチがないことを知り、タイロン・パワーも事務室に引っ張り込む。直接話を聞くという名目で・・・。このあたりのリズムがなかなか楽しい。
そして、この一種の「正直」丸出しのチャールズ・ロートンと曲者のタイロン・パワーが関係してくるのだから、これはもう、タイロン・パワーが犯人に決まっているのだけれど、まあ、私なんかは、気づかなかったふりをしてそのまま映画を見ているのだけれど。
それから、「正直」というより、色男ぶりを利用して女に近づいてゆくタイロン・パワーの「甘さ」――それを見ながら、なるほどねえ、女はこうやって「甘さ」で誘うんだなあと感心する。(チャールズ・ロートンは看護婦に手を焼かせ「ほんとうに、面倒みてやらないと大変なんだから」と「甘やかせる」楽しみを与えるのとは逆だね。)
そのタイロン・パワーの「甘さ」に、マレーネ・ディートリッヒの「硬質」が出会って、あらあら、あんな気位の高そうな(ほほ骨が高いだけ?)の女も、やはり「甘さ」にひかれるんだなあ。もしかすると、タイロン・パワーが私(マレーネ・ディートリッヒ)の中に、誰も知らない「甘さ」があって、それが共鳴しているのかしら、と勘違いするのかなあ。
最後まで映画を見ていくと、まあ、マレーネ・ディートリッヒの女の「甘さ」が、「正直」として噴出してくる――これは確かにおもしろいなあ。そしてこの瞬間、理論的に見えたチャールズ・ロートンの「甘さ」も初めて浮かび上がる。チャールズ・ロートン自身は、どこかで自分の詰めが「甘い」と感じていたけれど、最後にそれを知るという構造だけれど。
で。そのおもしろさって、「結末」を知っていた方が、くっきりわかるんじゃないのかなあ。ストーリーに気を取られていたら、3人の「正直」と「甘さ」のぶつかり合いが見えないんじゃないかなあ。なぜ、「結末」を言ってはいけないのかな?
監督も役者も、苦労したのは「ストーリー」ではなく、「肉付け」でしょ?
「ストーリー」は小説で、すでにわかっていたのでは?
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>チャールズ・ロートンの「人間味」の描き方がていねいだねえ。葉巻が吸いたい。でも、止められている。看護婦がそばにいる。(略)このあたりのリズムがなかなか楽しい。
監督としても才能を発揮された方なんですね。また、ブログを拝読し、映画の前にまず原作を読もうと思った次第です。素敵な作品との出会いに感謝です。