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詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

河津聖恵「ふたたび花園」

2008-12-25 08:52:00 | 詩集
河津聖恵「ふたたび花園」(「現代詩手帖」2008年12月号)

 河津聖恵「ふたたび花園」の初出誌は『神には外せないイヤホンを』(2008年03月)。 「ガーデンミュージアム比叡」を3年ぶりに尋ねたときのことを書いている。その後半。

「カフェ・ド・パリ」でこんどは奥の席ではなく
窓際をこともなげに選び
同じアイスコーヒーを頼む
客たちの静かなざわめきを撫で
アルペジョーネ・ソナタが流れ
アダージョに少しずつ未来が微分されていく
テーブルにひろげた頁に潮のようにゆっくりみちてくるひかり
文字たちに意味はこくこくとやってくる
ミツバチが花の蜜を熱心に吸うように   2007・7・30

 「こんどは」「同じ」は3年前との比較である。違うものがあり、同じものがある。そして「違い」が3年という時間を浮かび上がらせる。3年という「過去」。それがあるから、音楽が「微分」するのは「未来」になる。
 そして、「積分」ではなく、「微分」であるところが、この作品のポイントなのだ。「未来はそのなかに含まれる「過去」を思い出すのだ。「未来」はいま、ここにはなく、想像するしかないものなのに、想像した瞬間から、「過去」を呼び込んでしまう。
 こういう「過去」のことを、河津は、「意味」ということばで言い換えている。
 河津は、それをあたかも「ミツバチが花の蜜を熱心に吸うように」、しっかりすくい取ろうとしている。
 河津は、この詩の中で、「時間論」をこころみている。時間と人間存在について考えている。とても哲学的な作品だ。
 末尾に「2007・7・30」と記されている。これはこの詩を書いた日時であろう。哲学的なしてあるからこそ、その思考が動いた瞬間をしっかりと記録し、点検しようとするのかもしれない。

 この詩には、詩の本文に匹敵するような「後書き」というか「注釈」がついている。

過去、思い出はセイレーンの呼び声のようだ。私たちをときに苦しめる。しかしそれは、私たちにこころを封じる蜜蝋があるからで、むしろそれを解き、時の真意を知ろうと努めることが必要なのだと思う。私たちを悲しませるヒグラシにも、識られざる神の音域がある。

 「時の真意」。これは、とても微妙なことばである。「時」は生き物ではない。そういうものに「真意」とういものが、存在するか。
 「時」は存在するが、それは人間が「時」を考えるときにはじめて姿をあらわすものにすぎない。一種の「仮説」である。「時」という概念を導入することで、いろいろな現象を説明し、理解することが簡単になる。それはいわば人間が考え出したものである。人間が考え出したものであるから、そこに「真意」というものをとりこもうとすれば、とりこむこともできる。
 ここから、いわば「時間哲学」が始まる。

 河津は、その「哲学」に「悲しみ」を結びつける。「過去」「思い出」を結びつける。それは「未来」を「過去」「思い出」で先取りする抒情精神を浮かび上がらせる。抒情はときとしてセンチメンタルに流されるけれど、河津の場合、その流れを「哲学」で制御している。




神は外せないイヤホンを
河津 聖恵
思潮社

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