夜の儀式 リッツォス(中井久夫訳)
男どもはおんどりを、野鳩を、山羊を殺した。
肩に、首に、顔に血を分厚く塗った。一人など、
壁の方を向いてセックスに血を擦りつけた。
白いヴェールの女が三人、隅に立っていたが、
これを見て、小声で悲鳴を上げた。自分がされるように。男らは、
聞こえないふりをして、チョークで床に落書きをした、
長く延びた蛇を、古代の矢を。外では
太鼓が轟き、その音は近所の村全部に届いた。
*
実際に目撃した「儀式」というより写真か何かで見た「儀式」に触発されて、ことばが動いたのだろう。血と化粧。他人の(動物の)力を自分のなかに取り込むための方法だろう。
3行目「壁の方を向いて」という具体的な動きが、この詩をリアルなものにしている。
この詩で私が不思議に感じたのは、最終行である。「太鼓が轟き、その音は近所の村全部に届いた。」この行の「その」にとても不思議なものを感じた。「意味」がわからないわけではない。「その」は「太鼓」を指している。「太鼓の轟きの音」が近所の村に届いた。何も不思議はないかもしれない。
原詩がどうなっているかわからないのだが、この「その」の一瞬、間を置いた感じが、リッツォスの短い文体(中井の訳の、短い文体)と、どうもそぐわない。この行だけが、なぜか、とても長く感じられる。あるいは、不思議な「間」を持っている、といえばいいだろうか。多くのリッツォスの詩(中井の訳)はことばとことばがショートするくらいに接近している。「間」というものがない。ことろが、ここには「間」がある。そして、この「間」が、そのまま、夜の暗い闇のひろがりを感じさせる。村から村までの「距離」の空間を感じさせる。「呪術(?)」が超えていかなければならない「闇」を感じさせる。あるいは「呪術」を育てている「闇」を感じさせる。
こういう「間」というか、広い空間を感じさせることばは、リッツォスの詩には非常に少ないのではないだろうか、と思う。(私は、思い出すことができない。)
男どもはおんどりを、野鳩を、山羊を殺した。
肩に、首に、顔に血を分厚く塗った。一人など、
壁の方を向いてセックスに血を擦りつけた。
白いヴェールの女が三人、隅に立っていたが、
これを見て、小声で悲鳴を上げた。自分がされるように。男らは、
聞こえないふりをして、チョークで床に落書きをした、
長く延びた蛇を、古代の矢を。外では
太鼓が轟き、その音は近所の村全部に届いた。
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実際に目撃した「儀式」というより写真か何かで見た「儀式」に触発されて、ことばが動いたのだろう。血と化粧。他人の(動物の)力を自分のなかに取り込むための方法だろう。
3行目「壁の方を向いて」という具体的な動きが、この詩をリアルなものにしている。
この詩で私が不思議に感じたのは、最終行である。「太鼓が轟き、その音は近所の村全部に届いた。」この行の「その」にとても不思議なものを感じた。「意味」がわからないわけではない。「その」は「太鼓」を指している。「太鼓の轟きの音」が近所の村に届いた。何も不思議はないかもしれない。
原詩がどうなっているかわからないのだが、この「その」の一瞬、間を置いた感じが、リッツォスの短い文体(中井の訳の、短い文体)と、どうもそぐわない。この行だけが、なぜか、とても長く感じられる。あるいは、不思議な「間」を持っている、といえばいいだろうか。多くのリッツォスの詩(中井の訳)はことばとことばがショートするくらいに接近している。「間」というものがない。ことろが、ここには「間」がある。そして、この「間」が、そのまま、夜の暗い闇のひろがりを感じさせる。村から村までの「距離」の空間を感じさせる。「呪術(?)」が超えていかなければならない「闇」を感じさせる。あるいは「呪術」を育てている「闇」を感じさせる。
こういう「間」というか、広い空間を感じさせることばは、リッツォスの詩には非常に少ないのではないだろうか、と思う。(私は、思い出すことができない。)