鈴木正枝『キャベツのくに』(ふらんす堂、2010年03月08日発行)
「四月」という作品がある。その書き出し。
この「同時に/私も」に鈴木正枝の「思想」が結晶していると思う。「同時に/私も」の「も」が、特に印象に残る。「私は」ではなく「私も」。常に何かによりそう。それは、この詩のことばを借りて言えば「護る」ということになる。自己主張ではなく、自己がなくなってもいいと覚悟して、他者によりそい、他者を護る。そのとき、他者は護られ、同時に「私も」護られる。私のなかで護りたかった「私」が護られる。
「も」をとおして、「私」は「ほんとうの私」を発見する。
護りながら、護られる。そして、あたらしい自分(ほんとうの自分)を見つけ出し、生きはじめる。そのこと、その相互作用のようなものに感謝をこめながら、鈴木はことばを動かしている。そう感じた。
「四月」は、たぶん球根を埋める、球根を育てるという詩である。球根を土に埋める。冬のあいだは土にうまっている。そのあいだも球根は生きている。そして、
これは、四月になり、芽を出し、茎をのばし、花を咲かせるチューリップか何かを比喩的に書いたものだと思って読むと、情景がわかりやすくなる。
ただし、それは単なるチューリップではない。チューリップになった「私(鈴木)」でもある。
チューリップがその球根の中に護っていたいのち、それが春になって騒ぎだし、芽を出し、茎をのばし、花を開く。そのとき、鈴木が鈴木の肉体のなかでまもっていた愛が、ふとざわめきだす。外へ出たがる。そして、実際に外へ出てしまう。こころが肉体を捨てて、あふれだしてしまう。あふれだしたこころは、肉体を離れてしまって、不安である。不安はどこまでも広がる。そして、愛は不安を内部に秘めているから輝く。不安の形で花開きながら輝く。
その不安によりそう肉体。肉体が、その不安によりそうとき、肉体の中に不安が育つ。それはのどまであふれてくる。のどは悲鳴でいっぱいになる。けれど、声は出ない。声にならないものを秘めて、肉体はそのとき輝く。
「も」のなかで、鈴木はチューリップと一体になる。区別がつかなくなる。姿形は鈴木とチューリップは違うけれど、ことばのなかで、ひとつになる。そのときの大切なことばが「も」なのだ。
鈴木の作品は、そこに「私も」ということばがないときがある。ないときがあるけれど、ほんとうは、それは隠れているだけである。「私も」を補ってみると、鈴木という詩人がとてもよく見えてくる。
たとえば「にんげん」。
終わりから3行目、「同時に私も」は、鈴木の詩にはない。私がかってに挿入してみたものだ。かってに挿入してみたものだが、私はここに、鈴木の、ことばにならなかったことば「同時に/私も」があると実感してしまう。
鈴木はもちろん最初から人間なのだが、美術館にやってきた彫像(にんげん)に触れることで、その彫像が具現化している「堂々」を自分のものにするのだ。ここでは「四月」とは逆に、「にんげん」が鈴木(私)を護るもの、よりそうものなのだが、よりそえば、どちらがどちらによりそっているということは問題ではなくなる。互いによりそい、互いに支えあい、互いに育っていく。単によりそうだけではなく、「触れば」なおさらである。
ところで、その「触る」だが、「大きいねえ 山のよう/動かない/ちょっと触ってごらん」は、誰が誰に対して言ったことばか。鈴木は誰かといっしょに美術館へ行ったとは書いてはいない。ひとりで言っているのだ。
この「触ってごらん」は鈴木が、鈴木の内部にいる「私」に向かって言っている。そして、その「にんげん」に触るのは、鈴木のなかの、まだ「にんげん」になっていない(人間の自覚のない)「私」である。その「私」が「にんげん」に触ることで、それまでの「私」を突き破って、外に出てくる。チューリップの球根から芽が出て、茎が伸びて、花が咲くみたいに。そして「にんげん」になって、そこに立つ。
「四月」という作品がある。その書き出し。
埋めました
護ろうとして
護りたかったから
同時に
私も埋まりました
この「同時に/私も」に鈴木正枝の「思想」が結晶していると思う。「同時に/私も」の「も」が、特に印象に残る。「私は」ではなく「私も」。常に何かによりそう。それは、この詩のことばを借りて言えば「護る」ということになる。自己主張ではなく、自己がなくなってもいいと覚悟して、他者によりそい、他者を護る。そのとき、他者は護られ、同時に「私も」護られる。私のなかで護りたかった「私」が護られる。
「も」をとおして、「私」は「ほんとうの私」を発見する。
護りながら、護られる。そして、あたらしい自分(ほんとうの自分)を見つけ出し、生きはじめる。そのこと、その相互作用のようなものに感謝をこめながら、鈴木はことばを動かしている。そう感じた。
「四月」は、たぶん球根を埋める、球根を育てるという詩である。球根を土に埋める。冬のあいだは土にうまっている。そのあいだも球根は生きている。そして、
温度が上がり光が満ち
護られていたはずのものがざわめきだし
ぶつかり合いながら
地表に飛び出してしまったのです
我慢できずに
光の中にみるみる拡散していく
膨大な不安
忘れたふりさえできなくなりました
見守っていたのです
ひと時も眼を離さずに
飛び散った芽が伸び茎になって
やがて花は咲く
のどの奥は
いまにもつぶれそうなほどの悲鳴で
いっぱいです
これは、四月になり、芽を出し、茎をのばし、花を咲かせるチューリップか何かを比喩的に書いたものだと思って読むと、情景がわかりやすくなる。
ただし、それは単なるチューリップではない。チューリップになった「私(鈴木)」でもある。
チューリップがその球根の中に護っていたいのち、それが春になって騒ぎだし、芽を出し、茎をのばし、花を開く。そのとき、鈴木が鈴木の肉体のなかでまもっていた愛が、ふとざわめきだす。外へ出たがる。そして、実際に外へ出てしまう。こころが肉体を捨てて、あふれだしてしまう。あふれだしたこころは、肉体を離れてしまって、不安である。不安はどこまでも広がる。そして、愛は不安を内部に秘めているから輝く。不安の形で花開きながら輝く。
その不安によりそう肉体。肉体が、その不安によりそうとき、肉体の中に不安が育つ。それはのどまであふれてくる。のどは悲鳴でいっぱいになる。けれど、声は出ない。声にならないものを秘めて、肉体はそのとき輝く。
「も」のなかで、鈴木はチューリップと一体になる。区別がつかなくなる。姿形は鈴木とチューリップは違うけれど、ことばのなかで、ひとつになる。そのときの大切なことばが「も」なのだ。
鈴木の作品は、そこに「私も」ということばがないときがある。ないときがあるけれど、ほんとうは、それは隠れているだけである。「私も」を補ってみると、鈴木という詩人がとてもよく見えてくる。
たとえば「にんげん」。
美術館に
大きなにんげんが届いたので
自転車をとばして
毎日見に行く
今日は少し動いただろうか
かっちりと粘土で固められたにんげんは
背筋をまっすぐに伸ばし
右手を少し挙げて
立っている
堂々と
影もちゃんと立っていいるんだ
ガラス戸の反対側の
同じ位置に
同じ傾斜で太陽をあびて
大きいねえ 山のよう
動かない
ちょっとだけ触ってごらん
こんなに堂々と
こんなになったかいんだよ にんげんだからね
同じかたちを真似して並んでみると
同時に私も
にんげんになった気がする
立っている気がする
終わりから3行目、「同時に私も」は、鈴木の詩にはない。私がかってに挿入してみたものだ。かってに挿入してみたものだが、私はここに、鈴木の、ことばにならなかったことば「同時に/私も」があると実感してしまう。
鈴木はもちろん最初から人間なのだが、美術館にやってきた彫像(にんげん)に触れることで、その彫像が具現化している「堂々」を自分のものにするのだ。ここでは「四月」とは逆に、「にんげん」が鈴木(私)を護るもの、よりそうものなのだが、よりそえば、どちらがどちらによりそっているということは問題ではなくなる。互いによりそい、互いに支えあい、互いに育っていく。単によりそうだけではなく、「触れば」なおさらである。
ところで、その「触る」だが、「大きいねえ 山のよう/動かない/ちょっと触ってごらん」は、誰が誰に対して言ったことばか。鈴木は誰かといっしょに美術館へ行ったとは書いてはいない。ひとりで言っているのだ。
この「触ってごらん」は鈴木が、鈴木の内部にいる「私」に向かって言っている。そして、その「にんげん」に触るのは、鈴木のなかの、まだ「にんげん」になっていない(人間の自覚のない)「私」である。その「私」が「にんげん」に触ることで、それまでの「私」を突き破って、外に出てくる。チューリップの球根から芽が出て、茎が伸びて、花が咲くみたいに。そして「にんげん」になって、そこに立つ。