監督 マイケル・ウィンターボトム 出演 ケイシー・アフレック、ケイト・ハドソン、ジェシカ・アルバ
田舎町の保安官助手。この男がだんだん殺人に目覚めていく。ひとを殺すことがやめられなくなる。とてもおとなしい感じがするし、肉体的にも頑丈な感じがしないのだが、破壊のよろこびを知っている。
恋人(2人)を殴り殺すシーンがすごい。顔(頭の骨)がくずれるまでに殴りつづける。内臓が破裂するまで殴りつづける。残酷なのだが、あまり残酷さがつたわってこない。2人は、どうも、この男の「本質」を知っている。知っているといっても、「頭」で理解しているわけではない。「肉体」で共感している。破壊すること-破壊されることのつながりのなかで、主人公の男と出会っていることを納得している感じがする。だから、殴り殺されることを受け入れる。「キラー・インサイド・ミー」の「ミー」は基本的には主人公の保安官助手をさすのだが、被害者のありようもまた、別の意味で「キラー」なのだ。誘っているのだ。こういう見方は、女性蔑視につながるかもしれないので、「誘っている」ということばはよくないのかもしれないが、何か、自分自身の力で生きていくという感じ、何がなんでも(つまり、主人公のように他人を殺してまでも)生きていくという感じがつたわってこない。特に娼婦の女は通いつめてくる父子から金をまきあげようとしているのに、その感情が「ことば」だけで「肉体」からあふれてこない。それが主人公を動かす。「その手にのった。おれがやってやる」という感じ。
これはふたりの女だけではない。主人公を追い詰めていく捜査官や、被害者たちもそうなのである。どこかで男が「殺人者」になるのを許している。組合の幹部は、とっくにすべてを見抜いているのに(特に娼婦殺しの犯人が保安官助手であることを、「論理的」に証明し、男をおいつめているのに)、男が殺人者になることを許している。「よた話は頭の悪い奴のところでしろ」と、何度も主人公の男に言っている。「嘘をつくな、ほんとうのことは見抜いている」と何度も警告しているが、それは「もっとうまくやれよ」と言っている、「もっと気をつけて完全アリバイにしろ」とそそのかしているようも感じられる。どこかで、保安官助手が経営者を殺してくれれば組合員の生活は楽になるとまではいわないが、恨みつらみが発散できると感じているのかもしれない。経営者父子(娼婦の愛人父子)が殺されることを望んでいるような感じなのだ。
それは街全体が望んでいることなのかもしれない。「街」そのもののなかに「キラー」が存在していて、その「思い」が主人公の肉体のなかで発酵し、噴出するのかもしれない。あくまでも静かで、落ち着いた(沈滞した?)街の風景がそんな感じを思い起こさせる。「街」の外からやってきた捜査官は、いわば、この「空気」に阻まれて主人公を追い詰めることがなかなかできないのかもしれない。
この不思議な「事件」の背後には、また、「殺人者」を許してしまったこと、見逃してしまったことを、「自分の責任」と感じるひとの存在もある。上司の保安官がそうである。主人公の行為を見抜けなかった。そのことに責任を感じて自殺するのだが、この責任をとって自殺するという行為が、よくよく考えるとおかしなものであることがわかる。上司が自殺しても部下が逮捕されるわけではない。殺人が起きなくなるわけではない。保安官の自殺あとに、主人公は女教師を殺している。
主人公のなかの「キラー」のを許す、助長する--というのは、主人公にとっては昔からそうだったのだ。昔から「許された男」だったのだ。幼い少女をレイプしたときは、「養子」の兄が身代わりになった。主人公は罰せられなかった。自分の悪は罰せられることはない--男は、どこかでそう信じ込んでしまっている。その不思議な狂気、それを受け入れてしまう街の狂気--それが静かに静かに動いている。ケイシー・アフレックの肉体からは女を殴り殺すような暴力を感じることができないのだが、それがこの静かな静かな「街全体の狂気」を象徴しているようでもある。
ちょっと(いや、かなり不気味)な映画である。この狂気に、真っ正直に反応するのがアルコール中毒(?)のホームレスだけ、という構図が映画を弱くしているのかもしれない。そのホームレスの肉体だけが、肉体の痛みと感覚が一致している。感情が一致しているように感じられる。このホームレスひとりの肉体と「ストーリー」が向き合うのは、映画としてかなり厳しい。
「どこが」と正確に指摘できないのだが、どこかでつくり間違えてしまったという印象が残り、もどかしい感じのする映画である。
(2011年04月22日、シネリーブル2)
田舎町の保安官助手。この男がだんだん殺人に目覚めていく。ひとを殺すことがやめられなくなる。とてもおとなしい感じがするし、肉体的にも頑丈な感じがしないのだが、破壊のよろこびを知っている。
恋人(2人)を殴り殺すシーンがすごい。顔(頭の骨)がくずれるまでに殴りつづける。内臓が破裂するまで殴りつづける。残酷なのだが、あまり残酷さがつたわってこない。2人は、どうも、この男の「本質」を知っている。知っているといっても、「頭」で理解しているわけではない。「肉体」で共感している。破壊すること-破壊されることのつながりのなかで、主人公の男と出会っていることを納得している感じがする。だから、殴り殺されることを受け入れる。「キラー・インサイド・ミー」の「ミー」は基本的には主人公の保安官助手をさすのだが、被害者のありようもまた、別の意味で「キラー」なのだ。誘っているのだ。こういう見方は、女性蔑視につながるかもしれないので、「誘っている」ということばはよくないのかもしれないが、何か、自分自身の力で生きていくという感じ、何がなんでも(つまり、主人公のように他人を殺してまでも)生きていくという感じがつたわってこない。特に娼婦の女は通いつめてくる父子から金をまきあげようとしているのに、その感情が「ことば」だけで「肉体」からあふれてこない。それが主人公を動かす。「その手にのった。おれがやってやる」という感じ。
これはふたりの女だけではない。主人公を追い詰めていく捜査官や、被害者たちもそうなのである。どこかで男が「殺人者」になるのを許している。組合の幹部は、とっくにすべてを見抜いているのに(特に娼婦殺しの犯人が保安官助手であることを、「論理的」に証明し、男をおいつめているのに)、男が殺人者になることを許している。「よた話は頭の悪い奴のところでしろ」と、何度も主人公の男に言っている。「嘘をつくな、ほんとうのことは見抜いている」と何度も警告しているが、それは「もっとうまくやれよ」と言っている、「もっと気をつけて完全アリバイにしろ」とそそのかしているようも感じられる。どこかで、保安官助手が経営者を殺してくれれば組合員の生活は楽になるとまではいわないが、恨みつらみが発散できると感じているのかもしれない。経営者父子(娼婦の愛人父子)が殺されることを望んでいるような感じなのだ。
それは街全体が望んでいることなのかもしれない。「街」そのもののなかに「キラー」が存在していて、その「思い」が主人公の肉体のなかで発酵し、噴出するのかもしれない。あくまでも静かで、落ち着いた(沈滞した?)街の風景がそんな感じを思い起こさせる。「街」の外からやってきた捜査官は、いわば、この「空気」に阻まれて主人公を追い詰めることがなかなかできないのかもしれない。
この不思議な「事件」の背後には、また、「殺人者」を許してしまったこと、見逃してしまったことを、「自分の責任」と感じるひとの存在もある。上司の保安官がそうである。主人公の行為を見抜けなかった。そのことに責任を感じて自殺するのだが、この責任をとって自殺するという行為が、よくよく考えるとおかしなものであることがわかる。上司が自殺しても部下が逮捕されるわけではない。殺人が起きなくなるわけではない。保安官の自殺あとに、主人公は女教師を殺している。
主人公のなかの「キラー」のを許す、助長する--というのは、主人公にとっては昔からそうだったのだ。昔から「許された男」だったのだ。幼い少女をレイプしたときは、「養子」の兄が身代わりになった。主人公は罰せられなかった。自分の悪は罰せられることはない--男は、どこかでそう信じ込んでしまっている。その不思議な狂気、それを受け入れてしまう街の狂気--それが静かに静かに動いている。ケイシー・アフレックの肉体からは女を殴り殺すような暴力を感じることができないのだが、それがこの静かな静かな「街全体の狂気」を象徴しているようでもある。
ちょっと(いや、かなり不気味)な映画である。この狂気に、真っ正直に反応するのがアルコール中毒(?)のホームレスだけ、という構図が映画を弱くしているのかもしれない。そのホームレスの肉体だけが、肉体の痛みと感覚が一致している。感情が一致しているように感じられる。このホームレスひとりの肉体と「ストーリー」が向き合うのは、映画としてかなり厳しい。
「どこが」と正確に指摘できないのだが、どこかでつくり間違えてしまったという印象が残り、もどかしい感じのする映画である。
(2011年04月22日、シネリーブル2)
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