詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

ケン・ローチ監督「わたしは、ダニエル・ブレイク」(★★★★★)

2017-03-19 21:22:05 | 映画
監督 ケン・ローチ 出演 デイブ・ジョーンズ、ヘイリー・スクワイアーズ

 イギリスというと社会保障の充実した国という印象だが、社会保障を実際に「手にする」というのはなかなかたいへんだ。
 心臓病のために仕事ができなくなったダニエル・ブレイク(デイブ・ジョーンズ)と判定人(?)の、冒頭のやりとりが傑作である。手を帽子がかぶれるまで上げられるか。大便を洩らしたことがあるかないか、というような質問に答えていく。その質問で体の機能を確認し、仕事ができるかどうか判断するらしいのだが、医師が心臓に負担がかかるから仕事はだめ、と言ったことは無視される。考慮されても、いくつかある項目の一つにすぎない。従って、認定に必要な「点数」に達しない。非常に理不尽な判定である。
 で、このやりとり、さすがシェークスピアの国だけあって、理不尽なのだけれど楽しい。思わず笑ってしまう。単に怒るのではなく、ことばとして「おもしろく」怒る。余裕だなあ。笑いすぎて、何といったのか思い出せない、笑ってしまったということしか思い出せないのだけれど。
 このデイブ・ジョーンズとシングル・マザーのケイト(ヘイリー・スクワイアーズ)が出会い、助け合うという姿が描かれるのだが、一か所、はっと驚いたことがある。
 イギリスの個人主義というのは、ことばの国だけあって、その人が語らない限り、知っていても知らないことにするという「流儀」で成り立っている。ケイトは二人の子供をもっているが、その父親がだれなのか。ケイトと母親の関係は、ほんとうに仲がいいのか。あるいはデイブ・ジョーンズの妻はどういう人間だったのか。これは、すべて「当人」のことばで語られる。ことばで把握されなおされる。ことばになって、はじめて「真実」になる。
 こういうことば至上主義のような個人主義が、最後のデイブ・ジョーンズの「遺言」(社会に対するメッセージ)という形で表現される。デイブ・ジョーンズの「ことば」をヘイリー・スクワイアーズが「声」で語りなおす。そうすることで「ことば」が引き継がれていき、引き継ぎによって「真実」が残るという映画全体の構図ともなっているのだが……。
 一か所だけ、このイギリスの「個人主義」が破られている。
 ヘイリー・スクワイアーズは娘が学校でいじめられていると聞かされる。(これも、娘が自分のことば語る、というのがイギリスならでは。語らない限り、いじめは存在しないのだ。)そのいじめの原因となった靴を買うためにヘイリー・スクワイアーズは体を売る仕事を始める。デイブ・ジョーンズは、そのことを偶然知ってしまう。知ってしまったあと、なんとか彼女を助けたいと思い、彼女の仕事場へ行く。もちろんセックスをするためではないのだが。
 こういう展開はアメリカ映画なら当然だし、フランス映画でもありうる。しかしイギリス映画では珍しいと思う。少なくとも私はイギリス人らしくない行動だと思った。ヘイリー・スクワイアーズが売春をしていることは、彼女の「秘密」である。語られていない秘密、プライバシーは、他人が踏み込んではならないというのがイギリスのルールである。ほかのイギリス映画なら、デイブ・ジョーンズが封筒とメモからヘイリー・スクワイアーズが売春をしているとわかっても、直接売春宿へ押しかけるということはしないはずである。なぜ、デイブ・ジョーンズは、それを破ったのか。ケン・ローチは、なぜ、デイブ・ジョーンをそういう行動をする人間として描いたのか。
 答えは簡単である。売春が人間の尊厳を否定するからである。この答えは単純であるからこそ、見落としてしまう。デイブ・ジョーンズが問題にしているのは(あるいはケン・ローチ監督が問題にしているのは)、人間の尊厳ということである。人間の尊厳を否定するものだからこそ、プライバシーに踏み込んでしまう(個人主義のルールを破ってしまう)とわかっていても、行動してしまうのだ。自分で自分の尊厳を否定することはしてはいけない、とデイブ・ジョーンズは伝えに行く。
 ここに私はケン・ローチの「真剣」を見た。「正直」を見た。社会保障は「人間の尊厳」を守るために存在するはずなのに、それが機能していない。そのことに対する怒りをイギリスの個人主義と非常に強く関連づけて、しっかりと告発している。
 私はイギリス人ではないし、イギリス人の友人もいない。シェークスピアと、その他の小説、映画でしかイギリスを知らないが、このシーンはほんとうにびっくりした。イギリス人なら、もっとびっくりしたのではないかと思う。
 このびっくりシーン(エピソード)のほかに、美しいシーン(見どころのシーン)がいくつもある。
 私が好きなのは、金に困ったデイブ・ジョーンズが家具を売るシーン。大工道具と魚のモービルは売らない。大工道具は彼のアイデンティーだからというのはすぐにわかる。しかしモービルは最初はなぜなのかわからない。やがて彼が妻のことを語る。海のことを語る。そのときになって(そのことばによって)、あ、あれは妻のためにつくったモービルだと観客にわかる。痴呆症の妻を介護したときのことを語る、その記憶のなかで、そのことばのなかで、モービルの魚がゆっくりと動く。そういうシーンはないのだが、妻のことを語ることばを聞きながら、私のなかで魚が生きているように動く。その魚の動きを見てこころを落ち着かせる妻になった気持ちになる。
 何もかもうまく行かず(ヘイリー・スクワイアーズに人間の尊厳だけは捨てるな、ということも伝わらず)、落ち込んでしまったデイブ・ジョーンズの家にヘイリー・スクワイアーズの娘がやってくる。そして、「前に私たちを助けてくれたでしょ」と言い、続けて「今度は私たちに助けさせて」と言う。ここは、涙なしでは見られない。「助けてくれ」と言うのは、ひとは困ったときだれでも言うかもしれない。けれど「助けさせてくれ」というのは、うーん、さすがシェークスピアの国。英語で何というのかわからないが、とてもいいなあ。助けられることは「尊厳の否定」にはならない。ひとは助け合って尊厳をまもるのだというメッセージが強烈に伝わってくる。このせりふを少女に言わせたのも、とてもいい。少女に何ができるか、それは問題ではない。少女が、弱者が「助けさせて」と言うところが、強烈なのである。
 前後するが、この少女が、学校でいじめにあったことをヘイリー・スクワイアーズに語るシーンもいいなあ。「助けて」とちゃんと言えるのだ。「助けて」ときちんと言えることは強いことなのだとわかる。ストーリーを動かすためのエピソードと見えたものが、強烈な真実となって噴出してくる。こういう映画は好きだなあ。
                      (KBCシネマ2、2017年03月19日)

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