監督 ジェイソン・ライトマン 出演 アーロン・エッカート、マリア・ベロ、キャメロン・ブライト
たばこ業界のスポークスマンが主人公。巧みな話術と情報操作でたばこを擁護し続けるコメディ。--と書いてしまえば、もう書くことは何もないのだが、おもしろいのは「話術」というよりも、この映画のなかにたばこを吸うシーンが出てこないということだ。
たばこの害を否定するスポークスマンがたばこを吸わない。たばこ業界のトップもたばこを吸わない。たばこを吸わないで、たばこの害をのみ否定する。このたばこを吸う映像の欠如こそがこの映画の本当の痛烈なたばこへの批判である。
したがって、(というような感想の書き方は堅苦しすぎるかもしれないが……)、この映画のテーマは、本当は「たばこ批判」ではない。とても映画にはなりにくいもの、ことば批判、特にディベート批判がこの映画のテーマだろう。
途中に主人公が銃業界のスポークスマン、アルコール業界のスポークスマンと愚痴をこぼしあうシーンがある。そのなかで死者の数を自慢(?)しあう。死者の数はたばこがいちばん多い。銃もアルコールも統計的にはたばこにはおよばない。だから、自分がいちばんつらい仕事をしている。いわばいちばん嘘つきの仕事、いちばん攻撃される仕事にたずさわっている、と自慢する。ふたりは一瞬、どう反論していいのかわからなくなる。この、相手を一瞬どう反論していいのかわからなくさせることがディベートのコツなのである。(こういうシーンは何度か繰り返される)。
死者の数だけでは、たとえば銃の場合、暴力の問題が省略されている。アルコールの場合、判断力の問題が省略されている。ことばはいつでも「省略」によって何かをごまかすことがある。これは何を付加するかということで何を隠蔽するかという問題とも密接につながっている。
ディベートでいちばん省略されているのは、どういう論理が論理として正しいかという検証である。人(観客、大衆)は「論理」を見ない。見るのは「誰が困惑したか」ということだけである。「困惑」した方が負けである。人は何か正しいか知りたいというよりも、何かに味方して「勝利」を味わいたい、あるいは「敗北」する人間を見物したい。「敗北」する人間を大笑いしたい。
「敗北」した方も、論理的に敗北したわけではないから、「笑い者になった」ということが問題になるだけである。こういうことは映画のなかでそれなりに描かれてはいるけれど、ちょっと物足りない。
映画には向かないテーマだけれど、それを映画にしようとしたということだけは、まあ、評価に値するかもしれない。舞台の方がおもしろかったかなあ、と思う。舞台の方が、ことばと肉体の分離(乖離)が直接的に伝わってくると思う。こんなばかげたことを人間が言うということが直接的に伝わってくると思う。
*
映画を少し離れて……。
「非核三原則」をめぐる問題、「タウンミーティング」のやらせの問題を、映画を見ながらちょっと考えた。
「非核三原則についての議論まで封じるのはいかがなものか(言論の自由に反する)」という意見は、まるで高校生のディベートの安直な主張のようである。国民(観客、大衆)を自民党はばかにしている、見くびっているのかと思うと恐ろしくなる。
「非核三原則というが、実際に北朝鮮が核を開発し、ミサイル攻撃してきたとき、どうするのか」と言うけれど、それは「非核三原則」の問題ではなく、国防の問題である。国をどうやって守るかということから議論をはじめて、その仮定で具体的に北朝鮮の問題が出てくる、核の問題がでてくるというのと、いきなり非核三原則に対する議論が必要だというのでは論理が違う。「非核三原則」論議が必要だという主張が省略しているものは何なのか。その「省略」のなかにこそ、自民党の「思想」がある。「思想」はしばしば見えない形(隠されたまま)で押し広げられる。
「非核三原則」は被爆国の絶対に譲れない一線であるだろう。それを前提として、ではどんな国防の在り方が可能なのか、それを追求していくのが国会議員の仕事だろう。前提を放棄するだけではなく、何かを隠したまま、「議論は自由だ」「議論を封じてはいけない」というのは、ごまかしである。それこそ、本来の「非核三原則を維持したまま、何ができるか」という議論を圧殺するものだろう。
ことばの力がなくなっている。ことばの力が衰えている、と感じてしまう。
「小学生から英語を」というのも、ことばの力を身につけさせないための政策かなあ、と思ってしまう。
たばこ業界のスポークスマンが主人公。巧みな話術と情報操作でたばこを擁護し続けるコメディ。--と書いてしまえば、もう書くことは何もないのだが、おもしろいのは「話術」というよりも、この映画のなかにたばこを吸うシーンが出てこないということだ。
たばこの害を否定するスポークスマンがたばこを吸わない。たばこ業界のトップもたばこを吸わない。たばこを吸わないで、たばこの害をのみ否定する。このたばこを吸う映像の欠如こそがこの映画の本当の痛烈なたばこへの批判である。
したがって、(というような感想の書き方は堅苦しすぎるかもしれないが……)、この映画のテーマは、本当は「たばこ批判」ではない。とても映画にはなりにくいもの、ことば批判、特にディベート批判がこの映画のテーマだろう。
途中に主人公が銃業界のスポークスマン、アルコール業界のスポークスマンと愚痴をこぼしあうシーンがある。そのなかで死者の数を自慢(?)しあう。死者の数はたばこがいちばん多い。銃もアルコールも統計的にはたばこにはおよばない。だから、自分がいちばんつらい仕事をしている。いわばいちばん嘘つきの仕事、いちばん攻撃される仕事にたずさわっている、と自慢する。ふたりは一瞬、どう反論していいのかわからなくなる。この、相手を一瞬どう反論していいのかわからなくさせることがディベートのコツなのである。(こういうシーンは何度か繰り返される)。
死者の数だけでは、たとえば銃の場合、暴力の問題が省略されている。アルコールの場合、判断力の問題が省略されている。ことばはいつでも「省略」によって何かをごまかすことがある。これは何を付加するかということで何を隠蔽するかという問題とも密接につながっている。
ディベートでいちばん省略されているのは、どういう論理が論理として正しいかという検証である。人(観客、大衆)は「論理」を見ない。見るのは「誰が困惑したか」ということだけである。「困惑」した方が負けである。人は何か正しいか知りたいというよりも、何かに味方して「勝利」を味わいたい、あるいは「敗北」する人間を見物したい。「敗北」する人間を大笑いしたい。
「敗北」した方も、論理的に敗北したわけではないから、「笑い者になった」ということが問題になるだけである。こういうことは映画のなかでそれなりに描かれてはいるけれど、ちょっと物足りない。
映画には向かないテーマだけれど、それを映画にしようとしたということだけは、まあ、評価に値するかもしれない。舞台の方がおもしろかったかなあ、と思う。舞台の方が、ことばと肉体の分離(乖離)が直接的に伝わってくると思う。こんなばかげたことを人間が言うということが直接的に伝わってくると思う。
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映画を少し離れて……。
「非核三原則」をめぐる問題、「タウンミーティング」のやらせの問題を、映画を見ながらちょっと考えた。
「非核三原則についての議論まで封じるのはいかがなものか(言論の自由に反する)」という意見は、まるで高校生のディベートの安直な主張のようである。国民(観客、大衆)を自民党はばかにしている、見くびっているのかと思うと恐ろしくなる。
「非核三原則というが、実際に北朝鮮が核を開発し、ミサイル攻撃してきたとき、どうするのか」と言うけれど、それは「非核三原則」の問題ではなく、国防の問題である。国をどうやって守るかということから議論をはじめて、その仮定で具体的に北朝鮮の問題が出てくる、核の問題がでてくるというのと、いきなり非核三原則に対する議論が必要だというのでは論理が違う。「非核三原則」論議が必要だという主張が省略しているものは何なのか。その「省略」のなかにこそ、自民党の「思想」がある。「思想」はしばしば見えない形(隠されたまま)で押し広げられる。
「非核三原則」は被爆国の絶対に譲れない一線であるだろう。それを前提として、ではどんな国防の在り方が可能なのか、それを追求していくのが国会議員の仕事だろう。前提を放棄するだけではなく、何かを隠したまま、「議論は自由だ」「議論を封じてはいけない」というのは、ごまかしである。それこそ、本来の「非核三原則を維持したまま、何ができるか」という議論を圧殺するものだろう。
ことばの力がなくなっている。ことばの力が衰えている、と感じてしまう。
「小学生から英語を」というのも、ことばの力を身につけさせないための政策かなあ、と思ってしまう。