「現代詩講座」の参加者が詩を読み、それぞれに感想を語り合った。20行以内の詩を持ち寄り、その場で読んで、その場で感想を語り合うという、即興詩ならぬ「即興感想」のような感じで、これはなかなかむずかしいやりとりだった。
この日の作品のなかから2篇。
2連目の「顎を引いて……」以後の部分は、その通りだ、いや説教くさい。あるいは「上を向いて歩こう」という「教え」が多いなかで「下を向いて」というのはおもしろい、という意見があった。守られて当然のことが「お作法」になっている点に「時代」を感じる、などなど、「内容」(意味)に反応した読み方が、いろいろ語られた。
一方で、最後のどんでん返し(落ち?)がおもしろい。ことばのずれ方がおもしろい、という意見があった。1連目の「恥骨を立てて下さい/なんだか恥ずかしい気分で尋ねました/私の恥骨は眠っているのでしょうか」という意見もあった。ひとり一言ずつという限定で感想を語り合ったので、なかなか「読み方」を深めていくということまではできなかったのだが、私もこの3行が非常におもしろいと思った。
そのとき私がおおざっぱに語ったこと、思ったことを、少し補足しておく。
「恥骨を立てて下さい」という行の中にある「恥」。それが「恥ずかしい」を呼び覚ます。ことばは、「音」で呼び覚まされて動くものがある一方で、「文字」で呼び覚まされて動くものもある。「恥骨」には、それが「恥骨」と名づけられただけの理由があるのだろうけれど、ことばをあとから知った人間は、そういうことは関係なく「音」や「文字」に反応し、そこから「暴走する」ことがある。想像力がかってにどこかへ疾走し始めることがある。
「恥骨」から「恥」という一文字への暴走。それが、私にはとてもおもしろかった。先生は、「恥骨」を「恥ずかしい」とは思わない。だから「恥骨」という。けれど、そのことばを聞いた「私(吉本)」は「音」ではなく「恥(骨)」という文字に反応して「恥ずかしい」という気持ちへ暴走する。
この「文字」とは「漢字」、つまり「表意」文字である。一字一字が意味を持つ。あるいは絵画のような形象を持つ。別なことばでいうと、「イメージ」を持つ。「漢字」にはそれぞれ「イメージ」がある。
そんなことを私は考えるけれど、その「イメージ」が次の行に「正しくイメージすれば脳が覚えてくれる」という形で出てくる。「正しくイメージすれば脳が覚えてくれる」というのは一種の「哲学」であるけれど、「イメージ」が「恥(骨)」→「恥」という漢字そのものとなってつながって動くので、この1行がとてもわかりやすい。「恥(骨)」→「恥」という移行は、「こころ」ではなく「脳」の動きでもある。「漢字」という「文字」そのものに寄り掛かるようにして動いている。「こころ」は「漢字」などには頼らずに動くだろう。「脳」は、「文字」のような「学問」に関係して動くのである。
この「正しくイメージすれば脳が覚えてくれる」は、「イメージ論」として、おもしろいというか、説得力があると思う。特に「恥骨」→「恥」という「こころ」の動き、その移行のあり方を鮮明に描き出していると思う。「イメージ」のように「見える」ものにしていると思う。「こころ」の動き、というのは、本来目に見えないのだけれど、「漢字」のおかげで「動き」が見える。そういう効果をあげている。
2連目は、私は感心しなかったが、3連目はおもしろい。私が踏んでいるもの--それが私にわからないわけはない。普通は。ここでは、「私(吉本)」は「わざと」わからないふりをしている。嘘をついている。(私の「現代詩講座」は「詩は気障な嘘つき」というのがテーマである。)で、この「嘘」のなかには、「実体」はない。「実体」はなくて、「イメージ」がある。先生に、「イメージ」で反論しているのである。
「恥骨を立てて下さい」は「私(吉本)」にとって「イメージ」である。なんだか、よくわからない。「立てて下さい」は「イメージ」としてはわかるけれど、実際の「肉体」の動きとしてはわからない。わからないから「恥ずかしい気分で尋ね」もしたのである。で、そのわけのわからない「イメージ」のなかでとまどっている「私(吉本)」が踏んでいるもの--それは先生から見ればどんな「イメージ」なんですか? 猫の尾っぽ? シロツメクサ? ねえ、教えて下さい。
「わざと」のなかには、ちょっと意地悪があるね。先生への仕返しがあるね。こういうやりとりって「日常」でもあるね。そんなことが紛れ込んでくる。「嘘」に「ほんとう」が紛れ込んでくる。--こういうのが、おもしろい。私は好きだなあ。
意地悪されると、ちょっと時間が止まる。意地悪に引っ張られて何かを見落としてしまう。そして、4連目がやってくる。
「先生……」と言ったのは「私(吉本)」。先生、ぼんやりしていてはいけませんよ。これは仕返しだね。
それに対して、先生は「あらあらあなた畳の縁は踏んではいけません」と、我にかえって「作法」で反撃する。
いいなあ、このやりとり。
でも、いちばんいいのは、やはり1連目の「恥骨を立てて下さい」からの3行だね。この3行があるから、ことばがここまで動いてきた。ことばは、ことば自身の力で動いてしまう。それを詩人がわきから支えるようにしてついていく。そのとき、詩が生まれるのかもしれない。
*
この詩について最初の発言者が「東日本大震災」について書いたものだと指摘したとき、私は正直びっくりしてしまった。ほとんど全員が大震災を思い浮かべたと知って、さらに驚いた。このことについてはあとで書くことにして……。
大震災と理解して読んだ仲間は、2連目を桜の悲惨な状況と描いているととらえた。津波のために幹から折れてしまった、老いた桜である。しかし、その傷ついた桜が花を咲かせ散っていく--そこにいのちの力を読みとっている。これは多くの仲間の共通の解釈のように感じられた。そして、そういういのちの力に共感するからこそ「うわべだけのはなやかな」からの3行に対して「桜がかわいそう」という声も聞かれた。日本画の世界を思い浮かべる仲間がいて、またこの詩を書いた上原をタフな詩人だと批評する声も出た。桜の、この生命力に怖さを感じるという声もあった。最後の1行の「心に刻みつけた」の「心」は「私の心」のことか、とひとりが念押しをした。上原が被災地に咲く桜、そして散っていく桜をみて、それを「わたしの(上原の)」こころに刻みつけた--そのことに対する共感の確認であった。
私はみんなの感想を聞きながら、あ、そういうことを描いているのか--と教えられながら、どうしても疑問に思い、聞いてみた。
「どうして、震災のことを描いていると思う?」
「今年の三月の、で震災を思わないひとはいない」
たしかにそうなのだが……。
私は、この詩を大震災以後のことを書いていると思わなかった理由を書いておく。私は「去年」と「今年の三月」の組み合わせから、この詩は「三月」にもなっていないときの詩と思った。「今年の三月」に起ることを知っているか、と疑問に思っている詩だと思い、読み始めたのである。起きたことではなく、「予兆」を描いた詩として読んだのである。(予兆だとしても、「今年の三月」なら大震災、ということになる--と指摘を受けた。)
なるほどなあ。
それでも、私の意識は大震災とは結びつかなかった。
なぜだろう。
私は、いま思い返すと、大震災を「今年の三月」のこととは思っていないのだ。みんなと語り合っていたときは気がつかなかったが、大震災は「今年の三月」のできごとではない。「今年の三月」というのは、「去年」から見ると未来であり、いま(4月)から見ると過去である。--ところが、私には大震災が「過去」とは感じられない。そのためかもしれない。大震災のことを書くとしても、私は「今年の三月」という言い方をしないと気がついたのだ。「今年の」という限定が、私の「読み方」とうまい具合に出会えなかったのである。
こういう「時間」がときどき、ある。
「今年の」(あるいは、何年前の)から、無関係に存在する「時間」がある。たとえば、8月6日、8月9日、8月15日。そして、9月11日。さらに3月11日。(1月17日という人もいると思うけれど。)それは何年前だっけ? よくわからない。けれど、その日付だけははっきりわかる。
大震災の詩であると思わなかった理由はもうひとつある。私には大震災の詩が書けないからである。ことばが動かない。私のことばは、大震災の発生から、ずーっと遅れている。追いつけない。だから、大震災のことが書かれているとは思いつくこともできなかったのだ。
あ、ここに大震災に向けて、自分自身のことばでかかわっていこうとする人がいる--そう気づいて、この「講座」はおもしろいものになると思った。ことばの力を借りて(利用して)自分から出ていく、自分からでてどこかへ行こうとする。そこにも、かならず詩がある、詩が動く、と思う。
*
よみうりFBS文化センター「現代詩講座」は次の要領で開催してます。受講生を募集中です。
テーマは、
詩は気取った嘘つきです。いつもとは違うことばを使い、だれも知らない「新しい私」になって、友達をだましてみましょう。
現代詩の実作と鑑賞をとおして講座を進めて行きます。
このブログで紹介した作品も取り上げる予定です。
受講日 第2、4月曜日(月2回)
13時-14時30分(1 時間30分)
受講料 3か月全納・消費税込み
1万1340円(1か月あたり3780円)
維持費630円(1か月あたり 210円)
開 場 読売福岡ビル9階会議室
(福岡市中央区赤坂1、地下鉄赤坂駅2番出口から徒歩3分)
申し込み・問い合わせ
よみうりFBS文化センター
(福 岡)TEL092-715-4338
FAX092-715-6079
(北九州)TEL093-511-6555
FAX093-541-6556
この日の作品のなかから2篇。
お作法について 吉本洋子
茶道教室に通い始めたのですが
先生のおっしゃる言葉が良く分かりません
恥骨を立てて下さい
なんだか恥ずかしい気分で尋ねました
私の恥骨は眠っているのでしょうか
正しくイメージすれば脳が覚えてくれると
先生はおっしゃいます
あなたの場合脳もまた働いていません
毎日上を向いて暮らしていると首の後ろが圧迫され
脳に十分な酸素が供給されません
顎を引いて目線はやや下方に
足裏を正しく地面につけて歩かなければなりません
上ばかり向いていては見えるものも見えません
地面に開いた穴だって見逃します
先生私の足が踏んでいるのは猫の尾でしょうか
茂り始めたシロツメクサでしょうか
先生のおっしゃる正しい歩き方って
先生お釜が沸騰してお湯が噴き零れています
あらあらあなた畳の縁は踏んではいけません
2連目の「顎を引いて……」以後の部分は、その通りだ、いや説教くさい。あるいは「上を向いて歩こう」という「教え」が多いなかで「下を向いて」というのはおもしろい、という意見があった。守られて当然のことが「お作法」になっている点に「時代」を感じる、などなど、「内容」(意味)に反応した読み方が、いろいろ語られた。
一方で、最後のどんでん返し(落ち?)がおもしろい。ことばのずれ方がおもしろい、という意見があった。1連目の「恥骨を立てて下さい/なんだか恥ずかしい気分で尋ねました/私の恥骨は眠っているのでしょうか」という意見もあった。ひとり一言ずつという限定で感想を語り合ったので、なかなか「読み方」を深めていくということまではできなかったのだが、私もこの3行が非常におもしろいと思った。
そのとき私がおおざっぱに語ったこと、思ったことを、少し補足しておく。
「恥骨を立てて下さい」という行の中にある「恥」。それが「恥ずかしい」を呼び覚ます。ことばは、「音」で呼び覚まされて動くものがある一方で、「文字」で呼び覚まされて動くものもある。「恥骨」には、それが「恥骨」と名づけられただけの理由があるのだろうけれど、ことばをあとから知った人間は、そういうことは関係なく「音」や「文字」に反応し、そこから「暴走する」ことがある。想像力がかってにどこかへ疾走し始めることがある。
「恥骨」から「恥」という一文字への暴走。それが、私にはとてもおもしろかった。先生は、「恥骨」を「恥ずかしい」とは思わない。だから「恥骨」という。けれど、そのことばを聞いた「私(吉本)」は「音」ではなく「恥(骨)」という文字に反応して「恥ずかしい」という気持ちへ暴走する。
この「文字」とは「漢字」、つまり「表意」文字である。一字一字が意味を持つ。あるいは絵画のような形象を持つ。別なことばでいうと、「イメージ」を持つ。「漢字」にはそれぞれ「イメージ」がある。
そんなことを私は考えるけれど、その「イメージ」が次の行に「正しくイメージすれば脳が覚えてくれる」という形で出てくる。「正しくイメージすれば脳が覚えてくれる」というのは一種の「哲学」であるけれど、「イメージ」が「恥(骨)」→「恥」という漢字そのものとなってつながって動くので、この1行がとてもわかりやすい。「恥(骨)」→「恥」という移行は、「こころ」ではなく「脳」の動きでもある。「漢字」という「文字」そのものに寄り掛かるようにして動いている。「こころ」は「漢字」などには頼らずに動くだろう。「脳」は、「文字」のような「学問」に関係して動くのである。
この「正しくイメージすれば脳が覚えてくれる」は、「イメージ論」として、おもしろいというか、説得力があると思う。特に「恥骨」→「恥」という「こころ」の動き、その移行のあり方を鮮明に描き出していると思う。「イメージ」のように「見える」ものにしていると思う。「こころ」の動き、というのは、本来目に見えないのだけれど、「漢字」のおかげで「動き」が見える。そういう効果をあげている。
2連目は、私は感心しなかったが、3連目はおもしろい。私が踏んでいるもの--それが私にわからないわけはない。普通は。ここでは、「私(吉本)」は「わざと」わからないふりをしている。嘘をついている。(私の「現代詩講座」は「詩は気障な嘘つき」というのがテーマである。)で、この「嘘」のなかには、「実体」はない。「実体」はなくて、「イメージ」がある。先生に、「イメージ」で反論しているのである。
「恥骨を立てて下さい」は「私(吉本)」にとって「イメージ」である。なんだか、よくわからない。「立てて下さい」は「イメージ」としてはわかるけれど、実際の「肉体」の動きとしてはわからない。わからないから「恥ずかしい気分で尋ね」もしたのである。で、そのわけのわからない「イメージ」のなかでとまどっている「私(吉本)」が踏んでいるもの--それは先生から見ればどんな「イメージ」なんですか? 猫の尾っぽ? シロツメクサ? ねえ、教えて下さい。
「わざと」のなかには、ちょっと意地悪があるね。先生への仕返しがあるね。こういうやりとりって「日常」でもあるね。そんなことが紛れ込んでくる。「嘘」に「ほんとう」が紛れ込んでくる。--こういうのが、おもしろい。私は好きだなあ。
意地悪されると、ちょっと時間が止まる。意地悪に引っ張られて何かを見落としてしまう。そして、4連目がやってくる。
先生お釜が沸騰してお湯が噴き零れています
あらあらあなた畳の縁は踏んではいけません
「先生……」と言ったのは「私(吉本)」。先生、ぼんやりしていてはいけませんよ。これは仕返しだね。
それに対して、先生は「あらあらあなた畳の縁は踏んではいけません」と、我にかえって「作法」で反撃する。
いいなあ、このやりとり。
でも、いちばんいいのは、やはり1連目の「恥骨を立てて下さい」からの3行だね。この3行があるから、ことばがここまで動いてきた。ことばは、ことば自身の力で動いてしまう。それを詩人がわきから支えるようにしてついていく。そのとき、詩が生まれるのかもしれない。
*
花びら 上原和恵
毎年何事もなかったように
生み出されている花
去年の満開の花はまぶしげだった
今年の三月の出来事を
桜は知っているだろうか
幹は苔むし亀裂が走り
皮はめくれ
無残にも中身をさらけ出し
現実をむき出しにしている
うわべだけの華やかな
薄紅色の花は
いっそうしらじらしい
群れをなし散っていく花びらは
沈んだ心を一層沈ます
冷たい風が身体を通り抜け
地面は真白く心も凍てつく
風に弄ばれ
コンクリートの歩道に舞い降りた
ひとひらの花びらを
心に刻みつけた
この詩について最初の発言者が「東日本大震災」について書いたものだと指摘したとき、私は正直びっくりしてしまった。ほとんど全員が大震災を思い浮かべたと知って、さらに驚いた。このことについてはあとで書くことにして……。
大震災と理解して読んだ仲間は、2連目を桜の悲惨な状況と描いているととらえた。津波のために幹から折れてしまった、老いた桜である。しかし、その傷ついた桜が花を咲かせ散っていく--そこにいのちの力を読みとっている。これは多くの仲間の共通の解釈のように感じられた。そして、そういういのちの力に共感するからこそ「うわべだけのはなやかな」からの3行に対して「桜がかわいそう」という声も聞かれた。日本画の世界を思い浮かべる仲間がいて、またこの詩を書いた上原をタフな詩人だと批評する声も出た。桜の、この生命力に怖さを感じるという声もあった。最後の1行の「心に刻みつけた」の「心」は「私の心」のことか、とひとりが念押しをした。上原が被災地に咲く桜、そして散っていく桜をみて、それを「わたしの(上原の)」こころに刻みつけた--そのことに対する共感の確認であった。
私はみんなの感想を聞きながら、あ、そういうことを描いているのか--と教えられながら、どうしても疑問に思い、聞いてみた。
「どうして、震災のことを描いていると思う?」
「今年の三月の、で震災を思わないひとはいない」
たしかにそうなのだが……。
私は、この詩を大震災以後のことを書いていると思わなかった理由を書いておく。私は「去年」と「今年の三月」の組み合わせから、この詩は「三月」にもなっていないときの詩と思った。「今年の三月」に起ることを知っているか、と疑問に思っている詩だと思い、読み始めたのである。起きたことではなく、「予兆」を描いた詩として読んだのである。(予兆だとしても、「今年の三月」なら大震災、ということになる--と指摘を受けた。)
なるほどなあ。
それでも、私の意識は大震災とは結びつかなかった。
なぜだろう。
私は、いま思い返すと、大震災を「今年の三月」のこととは思っていないのだ。みんなと語り合っていたときは気がつかなかったが、大震災は「今年の三月」のできごとではない。「今年の三月」というのは、「去年」から見ると未来であり、いま(4月)から見ると過去である。--ところが、私には大震災が「過去」とは感じられない。そのためかもしれない。大震災のことを書くとしても、私は「今年の三月」という言い方をしないと気がついたのだ。「今年の」という限定が、私の「読み方」とうまい具合に出会えなかったのである。
こういう「時間」がときどき、ある。
「今年の」(あるいは、何年前の)から、無関係に存在する「時間」がある。たとえば、8月6日、8月9日、8月15日。そして、9月11日。さらに3月11日。(1月17日という人もいると思うけれど。)それは何年前だっけ? よくわからない。けれど、その日付だけははっきりわかる。
大震災の詩であると思わなかった理由はもうひとつある。私には大震災の詩が書けないからである。ことばが動かない。私のことばは、大震災の発生から、ずーっと遅れている。追いつけない。だから、大震災のことが書かれているとは思いつくこともできなかったのだ。
あ、ここに大震災に向けて、自分自身のことばでかかわっていこうとする人がいる--そう気づいて、この「講座」はおもしろいものになると思った。ことばの力を借りて(利用して)自分から出ていく、自分からでてどこかへ行こうとする。そこにも、かならず詩がある、詩が動く、と思う。
*
よみうりFBS文化センター「現代詩講座」は次の要領で開催してます。受講生を募集中です。
テーマは、
詩は気取った嘘つきです。いつもとは違うことばを使い、だれも知らない「新しい私」になって、友達をだましてみましょう。
現代詩の実作と鑑賞をとおして講座を進めて行きます。
このブログで紹介した作品も取り上げる予定です。
受講日 第2、4月曜日(月2回)
13時-14時30分(1 時間30分)
受講料 3か月全納・消費税込み
1万1340円(1か月あたり3780円)
維持費630円(1か月あたり 210円)
開 場 読売福岡ビル9階会議室
(福岡市中央区赤坂1、地下鉄赤坂駅2番出口から徒歩3分)
申し込み・問い合わせ
よみうりFBS文化センター
(福 岡)TEL092-715-4338
FAX092-715-6079
(北九州)TEL093-511-6555
FAX093-541-6556